目の前に原発 住民は全国最少 しかも最後発 双葉町の挑戦

住んでいるのは、60人あまり。

事故を起こした原発がすぐ近くにあり、町のほとんどはいまだに「帰還困難区域」。

学校はもちろん、スーパーもコンビニもない。

そんな悪条件の場所に、県外の企業が社運をかけて進出すると聞き、「最後発」のまち・福島県双葉町に向かった。

(福島放送局記者 出原誠太郎)

11年半近く人が住めなかった

東京電力福島第一原子力発電所が立地する、双葉町。
2011年3月11日に発生した東日本大震災と原発事故で、7000人あまりいた住民の生活は一変した。

原発は、巨大津波の襲来で核燃料を冷やすための電源をすべて失い、3基の原子炉がメルトダウン。水素爆発が相次ぐ中、すべての住民が避難を余儀なくされ、避難は去年8月まで11年半近く続いた。

こうした地域で人の営みを取り戻すのは、簡単なことではない。

長年風雨にさらされ獣に荒らされてしまった建物を取り壊し、放射性物質を取り除く「除染」を実施。さらに、放置され傷んだインフラをすべて作り直さなければならないからだ。

町の面積の1割にあたる「特定復興再生拠点区域」で、こうした取り組みが先行して行われ、60キロ離れた福島県いわき市に主な機能を置いていた役場の本庁舎も、町に帰還。
10月には、JR常磐線双葉駅の西側に整備された災害公営住宅への入居も始まった。

災害公営住宅への入居(2022年10月1日)

「日本一人口が少ないまち」

町で暮らす人は、帰還開始から1か月の時点でおよそ30人。
半年たったことし3月1日時点で60人あまりにまで増えた。

5か月で倍増。

そういえば聞こえはいいが、都市部の学校で言えばだいたい2クラス分しかいない。

この表を見てもわかるとおり、双葉町の居住者は、「絶海の孤島」青ヶ島の人口の4割足らず。住民登録数は今も5500人を超えるが、ほとんどが全国各地で避難生活を続けているため、事実上「日本一人口が少ないまち」だ。

同じく福島第一原発が立地する大熊町は、双葉町より3年早く住民の帰還が始まり、1000人近くが暮らすまでになった。一方、最後発の双葉町は、復興庁が、住民を対象に毎年行っている意向調査で、「戻らない」が56.1%と、半数以上が帰還をあきらめてしまっている。

原発事故前の町に戻す「復興」を目指すのは現実的ではなく、「ゼロから新たな町を作りあげる」ことが求められている。

「双葉町が 地図から消えてしまう」

帰還に向けた双葉町の取り組みを追いかけてきたこの3年近く、私は、住民説明会の場などで何度も「このままでは町がなくなってしまう」という伊澤史朗町長の言葉を耳にしてきた。

避難指示が解除されたのは、この図の白と水色のエリアだけ。残る85%は引き続き帰還困難区域として避難指示が出されたまま、解除の具体的な見通しは示されていない。

学校はなく、生活必需品の買い物は隣町まで行かないとできない。
そんな町に帰還開始後半年で住む人が60人あまりというのは、当初から予想されていた状況だ。

それでも、居住者の7割はかつての住民ではないというから、「新たに移り住む人を呼び込む」という双葉町のまちづくりのアプローチは、功を奏しているといえるのかもしれない。

