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37歳貯金なし 30年越し夢の五輪へ

来月に迫ったピョンチャンオリンピック。多くの競技で代表選手が決まっています。スキージャンプでは、45歳のレジェンド、葛西紀明選手が内定。冬季五輪史上最多の8回目のオリンピックです。
その一方で、37歳で初めて代表に内定した選手もいます。フリースタイルスキー・エアリアルの田原直哉さんです。和歌山県出身の田原さんがなぜエアリアルの道を進むことになったのか。取材すると、よくここまで諦めずに続けてきたなと思うほど、その競技人生は苦労と忍耐の連続でした。
(大阪放送局アナウンサー 松苗竜太郎)

初の代表内定

田原直哉さん(37)は、フリースタイルスキー・エアリアルの日本のエースです。
エアリアルは、雪の上を空高く舞い上がり華麗な回転やひねりで観客を魅了する競技。田原さんは、日本人男子として初めて、ワールドカップの表彰台を2回経験するなどの実績を残しながら、これまでオリンピック出場を逃してきました。

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2012年 W杯で3位に入った田原さん(左)

そんな田原さんがピョンチャンオリンピックの日本代表に内定したという情報が入ってきたのは、私たちが長野県白馬村で取材をしていた先月22日でした。田原さんの携帯には数々の祝福の声が寄せられ、その中には、2004年のアテネオリンピック、男子体操団体で金メダルを獲得した米田功さんからのメッセージもありました。

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2005年 東アジア大会

田原さんは実は、もともと体操の選手でした。「ゆか」を得意とし、日本代表にも選ばれました。米田功さんのほか、同じくアテネオリンピック金メダリストの水鳥寿思さんも同じ社会人のチームメート。ほかのメンバーも田原さんと同世代のライバルたちでした。

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チームメートの米田功さんと

目標は変わらない

アテネオリンピックの代表を逃した田原さんは、その悔しい思いをバネに次の北京オリンピックを目指しましたが、肩に大けがをして体操からの引退を決断します。

しかし、田原さんはオリンピックを諦められませんでした。体操を辞めた自分がどうやったらオリンピックに行けるのか。新しい道を模索した結果、選んだのがエアリアルです。そのきっかけは、体操の合宿中に見たトリノオリンピックの映像だったといいます。

「エアリアルの競技の映像をみて、チームメートたちと『これなら俺たちできそうだよね!』と盛り上がったのを思い出しました。まっすぐ滑って飛ぶだけなので、スキーさえ勉強すれば空中での技と着地はできると思っていました」(田原さん)

「オリンピックという目標は変わらない。目標までの道のりがちょっと変わっただけ」と、新たな競技人生をスタートさせます。2006年夏、25歳の時でした。

遅咲きのトップ選手へ

ジャンプ台を飛びだし、地上からおよそ15メートルの高さで様々な空中技を披露するエアリアル。ジャンプのテイクオフの姿勢、ジャンプの高さ、空中での姿勢、着地の4つのポイントを審査し、順位が決まります。

空中での演技には自信を持っていたものの、スキーの経験はなかった田原さん。基本のボーゲンの練習からのスタートでした。
エアリアルを始めた時のことを田原さんは「始めて1週間で間違ったな、甘かったなと思った」と振り返ります。

2006年夏 エアリアルを始めた時の映像(13秒)

意外にも苦しめられたのは体操とのギャップでした。
ブーツとスキーの重さで、ひねりの感覚が変わってしまうのです。

「始めてしばらくはジャンプも何もできずちょっと厳しいかなと思いました。でも目標を自分で設定して始めてしまったので、無理とか考えても何もならないのでひたすら練習していました」(田原さん)

必死に練習を続け、技術を磨いていきました。
田原さんの持ち味は、体操で培った「空中での姿勢の美しさ」です。
難度の高い大技「3回転4回ひねり」を武器に、世界レベルの選手へと成長していきました。

空中を舞う田原さん(16秒)

