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特集 初の上位戦に挑む朝乃山に NHK刈屋解説委員が聞く同郷の大横綱・太刀山と並びたい

相撲 2019年7月1日(月) 午後0:00

朝乃山(25)は5月の夏場所で、西前頭8枚目の平幕ながら12勝3敗の成績で見事に初優勝を果たしました。富山県出身力士の優勝は、大正五年夏場所の横綱太刀山以来103年ぶり。地元富山は大変な盛り上がりで、6月16日の富山市内でのパレードには沿道におよそ2万5000人がつめかけたほか、挨拶やイベントなど朝乃山の行く先々に人だかりができました。

名古屋場所を前に、相撲取材歴30年、おなじみNHKの刈屋富士雄解説委員が、朝乃山に、故郷富山への思いやこれからの夢について聞きました。

指導者に恵まれて成長 ~恩師浦山監督に鍛えられた高校時代~

──富山での子ども時代。スポーツは最初何をやったのですか。

 

覚えている限りは、水泳とハンドボール、相撲とドッジボールですね。球技が好きで。相撲は小学4年生から始めて、ハンドボールはゴールキーパーをやっていました。小学6年生でハンドボールと相撲に絞りました。相撲は地区大会では勝てるんですけれど、県大会に行くと負けるんですよ。ほかの6年生はでかかったです。中学では最初ハンドボール部に入ったんですが、ランニングがきつくてすぐ辞めたんですよ。それで相撲部を見に行ったら、中学校の恩師に誘われて。入ってみたのですが、地獄の稽古でした。

──辞めようとは思わなかったの。

 

何回も辞めようと思ったんですけれど、ハンドボールを辞めて入ったので、とりあえず3年間やってみようと思ったんです。

──将来お相撲さんになろうとは?

 

全然思っていなかった。自分の相撲で精いっぱいでした。3年生で都道府県大会という全国大会に出たんですが、もろ差しになったとき決められて左腕を脱臼・骨折してしまったんですよ。高校進学前には、「相撲は怖いのでもうやめようか」と挫折しそうだったんですが、富山商業高校の恩師の浦山英樹先生に勧誘されたんです。それでもう1回やろうという気持ちになりました。

 

恩師浦山英樹富山商業監督(赤いジャージ) 高校時代の朝乃山(優勝旗を持っている)

 

──富山商業での3年間は?

 

大きかった。高校の3年間が無かったらここにいない。力士になっていないし、幕内優勝もしていない。

──浦山先生の相撲の教えというのは、どういうものだったんですか。

 

先生はずっと怒っていましたね。僕は中学校からほめられたことが1回も無いし、高校のときもほめられたことが無いですね。常に怒られていました。

──なにを繰り返し怒られたの、高校では。

 

高校は胸から当たる相撲で、四つ相撲を教えてもらいました。立ち合いの角度、差し方、上手の取り方、顔の持って行き方、寄り方など、すべて怒られながら教わっていました。

──得意の右四つの相撲は、高校のころからですか。

 

最初は浦山先生に教えてもらったんです。先生は左四つなのですが、僕は左を差すのが怖かったので、右四つを教えてもらいました。

──左腕は一回折られているしね。それが無ければ左四つだったのかな。それから近畿大学に進んで。

 

伊東監督に出会いました。

──伊東監督は、相撲の指導が細かいですよね。

 

むっちゃ細かいです。失礼ですけど、そのときは「うるせえ」と思いました。でも今考えると、その細かさがあったからここまで来られたと思いますし、自分自身の体にしみついたと思います。

 

 

──プロに行くことを決めたのはいつですか。

 

4年生で全日本選手権に出て、3位になったからいいかなと思っていました。それで富山に帰ったとき浦山先生に会って、「富山で就職して、社会人やりながら相撲やりたいんですがどうですか」と言ったら、「お前に就職するところはない」って言われたんです(笑)。「あれっ」と思ったけれど、先生の言うことは絶対に聞いてきたので、「はいわかりました」と答えました。そして先生から「プロに行ってほしい」と言われて、高砂部屋に入りました。

──浦山先生には、プロに行って活躍してほしいという思いがあったのでしょうね。

 

あとから聞いたんですが自分の教え子が関取になることが夢やったらしいので、それもかなえられてよかったです。

十両昇進を決めた場所に浦山監督との別れ ~「富山のスターになりなさい」と遺言のメッセージ~

──本当は優勝を見せたかったね。

 

そうすね。生きているうちに見せたかったですけれど。

 

浦山監督の遺影も夏場所優勝の支度部屋万歳に参加した

 

