特集 さらば「稀勢の里」最後に語る土俵人生秘話

大相撲で2回の優勝を果たし、今年1月に引退した元横綱・稀勢の里の荒磯親方。9月に行われた断髪式の直前、NHKの単独インタビューに応じました。多くの相撲ファンの期待を一身に受けながら、試練が続いた日々にどう向き合い、乗り越えてきたのか。カメラの前で語りました。
平成14年 15歳の入門
9月29日放送のサンデースポーツ2020。元横綱・稀勢の里のNHKで「最後のまげ姿」となるインタビューが放送されました。引退から8か月。すでに大相撲中継などでは、論理的かつ明快な解説で人気を博す親方としての姿を見せていましたが、今回のインタビューは親方の17年の相撲人生をじっくり振り返ってもらうもの。自然とその映像に映る姿は、かつての「横綱」としての佇まいを感じさせるものでした。
話はまず平成14年、15歳で入門したころのことから。その後の土俵人生からは意外とも思える、当時の少年「萩原」の心の内を明かしました。
「いや僕ね、あんまり性格的に高い目標を持つタイプじゃなかったんです。まず相撲界に入った時の目標が、『二十歳までに三段目に上がれなかったら辞めよう』と思っていました。ただそれだけだったんですよ。横綱になるとか、そんな気持ちで入ってこなかったのでね。でも早く強くなりたいなとは思っていました。そんな感じのね、『現実的な少年』だったんです。」
そんな萩原少年の人生を変えたのが、先代の鳴戸親方(元横綱・隆の里)でした。猛稽古で知られた鳴戸部屋。NHKの取材映像には、声を上げながら何度も土俵に転がされる萩原に対して、親方が厳しい指導する姿が残されています。
鳴戸親方
「お前はちゃんと奥歯を噛んでいないからそういう声が出るわけだ。奥歯噛んでたらそういう音が出るか?“あーっ”とか声を出すのは“弱い音”だ。弱音なんだ。」
「先代の親方はね、いやぁもう、厳しかったですよ。やっぱり力士というのはこういうものだと、先代の親方に教えてもらいました。そして親方が亡くなってからもね、教えてもらったことを貫いて、一生懸命やってきました。今思うと、その教えがなかったら横綱まで上がれなかったでしょうね。僕はすぐ調子に乗るタイプだったので、人間的に成長できなかったと思います。本当に親方のおかげでここまでこれたんだと思います。」
18歳の新入幕と、モンゴル勢の“壁”
入門時に掲げた目標とは裏腹に、萩原は番付を駆けあがります。平成16年九州場所では、元横綱・貴乃花に次ぐ史上2番目の年少記録、18歳3か月で新入幕。
この時親方がつけたしこ名「稀勢の里」の名の通り、「稀なる勢いで」歩みを進めます。しかしその先に待っていたのは、悠然と立ちはだかる“壁”。当時の横綱・朝青龍をはじめとした、外国出身力士たちでした。
「朝青龍さんは、すごい存在感がありましたよ。まあボコボコにされました。でもそれが力になりましたし、僕はあの人に強くしてもらった部分がありますからね。僕の場合は本当に、あの外国出身の横綱たち(朝青龍、白鵬、日馬富士、鶴竜)に強くさせてもらったなと。あの人たちがいなかったら、今の僕もいないですから。」
平成22年 “63連勝”白鵬を止めた日
平成22年九州場所。この場所の最大の注目は横綱・白鵬の連勝記録でした。この場所を前頭筆頭で迎えていた稀勢の里。白鵬との対戦は2日目。立ち合いから激しい相撲の中で稀勢の里は攻め続け、白鵬を寄り切りで下します。連勝記録を“63”で止めた、歴史の残る一番でした。
「(白鵬戦の)あの朝も、いつものように親方から指導されたんですけど、最後に『勝ってもガッツポーズするなよ』って言われたんですよね。それで『自分勝てるのかな。勝つんだな、今日は』という気持ちになって。言葉のマジックじゃないですけど、いつも以上に気持ちよく相撲をとれたことは覚えています。」
「(白鵬という)すごく強い横綱がいたから、その連勝を阻止できたわけだし価値もあった。自分の優勝は少なかったですけど、本当に強い横綱がいた時代に2度優勝したことを誇りに思ってね、これから生きていきたいと思いますね。」
“マンデーブルー”
平成24年。新入幕から7年余りをかけて新大関に。白鵬、日馬富士、鶴竜というモンゴル出身横綱たちに立ち向かっていく稀勢の里には「綱取り」への期待が高まっていきました。
しかし、その度に壁に跳ね返される日々がここから丸4年近く続きます。稀勢の里にとってこの「横綱への道」は長く遠い、そして苦しみをもたらすものでした。