生きていくことでいっぱいいっぱい

体操選手だった時代に比べ、競技の環境は大きく変化しました。

「体操時代は、チームにトレーナーやドクターがいるのは当たり前、遠征費も出て当たり前でした。しかし、エアリアルはほとんどが自腹。スキー用具の提供のお願いも、自分たちでメーカーに行います」(田原さん)

特に5年前に、体操時代から支援を続けてくれていたスポンサーが撤退してからは、安定した収入はなくなりました。

スキー連盟からの補助はありますが、海外での遠征費や練習費は大きな負担で、貯金を取り崩し、趣味の釣り道具や腕時計など、身の回りのものをお金に換えてエアリアルに取り組んできました。

田原さんは「家庭を持つ余裕など一切考えられず、遠征費がかさむ中、自分が生きていくことでいっぱいいっぱいだった」と振り返ります。

現在の練習拠点は、長野県白馬村です。
住まいは、友人の家を間借りすることで家賃を節約。練習場所のスキー場までは、友人から借りた軽トラックの荷台にスキー板とブーツを積み、自ら運転して向かいます。

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専属コーチを雇えないため、シーズン中の練習は基本的に1人。遠征や合宿以外では、ほとんど、一般のスキーヤーと同じゲレンデで練習しています。

特に、出場が叶わなかった4年前のソチオリンピック以降は、アルバイトなどに時間を費やさなければならず、競技に集中できる時間が少なくなったといいます。

田原さんは「ある程度の妥協は競技を続けていく上でしかたのないことだと受け止め、限られた環境の中で100%できることをする」という思いで自分と闘ってきたのです。

自分だけのオリンピックじゃない

こうした厳しい環境の中で、田原さんは改めて気づかされたことがあるといいます。それが、「自分がどれほど周囲の人に支えられているか」ということです。

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切久保さん(右)

田原さんを支える1人、白馬村で民宿を営む切久保達也さんです。去年まで田原さんを住み込みのアルバイトとして雇い、食事や住まいの面倒を見てきました。さらには後援会をつくって寄付を募るなど、活動をサポートしてきました。

「人柄だけでなく、仕事もエアリアルも一生懸命取り組んでいる姿を見ると『応援してやらなくちゃ』と自然に思える。ここまで来たらオリンピックの舞台に立ってほしいと思います」(切久保さん)

ほかにも、メーカーが格安でスキー用具を譲ってくれたり、大学時代の体操部の友人が遠征費用を支援してくれたりと、多くの人たちが田原さんの夢を応援しています。

田原さんは「みなさんの思いに触れるうちに、自分だけのオリンピックではないと思いました。仮にメダルが取れたら、僕の周りの支えてくれる人、みんなでとったメダルだと思います」と話します。

「初」じゃ許されない

現在、37歳。同世代のアスリートの多くが引退し、田原さんも今回が最初で最後のオリンピックと捉えています。オリンピックに出場しても、その後の生活や将来が保証されているわけではありませんが、人生のすべてをかけてメダルに挑むつもりです。

「初のオリンピックなんですけど、初じゃ許されないんですよね。これがまだ10代、20代前半とかだったら、経験して、次のオリンピックへ、と思えるかもしれないですけど、もう後がないので。本当にもう初めてのオリンピックでメダルを取りにいくっていう強い気持ちを持ってやっています」(田原さん)

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小学生の時にオリンピックを目指し始めて30年。ぶれずに1つの目標を追いかけてきた姿に、私は心から頭が下がる思いでした。

冬季競技は活動場所が限られ、メディアへの露出が少ないことなどからスポンサーが付きにくく、田原さんのように、厳しい環境と闘いながら活動するアスリートは少なくないといいます。夢を追う選手が安心して競技に打ち込めるような環境をさらに整備していく必要があると感じました。

競技を転向して夢の実現を目指す、これからの選手のためにも、田原さんには思いっきり、ピョンチャンの空で輝いてほしいと思います。

松苗竜太郎
大阪放送局アナウンサー
松苗竜太郎
平成24年入局
山口局をへて去年4月から大阪局
「ウイークエンド関西」担当