ストーリーパラスポーツ

伊藤智也は「人生山あり谷あり」 57歳で挑むパラリンピック

2020-01-22 午後 01:44

1月5日放送のサンデースポーツ2020では、東京オリンピック、パラリンピックで活躍が期待されるアスリートたちをゲストに招き、2020年を迎えての思いを語ってもらいました。

パラ陸上の伊藤智也選手は去年11月のパラ陸上世界選手権で世界を驚かせました。56歳にして、日本選手最多となる3個のメダルを獲得し東京パラリンピック代表内定も決めたのです。

車いすのトラック種目で「レジェンド」と呼ばれる伊藤選手。8年前のロンドン大会後に一度引退しながら、東京大会を目指し50代で現役復帰。そこからなぜ世界の舞台で返り咲けたのか。57歳で臨む東京大会への思いを聞きます!

54歳での現役復帰!

去年11月のパラ陸上の世界選手権。メダル獲得後のメディアへのインタビューで語った言葉に、伊藤選手の人柄が表れています。

 

「僕が目指すのは、“新橋のプリンス”なんでね。」

 

軽妙な語り口とキャラクター、そして50代で世界を舞台に戦う姿は、確かに「サラリーマンの聖地」新橋でも多くの支持を集めそう。

 

伊藤智也選手

人生山あり谷あり。その中で呑む一杯と焼き鳥。そこに感じる人情といいますか。(新橋といえば)それがいいですよね。

 

 

去年の世界選手権。伊藤選手は得意とする400メートルで銀メダルを獲得。このレースで優勝したのは「日本のエース」と呼ばれる30歳の佐藤友祈選手。伊藤選手は26歳も年上ですが、二人のタイム差は1秒以下という競った展開でした。伊藤選手自身、「素晴らしいレース」と振り返る好走の要因はどこにあったのか。その秘密は、革新的な競技用車いすの開発にありました。

 

伊藤選手

一番大きかったのは、新しく競技用の車いすを開発をしてくれたところからですね。今までとは全く違う開発の仕方だったんです。今までは寸法の合った車いすに、選手の方がある程度合わせて自分の体を作っていくやり方でした。でも今度のマシンは僕の体やフォームに対して、マシンの方をアジャストさせる、という作り方をしましたのでね。歳をとって自分のパフォーマンスは落ちていても、速度は今の方が出ていますからね。

 

「レーサー」と呼ばれる競技用車いすの開発。
ロンドン大会で引退した伊藤選手が、その開発ドライバーを頼まれたのは53歳の時。若い技術者たちと開発に取り組んでいくと、自身のタイムがみるみる速くなっていったと言います。この若者たちとの出会いが、54歳での現役復帰という常識破りとも呼べる挑戦のきっかけとなりました。

 

伊藤選手

自分も年を取って、ちょっと人間が素直になったんですかね。自分で自分を測らなくなりました。
自分自身の中では怖い気持ちはありましたけど、チームの若い頭脳、若い芽たちが「やれるからやりなよ」って言うなら、いっぺんその言葉を信じてみるかと。やるなら覚悟をきめなければならないですが、その覚悟は決めやすかったなと思います。

 

人生山あり谷あり

伊藤選手の人生①

 

その伊藤さんの人生は、ご自身いわく「山あり谷あり」。振り返るとまさに激動の人生といえます。

1963年、三重県鈴鹿市生まれ。中学校を卒業したあと、オートバイのレーサーになります。その後人材派遣会社を起業し、社員200人を抱えるまでに会社は成長。しかし34歳の時、中枢神経が冒される進行性の病気「多発性硬化症」を発症し、治療のため2年間の入院を余儀なくされました。

 

伊藤選手

最初が本当に重症で、目も両方見えないし、手も動かないし口も聞けないし、というところからのスタートでしたから。でも日に日に目も見えてくる、手も動く、言葉もしゃべれるというようになって…。実は落ち込んだという経験はあまりないんですよね。

 

厳しい闘病の日々の中で、36歳になった伊藤選手にパラ陸上との出会いが訪れます。それは意外な形でもたらされたものでした。

伊藤選手

初めてだから車いすのことなんて分からないじゃないですか。その時たまたまね、同じ病棟に入院していた患者さんの息子さんが車いす販売の会社で働いていて、「伊藤さん買ってあげてくれへんか」って言われて。ぼくにとっても「渡りに船」なんでお願いしたら、その人が持ってきてくれたカタログが、いわゆる競技用車いすしか載っていないものでね。その中で陸上用車いすがかっこよく見えたものですから。「最近の車いすは病院のよりかっこええな」と、とりあえず発注したんです。
まあ発注ミスといえばミスですね(笑)。

