大阪には国内で最も大きく最も古い旧日本軍の墓地が残されています。日本が経験した数々の戦争の足跡が刻まれているこの墓地を、平和を願い、守ろうとする81歳の男性を取材しました。
大阪城から南に1キロ、大阪市の中央部に緑で覆われた広い土地が残されています。
「旧真田山陸軍墓地」は、明治政府が軍隊を創設した翌年の1871年に作られました。しかし入り口には看板も無く、今ではその存在を知る人も多くはありません。
通りがかった人たちにこの墓地のことを尋ねてみても返ってくるのは、「全然知らなかった」という答えばかり。まさに忘れられつつある墓地です。
ここには西南戦争から太平洋戦争までの、1万3300人を超える戦死者が眠っています。
墓地の近くで生まれ育った吉岡武さん(81)は、7歳のころにこの地で大阪大空襲を経験しました。
吉岡武さん:
「この墓地の周辺も一面に爆弾が落とされて、焼夷弾の雨あられの火の海の中に逃げました」
現在、吉岡さんは地元で塗装業を営みながら、この墓地の調査に取り組んでいます。
墓地に入るとすぐに目に入るのは一面に立ち並ぶ墓石です。その多くは西南戦争から日清戦争までの戦死者のものです。
その後の日露戦争では戦死者が多かったため、遺骨は1つの墓に合葬されていました。
さらに多くの戦死者が出た太平洋戦争では墓がたてられることはなく、納骨堂にまとめて遺骨が納められました。中には膨大な数の骨つぼが並んでいます。
8年前に吉岡さんたちが行った初めての調査で、納められた骨つぼは8200人あまりにのぼることが分かりました。
一つ一つに名前が書かれています。しかしその中に入っていたのは…。
ひとかけらのサンゴでした。別の骨つぼには土が入っていました。
激戦地の南洋諸島では遺骨も戻らなかった戦死者が少なくなったのです。
骨つぼも当初は陶器でしたが、終戦が近づくと木箱で代用されていました。
吉岡武さん:
「アメリカは兵士を非常に大事にしていて、亡くなった兵士の遺骨は大事に包んで遺族に持ち帰っています。遺骨だけでも遺族に持ち帰る事は責務だと思います。ですからこの墓地に納められたサンゴやら土やらを見ると、本当に悲しく情けない思いです」
太平洋戦争末期に戦局が切迫するなか、ここに戦死者が眠ること自体、遺族に知らされなかったといいます。
吉岡さんたちが名前からたどることができた遺族は、誰もこの墓地のことを知りませんでした。
終戦から73年たち、墓地の劣化は急激に進んでいます。
太平洋戦争の戦死者が眠る納骨堂は、戦時中に急場しのぎで仮で建てられました。
老朽化が進んで今ではあちらこちらが傷んでいて、雨漏りすることもあるそうです。
墓石も崩れたり倒れたりしているものが目につきます。
この墓地は国が所有していますが管理するのは大阪市とされていて、月1回程度の掃除に入っています。
しかし墓石や建物の本格的な保存措置はとられていません。NHKの取材に対して国は「倒壊等の危険回避の観点から修繕等が必要となった場合は、適切に対応する」としています。
吉岡さんたちボランティアが現状を維持しようと保存活動を進めていますが、風化を止めることは難しいのが現状です。
いま吉岡さんたちは1人でも希望者がいれば、墓地を案内しています。
この日は京都市内の中学校の教師を案内しました。課外活動で中学生を連れて来るための下見です。
見学に訪れた教師:
「献身的にこの墓地を守り、伝えようとしてくれているので私たちもそういう思いを受け取っていきたいと思いました」
吉岡さんたちはこの墓地を近代化遺産として保存するよう行政に訴えています。
吉岡武さん:
「このまま墓地が忘れられてしまうと、戦争の悲劇の証拠が無くなってしまうような気がします。これについては国は無責任だなと。戦死者たちが国のために亡くなったあとも、見捨てるのかなと思います。だからこの墓地に目を向けてもらうために、努力しているんです。そうすることで次世代の平和につながってくれることが望みなんです」
終戦から73年。戦争の痛みをこのまま忘れてしまうのか。無数の墓石が問いかけています。