「いやぁ、遠かったです。本当に苦しかったですね。なかなか周囲の声に応えられないのは本当に辛くてね。“マンデーブルー”というんですかね、千秋楽翌日の月曜日はもう最悪ですよね。『また優勝できなかった。またか。』って。自分には何が足りなかったんだろうね。詰めの甘さもありますし、心の弱さ、そういう部分はあったのかな。」
長い足踏みが続く稀勢の里。そこからもう一段駆け上がるきっかけとなったのは、ひとりの先輩横綱からの言葉でした。
横綱・日馬富士の言葉
「横綱昇進の4か月くらい前かな。日馬富士に食事に誘われたんです。現役の横綱に誘われるなんてほとんどないことなんですけど、『どうしても伝えたいことがあるから来てくれ』って言われて。その時に言われたんです。『お前は全然相撲のことを考えていない。本当に横綱になるんだったら、24時間相撲のことを、相撲の神様のことをしっかり考えないと昇進はできないんだ』って。そんなことを夜まで話しました。僕も確かにそんなに強烈に相撲のことを考えたことなかったなと。そこでこうグッと、何か気持ちが変わりました。」
――平成29年初場所。稀勢の里、初優勝。千秋楽には大きな壁の一人、横綱・白鵬にも勝利し、まさに初優勝と横綱昇進の「両手に花」。
そして、続く新横綱の場所は稀勢の里の土俵人生のハイライトといえるものになりました。
平成29年 新横綱の場所で
――平成29年春場所 13日目。日馬富士戦。相手の寄り倒しを受けて土俵下に転落した稀勢の里の表情は苦悶に満ちていました。
「ブチっていう筋肉が切れる音が…相当な痛みと共にしました。その音でびっくしりてね、なかなか立ち上がることができなかったんですけど。でも、『ここで諦めたら男じゃないぞ』くらいの気持ちでしたね。」
稀勢の里は、最後まで土俵に上がり続けました。
――平成29年春場所千秋楽、優勝決定戦。照ノ富士戦。相手のもろ手突きに耐え、土俵際で体を入れ替えて小手投げ。両者土俵下に落ちますが、軍配は稀勢の里に。新横綱の場所で、2度目の優勝。
数十分後の表彰式、稀勢の里の目には大粒の涙が光りました。その涙について話を向けると、照れ隠しのような豪快な笑い声をあげながら、心の内を語りました。
「はっはっは!いやね、いい大人が泣くなよって話ですけど。どうしても感情が出てしまって、見苦しいものを見せてしまいました。でも感情をコントロールできませんでしたね、あの時は。」
土俵は人生の縮図
ケガを押してつかんだ連覇。その代償は、「8場所連続休場」という苦しすぎる日々でした。
「このまま引退するか、それとも頑張るか。毎日葛藤しながらやっていました。ヤッパリファンの人たちにもう一度、いい姿を見せたいと思いましたし。まあ本当にいろいろなことがあってなかなか優勝できなかったし、最後は相撲でももう勝てなくなったんですけど、ファンの人たちだけは最後まで応援してくださった。ファンの人たちのために復活するぞ、まだまだ諦めないぞ、って思いを持ってやっていました。いやぁ、ありがたかったです。本当にありがたかったですね。」
――平成31年1月。横綱稀勢の里、引退表明。
「まずは三段目」を目標に相撲界に入った少年は、最後に「横綱」の番付までたどり着き、17年の土俵人生を終えました。
「よく『土俵の中は人生の縮図だ』と言われました。やっぱり生き様が出るんですよね。ちゃんとやっている人間がそこで花開くと僕は思うし、相撲の神様は見ているんだと思ってやっていました。」
引退から8か月。元横綱に対して、多少酷かもしれない質問をあえてぶつけてみました。
「もし、戻れるならいつの自分に戻りたいですか」
と問うと、その答えは。
「ケガをした後に戻りたいですね。ケガへの対処の仕方を研究して、また強くなりたかったですから。」
断髪式 涙と笑顔
――引退発表からおよそ9カ月。稀勢の里改め荒磯親方の断髪式。常に背中を追い続けた外国出身横綱たちも、はさみをいれます。横綱・白鵬。そして元横綱・日馬富士…。この時の荒磯親方の目には、涙がありました。
「本当に人に恵まれましたね。色々な人との出会いがあった相撲人生。応援してくれるファンの方もついてきてくれた。最後はああいう幕切れになってしまいましたけど、まさしく『一片の悔いなし』。そんな相撲人生でした。」
まげを落とし、オールバック風に髪をセットしてもらう荒磯親方の顔には、にこやかな笑み。そして、多くの相撲ファンの心を打ち続けた元横綱は笑顔で相撲人生の再スタートを切りました。