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特集 おすもうさんの髪を整え守る"すき油"のおはなし

相撲 2020年7月17日(金) 午後5:27

大相撲7月場所の開催が決まりましたね。両国国技館収容可能人数の4分の1程度に限定しお客さまにもご来場いただいての開催、というサプライズな発表とともに、にわかにあわただしくなった関係者の声も聞こえてくるようになりました。熱戦が見られる期待と喜びとともに、おすもうさんはじめ関係者のみなさまも、そしてチケットを取ることができたお客さまも、感染症予防対策を万全に初日から千秋楽まで無事完走できることを願っています。

今回はそんな大相撲周辺に関わる職人さんのおはなしです。スポーツコラムとしてはやや肌合いが異なりますが、大相撲は日本の伝統産業を担う職人さんたちによっても支えられていることを感じていただければと思います。しばしおつきあいください。

すき油とは

 

締め込みひとつで激しくぶつかる姿、涼しげに悠々と歩く和装姿…錦絵から抜け出てきたような粋な魅力を漂わせているおすもうさんですが、その姿で最も特徴的なものは大銀杏(おおいちょう)などの髷(まげ)ではないでしょうか。おすもうさんが相撲人生に終止符を打つとき、髷を落とす「断髪式」をもってひとつの区切りをつけます。髷はおすもうさんであることを示す象徴的な存在です。

その髷を整え、しっかり維持する役割を果たしているのがすき油、通称「びんつけ油(鬢付け油)」です。現在おすもうさん用のすき油を生産しているのは、日本髪の整髪油をメインにつくる東京の島田さんのお店ただ一軒だけとなりました。(以下、この記事内ではこちらで生産しているおすもうさん用すき油を【すき油】と記述します)

材料のメインはもくろう

 

【すき油】は、もくろう(木蝋)、なたね油、ひまし油、数種類の香料などを材料につくられています。メインの材料であるもくろうはハゼ(櫨)が原料。生産地によってツヤやねばりにやや違いがあるそうで、いまは九州産のものを使っています。かつては海外産のハゼからつくられたもくろうで試作してみたこともあったそうですが、ねばり気が出てこなかったり固まりにくかったりつやが出なかったり…など【すき油】つくりには向かなかったそうです。

 

もくろうはゆっくり天日干しして白くなったものを使用。秋廣さんたちがもくろうの製造所から耳にした話によると、効率性や安定性を求めて薬品や機械を使って乾燥させてみたこともあったそうですが、品質が落ちてしまうなどの問題が出てしまったとか。昔ながらの方法で時間と手間をかけてつくられたもくろうが【すき油】づくりには適しているようで、材料ひとつをとってみても奥が深い世界です。

硬さのおはなし

 

日本髪を結う時に使う整髪油は硬さ別におよそ3種類。やわらかい順に、「すき油」「中ねり」「びんつけ油」。材料は同じですがその配分量がやや異なります。

 

【すき油】は名前こそ“すき油”ですが、実はつくられはじめた当時のものより少しずつ硬くなってきています。秋廣さんがまだ別のお店で働いていたころ、床山さんからお店に「大相撲用のすき油をつくって欲しい」と依頼がきました。当初は依頼どおりやわらかい「すき油」をつくりましたが、月日を経て床山さんたちから少しずつ硬めのものを要求されるようになってきました。激しい動きをするおすもうさんの髪が崩れにくいように、との考えからでしょうか。今では【すき油】は「中ねり」よりさらに硬い「びんつけ油」寄りの硬さになっています。商品名はすき油なのに中身はかなりびんつけ油ということで、ちょっとややこしいですね(笑)。

 

「もう少しねばりのある油が欲しい」と要望された床山さんのために、ねばり気の強い特別な配合の【すき油】もつくっています。また髪の癖が強いおすもうさんの髷を結う時にはしっかり硬い「びんつけ油」を併用する床山さんもいるそうです。

 

