ストーリー陸上

ボイコットから40年 瀬古利彦が語る 幻のモスクワ

2020-06-08 午後 06:45

40年前の1980年5月24日、JOC臨時総会でモスクワオリンピックへの日本の不参加が決定しました。出場エントリー締め切り当日の決断。柔道の山下泰裕やレスリングの高田裕司など、金メダル有力と言われた選手たちの願いは、厚い国際政治の壁に阻まれました。

サンデースポーツ2020では、当時マラソンでメダル有力とされながらモスクワを走ることができなかった瀬古利彦さんに生出演でインタビュー。幻となったオリンピックは日本のスポーツに何を残したのか。新型コロナウイルス感染拡大で東京オリンピック・パラリンピックが延期となった今、考えます。

ソ連とアメリカ 日本は国際政治の波にのまれ

日本のオリンピック不参加の決定。その背景にあったのは、開催国であるソ連のアフガニスタン侵攻でした。当時、ソ連と東西冷戦で対立していたアメリカは、カーター大統領が「アメリカ国民はモスクワに行くべきではないと確信している。自由を信じる民主主義の国は行かない」と発言。ボイコットを表明しました。

そのアメリカの決定に、日本をはじめ西側諸国が同調します。当時の大平正芳内閣の官房長官、伊東正義は「モスクワオリンピック大会に選手団を派遣することは望ましくない」と表明。182名が派遣される予定だった日本選手たちは競技の枠を超えて団結し、最後まで出場を訴えていましたが、その願いはかないませんでした。

 

 

結果、モスクワオリンピックは、日本、アメリカ、西ドイツなど64の国が参加しない大会となりました。イギリスなどの一部の選手は国の方針に従わずに出場したものの、西側諸国の多くの選手はモスクワの地を踏むことはありませんでした。

全盛期だった マラソン・瀬古利彦

現在、日本陸上競技連盟のマラソン強化戦略プロジェクトリーダーを務める、瀬古利彦さん。1980年当時24歳。世界の男子マラソンをリードする存在として、金メダルの有力候補に挙げられていました。

 

 

瀬古利彦さん

「もうあれから40年、早いものですね。正直あの時は悔しいという気持ちはあまりなかったんです。ショックはショックでしたけど、(オリンピックという)目標がもう目の前にあったのにギリギリまで待たされて、早く決定を知りたかった。あの年は1月ごろから、アメリカがオリンピックをボイコットするんじゃないかという話はずっと聞いていたので。正式に決まった時は『ああ、やっぱりか』と感じましたね。」

 

瀬古さんはモスクワの不参加の後も国際レースで優勝するなど実績を残します。その年の福岡国際マラソンでは、モスクワの金メダリスト・チェルピンスキー選手(東ドイツ)に勝ち優勝。しかし優勝候補と言われた84年のロサンゼルス大会、故障を乗り越えて出場した88年のソウル大会では共にメダルには届きませんでした。今振り返れば、瀬古さん自身が考える「全盛期」は、やはりモスクワで走るはずの時期にあったのです。

 

 

瀬古さん

「自分で思うには1980年の前後、78年から82年あたりがピークだったと思います。当時は走っても全然疲れないし、何も考えなくても走れましたから。4年の間に体も変わるし人生も変わるんですよ。やっぱりひとつチャンスを逃すと、オリンピックはなかなか取れないですよね。」

1980年 選手たちの立場は

選手の力ではどうにもならないものともいえる国際政治の壁に直面した、1980年の選手たち。当時のニュース映像には、五輪参加を求める選手たちの切実な訴えが記録されています。

 

 

柔道の山下選手、レスリングの高田選手らは、子供のころから夢見てきたオリンピックへの思いを、涙ながらに語っていました。

それでも叶わなかった五輪参加。40年前の選手たちの発言力や立場はどのようなものだったのか、瀬古さんは語りました。

 