町の存続をかけた企業誘致

その戦略の中核をなすのが、企業誘致。

避難先から帰還してもらうにも、新たな人を呼び込むにも、基本的なインフラとともに、生活を成り立たせる「仕事」が不可欠だからだ。

町が沿岸部に整備を進めてきた50ヘクタールの産業団地には、これまでに県内外の24の企業と立地協定を結び、300人以上が働いている。

そこに、ひときわ目を引く建物が完成し、4月から新たな企業が進出する。

岐阜県の繊維会社「浅野撚糸」。
高級ファッションブランドでも使われる吸水性や速乾性に優れた糸を生産し、その糸で作った肌に優しいタオルの販売も行う計画だ。

社長の浅野雅巳さんは、福島大学卒。

「福島にゆかりがあるとはいえ、450キロも離れたところにある社員およそ50人の中小企業が、なぜ双葉に?」

そう問いかけると、意外な答えが返ってきた。

浅野雅巳社長
「嗅覚というか、『ここはすごいぞ』と感じたので進出を決めました。うちの会社もそうでしたが、左に振った振り子は必ず右に振れるので、国や県、町の話を聞いてすごいエネルギーを感じたんです。復興という大義名分はありますけど、われわれは企業なので儲けなければいけないし、これから世界に打って出ようとしているので、この双葉の勢い、福島の勢い、ここを復興させようという国の勢いに自分たちも乗せてもらおうと」

やっぱり「人」ですよ

新工場の規模は、岐阜の本社工場の倍以上。
あえて復興が最も遅れた双葉町を選び、社運を賭けたプロジェクトに打って出た浅野社長を動かしたのは、危機感を募らせていた伊澤町長だったという。

きっかけは、4年前。父から受け継いだ会社の経営を建て直し、県外進出を考えていた時、国から誘いを受けて参加した原発周辺地域の視察だった。

浅野雅巳社長(左)に伊澤史朗町長(右)が説明

浅野雅巳社長
「12か所回ったが、いろいろな点数の付け方がある中で、双葉は最も点数が低かった。でも、説明に来た中で、首長さんが出てこられたのは双葉町だけだった。役場の人も大勢来ていて、町長は正直に『うちがビリだ』と話してくれた。当初は産業団地しか見ない予定だったけど、町長がぜひと言うので、許可をもらって帰還困難区域に入り、現状を見させてもらった。やっぱり人ですよ。この人たちとだったらやれるんじゃないかなと思った。点数じゃない、感情でした。感情で1位」

決め手は そこでしたか

最も条件が悪い双葉町をあえて選んだという浅野社長。
工場の建設費用の一部を補助する国の支援策に加え、町も独自に補助金を出して進出をサポートしたこともあって、新工場の規模を当初の構想の10倍にする決断をした。

心を動かしたのは、首長自ら動いた熱意と誠意だった。
そんな話が聞ければと、伊澤町長と2人に当時のことを振り返ってもらったところ…

伊澤史朗町長(左)と浅野雅巳社長(右)

伊澤史朗町長
「浅野社長が初めて町に来たのは震災と原発事故の発生から8年がたった頃。当時は、荒廃したままで本当に何もない壊滅的な状況だったので、福島大学を卒業して福島に恩返ししたいという社長の思いにすがるというか、現状を正直に見てもらい、熱意をもって説明させてもらった。町のトップとして、『こんないい企業に来てもらうには自分も動かなくちゃいけない』という思いでやったのが、少しは加点考慮になったのかな」

浅野雅巳社長
「最初はもっと小さな規模で計画していたけど、これも宿命かなと思って。それまでは遠慮気味に『経営より復興』と口にしていたけど、ちょっと違うなと。やっぱりうちがしっかり儲けて、このプロジェクトを成功させることが、双葉の復興に確実につながると。うちが万が一撤退するようなことがあったら、どれほど足をひっぱってしまうかわからないので、企業として絶対成功してやるんだという決意と自信が湧いてきました」

伊澤史朗町長
「社長とは、年齢が近いし、趣味も似ていて、プロレス談義ですごく盛り上がって。本当に漫才みたいな話で、仕事の話というよりそっちの話がメインだったんですけど、気持ち的に意気投合したみたいな。性格的にも似ているんですよね。判断が速いというか、せっかちなんですよ。私も社長もそういう性格で」