ちなみに【すき油】は季節によって微妙に硬さを変えて生産されています。夏は暑さと湿気で油が溶けやすいので硬めに、冬は寒さと乾燥で油が硬くなってしまうのでやわらかめに。秋廣さんたちはそれぞれを「夏練り」「冬練り」と言って区別しています。床山さんが髪を結いやすいように、気候を読みながら季節の移り変わりにあわせて少しずつ硬くしていったりやわらかくしていったり…と、ゆるやかに変化させています。【すき油】の中にはそんな繊細な心遣いが一緒に溶け込んで床山さんたちの仕事を支えています。

独特な甘い香りの誕生

 

姿は見えないけれど「近くにおすもうさんがいる」と周りを見渡した経験のある方は実は多いのではないでしょうか。風に乗ってふわりと漂ってくる甘く芳しい独特な香り…あれが【すき油】の香りです。現在ではあの香りが“おすもうさんの香り”として定着しています。

ただ、この【すき油】のかたまりを鼻に近づけてみると甘いだけではないとすぐに気がつきます。むしろピリッとスパイシーで野太く強く、芯に“何者にも負けない”という信念のような香りあるように感じられます(感じ方には個人差があります)。

 

床山さんから生産依頼を受けたときの最初の試作品は、実は無香料だったそうですよ。おすもうさんらしい香りをつけてほしい、と要望があり、とりあえず手元にあった香料を入れて再び試行錯誤。「もう少し甘い香りがほしいなぁ」と要求されて甘くしてみたところ気に入っていただけたそうで、その後この【すき油】が床山さんたちの間で好まれ、広まっていきました。

 

ちなみにあの甘い香りの主な正体は「バニラ」。そう言われてみればおいしそうな香りでもありますよね(笑)。バニラのほかにもお花や宝石の名前がついた香料を独自の配分で調合し、あの複雑で芳しい香りが表現されています。汗のにおいなどを上手に隠す実用性もあり、おすもうさんにも大相撲ファンにも広く愛されている香りです。

 

かつて別の生産者がつくっていた油からは「すみれの花の香りがした」「梅の花の香りがした」と言われています。いまではその香りがどんなものだったかは謎のベールにつつまれています。香りは消えもの…調合が書かれた資料がない(と思われる)今となっては再現が困難ですが、そういった伝説的な話があるのもまた長い歴史を持つ大相撲らしい魅力のひとつで好奇心と想像力をかきたてられます。謎のままにしておくのが案外“粋”なのかもしれません(?)。

【すき油】生産の流れ

【すき油】はイラストのような工程でつくられています。

 

新型コロナウイルスの影響

 

今年の前半は新型コロナウイルスの感染拡大により、春巡業および夏場所が中止になりました。6月下旬に近況をうかがったところ、この4か月間床山さんたちからの受注に大きな変化はなかったとのことです。稽古が減り髪を整える機会はやや少なくなったと思われますが需要は続いていました。ただし本場所や巡業、イベントなどでのお客様向けの店頭販売がなくなってしまったため、そちらは大幅減となってしまいました。

ちなみに【すき油】は例年3~4月ごろから少しずつ徐々に硬めにしていき、5月ごろに完全な夏練りでつくることが多いのですが、今年は“しばらくは出庫が減るだろう”と見込み、3月の春場所前には完全な夏練りの生産に入っていたそうです。

 

7月場所開催に向けておすもうさんたちの稽古量が増え始めた時期から、床山さんたちからの注文もまた活発になってきて生産に追われました。写真は陽次さんの奥さまに撮影していただいた7月3日と7日の生産の様子です。七月場所無事開催への祈りが込められた【すき油】は、いまも順次床山さんたちの手元に届けられています。感染症予防対策として、配送時はマスクを必ず着用。届け先に到着したら玄関先から電話をかけて外へ出てきてもらい受け渡しをしているそうです(状況により例外あり)。

 

4か月の間をあけて7月19日(日)から始まる大相撲7月場所。土俵上の取組はもちろんですが、両国国技館に漂う“おすもうさんたちの香り”とそれをつくる職人さんに、ちょっとだけ想いを馳せて放送をご覧になってみてくださいね。

たきもとかよ

イラストレーター。相撲雑誌などスポーツのイラストを中心に活動。

 

 

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