 

伊藤選手の人生②

 

伊藤選手はこの「発注ミス」をきっかけに、本格的に競技にのめりこみます。まずは2004年のアテネパラリンピック出場を目指して車いすマラソンなどに挑戦。NHKには、家族と練習に打ち込む当時の映像が残されています。

 

 

アテネ大会の直前、アップダウンが激しいコースで勝つため、連日山越えのある60キロ近くの走り込みを行っていました。体温上昇が病状を悪化させることもあるため、まさに命懸けともいえる練習。父の寛一さんがいつも車で並走し、壮絶なトレーニングを支えていました。そして伊藤選手を支えていたのもまた、家族の存在でした。

伊藤選手

もう15年前のことですけど、何を求めて走ってたのか、自分でも今はあまり記憶にないほどです。
ただただ、両親の笑顔がうれしかったんですよね。僕が元気に走っていると、喜んでくれる。そのために走っていたような気がします。

 

伊藤選手の人生③

 

その後、40代に入りプロ選手に転向。トラックへと活躍の場を移し、2008年の北京大会では金メダル2個を獲得。続く2012年のロンドン大会でも銀メダルを獲得します。現役引退を決意して臨んだ大会。最後のレースを終えたあとの言葉は…。

「悔しさはないね。もうホントに精いっぱい走ったし。」

 

そしてひと呼吸おいて、目に涙を浮かべながら語りました。

 

「…つらかったよね。レースの中に自分の人生があった事がね、まさしく生きている証拠だと思うので。オンリーワンなパラリンピックだったと思います。」

 

充実感と共につらさも味わったという競技人生。一度はその幕を下ろしたこの時、感じていた思いとは何だったのでしょうか。

 

伊藤選手

僕たちのレースって、道具も使うし体が不自由という部分で、人との関わりが増えてくるんですね。スタートラインからフィニッシュラインの間には、いろんな人がものすごく関わってくれるので、時にそれが重荷になったり、時にそれが励みになったり。
それが総じて「つらかった」のかなと思います。でもそれを支えにがんばることができた時間でもあったなと思います。

2020、「誇り」となることを目指して

伊藤選手の人生④

 

伊藤選手の病気との戦いは、現役復帰した今も続いています。さらに年齢を重ねる中で体力的には失われていくものもあります。しかし、競技を通して得た「人との関わり」。それが巡り巡って、「山あり谷あり」の伊藤選手の今を支えるものとなっています。

 

今年の東京パラリンピック。メダルへの期待の声も上がる中、伊藤選手自身が掲げる目標は、そうした支えてくれる人々への思いに満ちていました。

 

伊藤選手

たくさんの方と一緒に立つスタートラインなので、そこに至るまでの時間をものすごく充実させたいです。今からを丁寧に生きて、しっかりパラリンピックを走り切ると。何着になりたいとか言うのもおこがましいんでね。
ただもうひたすら一生懸命やりきりたいです。

 

最後に、番組では伊藤選手に聞きたいことがありました。

 

時にパラアスリートは、普通の障害者とは違う「特別な人」だと見られることもあります。障害のある人たちの中には、「自分は彼らのように特別ではない」と思い悩んでしまう人もいます。そんな人たちに対して伊藤選手はどんなメッセージを送りたいか、尋ねました。

 

伊藤選手

そんな特別な事ではないと思うんです。
僕個人は、ハンディキャップを持った人間です。これから年老いていく人間です。消費社会におけるこの国の中では、やっぱり弱者だと言えます。
自分はその人たちの誇りになりたいなと思いますね。
「あいつ頑張ってんねん」「あいつ頑張ってるから自分ももう少し頑張ろうか」
と感じてくれたらと。

 

伊藤選手

その姿を見て、社会が多様性を持ってみんなを包み込んでくれるようになる、その出発点になったらいいなと。
僕がくぐるフィニッシュラインは、たくさんの方のスタートラインになっていくと思います。

 

その伊藤選手がしたためた、今年にかける一文字は…。

 

伊藤選手

じゃーん!
僕はおめでたいのが好きなんでね、「真鯛」の「真」ですね(笑)。

 

冗談めかした答えでしたが、そこに様々な意味が込められているように思える「真」の一文字。

 

「覚悟を決めて、丁寧に生きる。」

 

これまでの人生で出会った人々と培った経験。伊藤選手の集大成となるパラリンピックは7か月後です。

 


 

サンデースポーツ2020/サタデースポーツ



※こちらは、2020年1月22日に公開された記事です。内容は公開時のものとなります。

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