伊澤町長は、大のプロレス好きで、取材の合間に雑談する時はよくプロレスの話が飛び出す。

その姿を知る私にとっては、耳なじみの良い上っ面の話ではない、本当に馬が合って信頼関係を結んだことがわかる、妙に説得力があるエピソードだった。

双葉町の可能性にほれ込んだ

企業側に大きなビジネスチャンスを感じさせたものの1つが、事故が起きた原発までわずか3キロ、すぐ目の前に除染で出た土などの廃棄物を集めた広大な中間貯蔵施設がある、この特殊な環境だ。

時の経過とともに、地震・津波・原子力災害という世界で類を見ない複合災害を経験した福島のありのままの姿を見て教訓を学ぶ「ホープツーリズム」の取り組みが行われるようになったことで、これまで復興の足を引っ張り続けてきた「原発との近さ」がこれからは逆に武器になると、浅野社長は言う。

浅野雅巳社長
「この地域では、以前は観光という言葉が禁句だったけど、今は違う。福島第一原発があるので、京都とか東京とかに負けないくらい、世界中の人がここに来る。来てくれれば、必ずわたしたちの工場にも寄ってもらえる。そして、うちの会社の糸やタオルのことも世界中の人に知ってもらえる。原発事故によって96%が帰還困難区域になった町が蘇って成長していくなんて、まさに日本の文化のかたまり。きっと世界中がびっくりしますよ。この双葉が、1番発信力があると思っています」

どれだけ居住者増につながるか

採用面接の様子

新工場のスタッフは25人。半数以上が新規採用で、このうち5人は浜通りの高校や大学を卒業した地元の若者だ。

そのうちの1人、いわき市出身の塙瑞基さんは、アトピー性皮膚炎に悩んできた経験から、肌に優しいタオルを作っているこの会社を志望した。

住環境がまだ整っていない、「全国で最も居住者が少ない町」で働くと決め、友人には驚かれたという。

塙瑞基さん
「正直、何もなくてこれからどうなっていくんだろうっていうのが、初めの感想でした。いろいろな建物や会社ができるので、ここから先、1~2年後には双葉町がすごく大きくなっているんじゃないかなという、楽しみな気持ちです」

でも、塙さんは、いわき市内の実家から通うという。

普通のまちのように「企業誘致 = 雇用増 = 居住者増」とは結びかない。

それでも、2月末、塙さんに双葉町で暮らしてみたいと思わせるできごとがあった。

希望の糸

新工場とスタッフのお披露目を兼ねて開かれたタオル販売会。販売開始を前に、入り口には50人以上の列ができた。

帰還した人、避難先から駆けつけた人、初めて双葉町に来た人。大勢訪れて賑わった。

客の反応は上々。接客を手伝った塙さんも手ごたえを感じたと言う。

塙瑞基さん
「希望の糸じゃないが、最初の糸が見えたような気がします。双葉町に住んでわかることもあると思うので、実際に双葉に住んでみたいと考えるようになりました。今後、ゆくゆくは双葉に住んで、住民の方と一緒にこの町を盛り上げていきたいです」

町の存続と未来をかけた挑戦

避難指示が比較的早く解除された自治体は、震災前の人口に近づきつつあるが、解除が遅れた自治体は被災から12年たった今でも1割ほどで、最後まで待たされた双葉町はわずか1%。これが原発事故の被災地の現実だ。

ここからどれだけ追い上げていけるか。伊澤町長は、「2030年までに居住者2000人」を目標に掲げている。

念願かない帰還を果たした人、この町に商機を見いだした人、新たに町に入ってこようとする人。ゼロから生まれ変わろうとしているこの「日本一小さな町」では、誰もが主役になれる。

存続をかけた企業誘致の取り組みの先にあるのは、地図からふるさとの名前が消えてしまうという悲しい結末ではなく、以前とは違った形だけどキラリと光る新しい双葉町の姿。

プロレス好きの2人と希望に燃える若者が織りなす筋書きのないドラマを取材していて、そんな未来が見えた気がした。

顔写真:出原 誠太郎

福島放送局記者

出原 誠太郎

2018年入局
広島県福山市出身
警察司法担当を経て、いわき支局で被災地取材に当たり、現在は遊軍担当
プロレスも勉強中