瀬古さん

「当時、我々はあまり上に声をかけちゃいけないと、あまり思うことを言っちゃいけないという習慣がありました。山下君も泣かれていましたけど、あまり声を上げられなかったです。」

 

 

「アスリートファースト」という言葉はもちろんなかった当時、選手たちの声は政治情勢の前に阻まれてしまいました。

ボイコット当時の関係者を取材し本にまとめたジャーナリストの松瀬学さんは、出場できなかった選手たちから「失望、やり場のない怒り」を感じたと言います。本来自由なはずのスポーツに政治が干渉してきた1980年。このことから、今のスポーツ界が学ぶべきことがあると考えています。

 

 

松瀬学さん

「ひとつは『自立』。スポーツ界、競技団体は経済的に自立することが必要だと思います。そしてアスリートたちが自分たちを律する『自律』です。自分たちがガバナンス、コンプライアンス、誠実さ。これをきっちり自覚して守らないと、どうしても国からコントロールされることになりますよね。それをきっちりと意識してスポーツを守っていく。自分たちで判断して行動していく。そういったことが必要になると思います。」

 

声を上げられなかったと40年前を振り返る瀬古さんは今、自身の経験から現代の選手たちにこう呼びかけました。

 

瀬古さん

自分たちは声を上げられなかった。だから今の選手たちはどんどん声を上げて、思うことを言ってほしい。自分の言いたい事、やりたい事をどんどん発信してほしいと思います。」

1980→2020、そして2021年の東京へ

 

選手としての全盛期にオリンピックを走るチャンスを奪われた瀬古さん。モスクワの悲しい出来事は、マラソンの選手強化に取り組む立場になった今に生かされています。
世界的なウイルス感染拡大のために1年延期された東京オリンピック・パラリンピック。スポーツ界全体が大きく揺れる中で、瀬古さんは延期決定の翌日に内定した代表選手を変更しないと表明しました。

 

瀬古さん

「モスクワオリンピックの時、なかなかJOCが代表メンバーを発表してくれなかったんですよね。オリンピックに出られるのか出られないのか、分からない中で選手は集中して練習できないですよ。そういう意味で選手たちには、出るメンバーを変えないよと早く伝えて、練習に集中させてあげたかったという思いです。」

 

世界的なパンデミックの収束が見えない中、1年後の東京大会も開催ができるのか不安の声が上がっています。40年前の悲しい出来事を経験した瀬古さんは、若い選手たちへの思いを力強く語りました。

 

瀬古さん

「不安は当然僕らもあります。本当に来年できるだろうか。でもそれを思ったらもうおしまいですから。我々が前向きでいればね、絶対あると信じてやっています。スポーツ選手が後ろ向きになっちゃいけないんですよ。人間は思うようにいかない事はいっぱいありますから。それは自分が強くなるチャンスだと思ってね、私はやって来ました。今選手たちは練習場所も限られて試合もない、思うようにいかない環境の中でやっております。でもいいチャンスだと思って、これを乗り越えたら必ずひとつステージが上がるんじゃないかと思って、辛抱しなきゃいけないです。辛抱しただけ、僕は強くなると思っているのでね。」

 

 

瀬古さん

「高校野球やインターハイの中止のニュースを聞いて、僕も悲しく思います。僕らもボイコットの時、本当は悲しかった。でも、人間に乗り越えられない試練なんかないですから。必ず乗り越えられます。そう思ってやらなきゃいけないですね。」

 

瀬古さんらしい、明るく前向きに選手たちを鼓舞する姿。その根本には、モスクワ五輪ボイコットの記憶が深く刻まれているのでしょう。番組の最後、瀬古さんはポツリと本音と思える言葉を残しました。その笑みには、40年変わることのないアスリートとしての思いがにじんでいるようでした。

 

瀬古さん

「悲しい悲しいと言っていても前に進まない。それをずっと抑えて僕はやって来ました。でも年を取るとね、だんだん悔しくなってきました(笑)。」

 

 


 

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