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東京オリンピックに懸けた男 田畑政治

2019-07-24 午後 02:00

1964年の東京オリンピック招致の立役者“田畑政治”という人物をご存知でしょうか?

第二次世界大戦の敗戦から復興途中だった日本で、オリンピックを開催するまでの道のりは決して楽なものではありませんでした。
前回の東京オリンピック開催に至るまでの秘話をご紹介します。

幻の“1940年東京オリンピック”

1912年のストックホルム大会、日本のオリンピック初参加を実現させたのは“伝説の柔道家”嘉納治五郎でした。嘉納は初参加から24年後の1936年、ベルリンでのIOC総会で “1940年東京オリンピック”招致に成功します。しかし、その翌年オリンピック開催に暗雲がたちこめます。

 

嘉納治五郎氏

 

盧溝橋事件をきっかけに中国と日本は全面戦争へ。
「戦争を中止しなければ東京での開催は認められない」と日本は国際社会から強い批判を受けることになりました。それでも、嘉納は「争いが起こった今こそスポーツのチカラが必要だ!」と1938年にエジプト・カイロで開かれたIOC総会に乗り込み、各国の委員たちを説得したのです。

 

嘉納の想いは委員たちに届き、予定通り開催が決定。しかし、嘉納はその帰路の船上で体調を崩し、帰らぬ人となってしまいます。嘉納の死後、日本は日中開戦をきっかけに開催権を返上し、太平洋戦争へと突き進みます。やっとの思いで勝ち取った東京オリンピック開催は、幻となってしまったのです。

 

幻の1940年東京オリンピック宣伝パンフレット

東京開催のカギを握る!嘉納治五郎の意思を継ぐ者

幻に終わった1940年の東京オリンピックですが、嘉納はこの大会を実現させるためにある人物に目を付けていました。その人物こそが、アムステルダム大会での金メダリスト・男子200m平泳ぎの鶴田義行選手を育成した競泳の指導者・田畑政治でした。

 

1930年代、日本は競泳で一時代を築いていました。そんな中、持ち上がったオリンピック招致。

 

嘉納から相談を受けた田畑は「世界に東京開催を認めさせるためには競泳しかない」と1932年開催のロサンゼルス大会に意欲を燃やします。結果、日本は18種目中12個のメダルを獲得。男子100m背泳ぎでは表彰台を日本が独占する快挙を成し遂げました。

 

1932年ロサンゼルス大会・男子1500m自由形決勝で北村久寿雄選手(手前)が1位、牧野正蔵選手が2位

 

その後、田畑は戦争で多くの教え子を失いました。しかし屈することはなく、「負け、誇りを失った今こそオリンピックは必要」と考え、なんと敗戦から2か月後に日本水泳連盟を再建します。

 

しかし、当時の日本は、国際社会から「戦争を引き起こした憎むべき国」と厳しい目を向けられており、オリンピック参加は困難な状況でした。

 

嘉納亡き後、オリンピック事業を引っ張るリーダー的存在になった田畑。

 

1948年、IOCに戦後初のオリンピック参加を打診するも、日本は参加を認められませんでした。その結果に納得のいかなかった田畑は、まさかの行動に出ます。

 

1948年、ロンドンオリンピックの競泳決勝の同日同時刻に水泳の日本選手権を行ったのです。大会同士をぶつけて、記録で日本の存在感をアピールする作戦でした。

 

水泳で世界記録を樹立した古橋広之進選手(右)、橋爪四郎選手(左)

 

それだけでは満足しなかった田畑は、翌年、オリンピック覇者のアメリカに直接対決を申し込みます。会場のロサンゼルスには強い反日感情が残っていましたが、日本陣営の圧倒的な泳ぎに全米が熱狂!これを機に日本の水泳連盟は国際社会に復帰することとなります。

 

水泳連盟や各スポーツ協会がIOCへ復帰した日本は、1952年に戦後初のオリンピック参加を果たし、田畑は日本選手の団長を務めることに。そして、嘉納が実現することのできなかった東京オリンピック開催を再び目指します。

 

しかし、戦後の復興途中で日本人の生活も苦しい時代。

 

日本国内でもオリンピックの開催は厳しいだろうと思われていました。そんな逆境にあって、田畑は政府を納得させるために独自でオリンピックの経済効果を試算、ついに政府を納得させることに成功したのです。

 

手前で頭を抑えているのは田畑政治氏

異例尽くしの“1964年東京オリンピック”の開催

田畑は、1959年ドイツ・ミュンヘンで開かれたIOC総会で、外交官の平沢和重にプレゼンを託しました。嘉納が船上で亡くなった時たまたま乗り合わせ、嘉納の最期を看取った人物です。

 

 

なんと結果は、2位の国の3倍以上の票を得て圧勝!こうして田畑はオリンピックの招致に成功。その責任者になりました。

 

開催が決まり、田畑は、オリンピックでスポーツと平和のすばらしさを伝えようと前例のない10万人聖火リレーを企画。ギリシャ・アテネで採火された聖火は、第2次世界大戦で戦場となったアジアの国々を46日間かけてめぐり、10万人の手によって東京に届けられたのです。

 

聖火を点火した坂井義則氏

 

聖火リレーの最後に国立競技場を走ったのは、原爆投下の日に広島で生まれた青年でした。

 

さらに閉会式では、選手たちは国ごとではなく自由に他国の選手たちと手を取り合って行進。この光景は世界に鮮烈な印象を与えます。この国籍に関係なく手を取り合うスタイルは、のちに平和の祭典・オリンピックのシンボルとして受け継がれていくこととなりました。

初の参加から108年、2020東京オリンピック

嘉納治五郎の意思を引き継ぎ、東京でのオリンピック開催を実現させた田畑政治。彼はオリンピック後も長年にわたって水泳の指導を続け、今日に続く競泳日本の布石を数多く残しました。

 

晩年、自らの著書で、田畑はこう語っています。

 

――私の年代は誰しも戦争を経験しているが戦争ほど忌まわしいものはない。だがスポーツは戦争が生み出すとげとげしい空気を和らげうらみまでもながしてしまう。人類にとってこれほどすばらしく国際親善の実をあげる行事が他にあるだろうか――

 

 

日本が初のオリンピック選手を送りだしてから100年以上が経ち、前回の東京オリンピックからも半世紀以上の時が過ぎました。2020年の東京オリンピック開催はのちの世でどのように語られるのでしょうか。素晴らしい歴史の一ページになるよう、みんなで盛り上げましょう!

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