──関取になる直前に亡くなったんですね。

 

幕下優勝(平成29年初場所)を決めたときですね。初場所前に富山に帰ったときに、先生が危ないって聞いていたんで、先生が自宅に戻られたところで久しぶりに会ったのですが、顔を見たらひょろひょろで相当やせているんだろうなと思いました。先生は弱いところを見せない人なので布団から出なくて、五分くらい話しをたら、「もう帰っていいよ。1月場所頑張れよ」と言われたので、「頑張ろう」と決意をしたんです。

──そして見事に七戦全勝で優勝して十両を決めた。先生がいろいろな思いを書いたという手紙を、関取は持ち歩いていらっしゃるでしょう。

 

メッセージですね。

──先生はいつそれを書かれたんですか。

 

くわしくは聞いていないのです。奥さんが預かってくださっていたのです。葬式の当日に奥さんに挨拶したら、奥さんは泣いていて、僕も泣いて。「これ英樹から」って渡されました。ちょっと下衆な話しですが、幕下優勝を決めて帰ったので、白い封筒だから祝儀かなと思ってしまったんです。でもあとで見たら遺書やった。

──でも先生は、亡くなる前に祝儀をくれたんだな。そう考えてもおかしくはないね、お相撲さんだから。

 

でも、祝儀よりずっと大切なものをもらってうれしかったです。読んだときは、涙が止まりませんでした。

──そこには、富山のスターになれと。

 

最後に「富山のスターになりなさい」と書いてあったです。

 

夏場所土俵入りの朝乃山 浦山英樹と書かれた化粧まわしをつけている

 

──それだけのものをあなたはもっているんだと、そういう内容でしたね。

 

そうです。「お前には無限のチャンスがあるから、富山のスターになりなさい」って書いてあったです。

──ちょっとスターになりましたよね、今回。

 

ちょっとすね。

──まあ「ちょっと」という表現もおかしいけれど(笑)。優勝を常に争う大関や横綱、たぶん浦山先生は横綱を期待しての、「富山のスター」という表現だったんじゃないでしょうか。

 

横綱だったら本当のスターやと思うんです。横綱になるのは難しいけれど、それに近づけるように、先生と一緒に頑張って行きたいです。

地元の先輩 大横綱・太刀山と写真を並べたい

──富山の横綱というと、やっぱり*太刀山が浮かびますか。

 

やっぱり地元が一緒なので、太刀山さんをすぐに思い出します。小学校と中学校に額が飾ってあるんですよ。

 

地元出身の横綱太刀山の写真が、朝乃山の母校富山市立呉羽中学校に掲げられている

 

 

──その太刀山以来の富山出身の優勝で103年ぶり。ちょっとだけ近づいたんじゃない。

 

まだまだですね。これから自分の優勝額がそこに並べて飾ってもらえたらうれしいです。それか、太刀山さんをずらして(笑)。

──換わってそこに朝乃山。

 

それは絶対ばちが当たると思います(笑)。太刀山さんの横に並べてもらえたら、僕はすごくうれしいです。

──そのためには横綱だね。

 

そうなれたら先生もほめてくれるはずだと思います。

──「よくぞ富山のスターになった」と、天国で絶対喜んでくれるよね。関取の目標として、口にはしないまでも絶対心の中にはあるでしょう。

 

次の目標はともかく、将来の目標はと聞かれて、横綱になりますとはなかなか言えないです。でも気持ちのどっかにはありますね。

──そのため、夏場所で変わったと思ったのは、攻める相撲です。止まらなくなったんじゃないですか。

 

家に帰って自分の相撲を見るんですけれど、足を止めてないなと感じました。上位とやると止まっちゃうことがありますが、番付が近い人との相撲は足を止めていなかったのが勝因かなと思いました。これが僕の武器だと思っています。前に前に圧力をかけながら出るしかないです。

──それと左上手の取り方。これさえ安定してくれば、太刀山の横に並ぶ日が来るかも(笑)。

 

まあ、あまり意識しないで。夏場所の優勝で満足しているわけではないので、ここから新たな一歩、スタートだと思っています。

──がんばってください。ありがとうございました。


 

*太刀山峰右衛門(22代横綱 明治10年~昭和16年)
富山市出身。「四五日の鉄砲」1月半=一突き半で相手を土俵の外に出す、と呼ばれた突っ張りで、明治末期から大正初期にかけて無敵の横綱と言われた。

刈屋富士雄解説委員

昭和58年NHK入局。アナウンサーとして大相撲をはじめオリンピック、陸上、フィギュアスケート、体操、バレーボール等の中継を担当。三つ子の父。

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