ストーリーパラスポーツ

ボートで変わった人生 元難民コーチが目指すパラリンピック

2019-07-09 午後 04:48

パラリンピック正式競技「ボート」。日本はこれまで1人乗りや2人乗りではパラリンピックに出場した事がありますが、4人乗りは出場した事がなく2020年の東京大会で初出場を目指しています。

 

この競技の指導者で元選手の倉木健治さん37歳。足に障害があります。そして、倉木さんはカンボジア内戦から日本に亡命してきた「元難民」。国籍や障害のため人生で何度も壁にぶつかりながら、指導者として東京パラリンピックを目指す倉木さん。ボートと共に人生を歩んできた一人の男性のストーリーです。

互いの特徴を理解して漕ぐ

神奈川県、相模湖の湖面に響く、ボート特有の掛け声。

 

「キャッチ!ロー!キャッチ!ロー!」

 

 

この湖を拠点に活動する、障害者のボートチーム「湖猿」。日本代表候補をはじめ、ほかの競技から転向した選手や、知的障害の選手などおよそ40人が所属しています。

 

このチームでコーチをしているのが倉木健治さんです。倉木さんは自らボートに乗り、声をかけながら指導にあたります。

 

「音聞いて音!自分の動きが速いのか、遅いのか、キャッチの音聞いてごらん!」

 

 

2000mの直線でタイムを競うこの競技。4人乗りのクラスでは視覚障害の選手と肢体不自由の選手、男女ふたりずつがひとつのボートに乗ります。視覚障害の選手は、水に入るオールの音やシートが動く音でタイミングを合わせ、肢体不自由の選手は目の役割を担います。「キャッチ」の声でオールを水に入れ、「ロー」の声で一気に漕ぐ。この動きが揃わなければスピードに乗ることができません。お互いの身体的特徴を理解し、息を合わせることが重要です。

 

倉木さんは、2年前まで選手として活動していました。今は会社に勤めるかたわら、週末は自ら立ち上げたクラブチームで指導・運営にあたっています。引退し指導者となった今、倉木さんは選手たちにボートにかける自分の思いを、こう語りかけています。

 

 

「今僕が思う事は、パラ代表候補のメンバーに2020に行ってもらえる事。それが“俺の救い”だと、そう思ってます。」

「暗い」人生を変えたボート

倉木さんは元難民です。1970年から20年以上続いたカンボジア内戦のさなか、タイの難民キャンプに逃れていたカンボジア人の両親のもとに生まれました。4歳の時に両親とともに日本へ亡命。直後にポリオを患い、左足に障害が残りました。

 

 

難民である事、そして障害がある事。幼少期の倉木さんが感じた周囲の目は、決してあたたかいものではありませんでした。

 

「ボートに出会う前はどんな人生だったんですか?」
ディレクターの問いに倉木さんは一息置いて答えました。

 

倉木健治さん

「暗い」のひと言ですね。まず歩き方をまねされる。歩くのが人より遅かったので、もっと速く歩けとか言われる。楽しい思い出はほぼないです。思い出というか記憶にあるのは、いじめ。あと外国人差別。

 

そんな倉木さんの暗い心に光がさしたのは高校時代。ボート部への入部したことがきっかけでした。当時の様子を取材した映像がNHKに残されていました。

 

高校時代の倉木さん

最初は自分、モーターボートだと思ったんです。それで部に入って、まさか今みたいにボートをこぐとは思わなかったので、今でも不思議に思います。

 

ボートは足でふんばる力が大切ですが、倉木さんは自由に動く右足だけを猛トレーニング。ほかの選手に負けない力を身につけます。健常者のなかで戦い、全国で7位になるなど好成績を残しました。

倉木健治さん

運動できなかった自分が運動できてる、やればできるんだと思いました。ボートに乗っているときは同じフィールドにいるんで、その時は障害者も健常者も関係ないんだって思いました。人生は変わりましたね。自分よりもむしろ周りの人が来てくれるんだと。

選手として 届かなかったパラリンピック

ボートと出会い人生が変わった倉木さん。心にはある思いが芽生えます。

 

 

「自分は何者か、何ができるのか試したい。」

 

倉木さんは高校卒業後、選手としてパラリンピック出場を目指しますが、大きな壁がありました。難民として亡命した倉木さんには、日本の国籍がなかったのです。日本国籍取得のため動き出した倉木さんは、両親の母国・カンボジアの大使館に働きかけますが、そこで受けた対応は冷たいものでした。

 

倉木健治さん

大使館に行ったんですけど、門前払いされてしまったんです。そこで言われたのが、「君は国を捨てて亡命したんだから、ここでは面倒見れない」と。

 

結局日本国籍が取得できたのは、申請から7年後。32歳のとき。ボートがパラリンピックの正式競技になった2008年の北京大会も、2012年のロンドン大会もすでに終わっていました。さらに2016年のリオ大会を目指しますが、障害の条件があうメンバーが見つからず出場できませんでした。2020年の東京大会は選手として臨める最後のチャンスと考えていましたが、ここで左足の病気が悪化。

 

 

そして、おととし引退を決断しました。

自分のアイデンティティは

それでも、倉木さんはボートに携わることをやめませんでした。選手ではなく指導者、そしてクラブの運営者として、毎週末クラブチームの活動に力を注ぎます。

その倉木さんを、妻と二人の娘も応援しています。

 

妻・美穂さん

楽しそうですよね。知らない間にどんどんいろんな方とつながりが出来ていて。自分が納得するところまで行ったらいいんじゃないかと思ってます。

 

そして、クラブには倉木さんの思いを受け継ぐ選手がいます。湖猿に所属する日本代表候補、視覚障害がある有安諒平選手です。

 

「倉木さんの分も一緒に。」その思いで2020を目指します。

 

有安諒平選手

「倉木さんの達成できなかった夢も一緒にやっていこうぜ!」という思いで競技をやっているので。倉木さんの思い、クラブの全員の思いも持って、しっかりパラリンピック代表になって活躍できるようになりたいと思います。

 

ボートと生きた20年。人生の荒波を乗り越え、倉木さんは仲間と一緒に東京パラリンピックを目指します。

 

倉木健治さん

引退に後悔はないです。ボートに携わっていればそれでいいかなと。自分にとっては、ボートは「生涯スポーツ」。体の「障害」じゃなく人生と共にある「生涯」スポーツですから。

 




※こちらは、2019年7月9日に公開された記事です。内容は公開時のものとなります。

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