国のため隠され続けた沈没 対馬丸75年の空白

国のため隠された沈没 対馬丸75年の
空白(2019年8月22日 沖縄局 松下温記者)

太平洋戦争中の昭和19年、沖縄から疎開する学童らを乗せて九州に向かっていた「対馬丸」が、アメリカ軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没。800人近い子どもを含む多くの犠牲者が出ました。

国は当時、この事実を明らかにせず、対馬丸の悲劇から75年がたつ今も、遺族は真実を追い求めています。

隠された悲劇 今もわからない全容

対馬丸の沈没から75年となった8月22日、那覇市で「対馬丸」の慰霊祭が開かれ、遺族や生存者など約550人が参列しました。

犠牲者は、わかっているだけで1484人。このうち800人近くは子どもでした。被害の全容は今もわかっていません。

叔母やいとこ7人を亡くした女性は、「悲しくてお話しできない。戦争は二度と起こって欲しくない」と話し、今も心に深い傷を負っている様子でした。

「決戦」のために隠された事実

なぜ対馬丸沈没の悲劇は秘匿されたのか。

対馬丸が撃沈された前の月の昭和19年7月には、サイパンが陥落して戦況は悪化していました。
次は沖縄での決戦とみられるなか、厳しい食糧事情もあって国は「足手まといになる」と子どもたちの疎開を促していたことが、当時の資料から分かっています。

対馬丸が沈没した事実が広まることで、疎開が進まなくなることを恐れたとみられています。

「絶対に話すな」

戦時中のかん口令の厳しさを体験した人がいます。

上原清さんは当時10歳で、疎開先に向かうため対馬丸に乗船していました。いかだで6日間漂流した後、奇跡的に奄美大島に流れ着きましたが、生存者はすぐに島の旅館に集められたといいます。

(上原清さん)
「絶対に対馬丸の事を話すなと厳重に注意を受けたね。サーベルもつけた兵隊も歩きよったのが見えた。わたしたちを見ながら監視してるんだなっていうのが分かる」

その後、上原さんは沖縄に戻りましたが、憲兵などによる生存者への監視は続き、近所に住む遺族にも真実を語ることはできませんでした。

ようやく話せるようになったのは戦後60年近くたってからでした。

(上原清さん)
「物言わんと言うのは苦しいね。喉の渇きの苦しさと似ている。存在してるけど存在してない影なのかな。亡霊なのかな。本当にそんな感じだった」

初めて知った父の死の
真相

箝口令によって真相を知らされてこなかった遺族もいます。

広島市に住む北口清子さんは、1歳のときに父親の荒木徳一さんが戦死しました。
父の記憶はなく、国からは「沖縄方面で亡くなった」とだけ知らされていたそうです。

(北口清子さん)
「陸で亡くなったのか海で亡くなったのか全然分からなくて。私たちも母も生活することで精一杯で、調べることもできなかったなと思うんですけどね」

ところが11年前、母との沖縄旅行で父の死の真相を知りました。撃沈から60年目にできた対馬丸記念館を訪れたとき、偶然母が、そこに父の名前を見つけたのです。

(北口さん)
「母が涙を流しながら私に近寄ってきてこう言ったんです。『名前が載ってる、乗組員の中に父の名前があるって』
私も父の名前を見ました。そのとき2人とも言葉にならなくて、その場で無言で号泣しました」

北口さんの父は、対馬丸を守るための砲兵として乗船していたのです。

(北口さん)
「ああ対馬丸に乗ってたんだっていうことが分かるとね、本当に初めて父と対面したような実感が沸いたっていうんですかね。母の涙を見て私にも父親がいたんだって初めて強く感じました」

父の最期が少しずつ明らかになることで、長い間目を向けることはなかった父への思いも芽生え始めました。6年前に母の遺品から、父の手紙を見つけました。

手紙には、
「清子を立派に育てられるよう願います。家のものは一切あなたに任せますゆえよく気をつけて下さい」
とありました。

(北口さん)
「父はこんな字を書くんだとか、私のことをこんなに心配してくれてたんだとか。対馬丸記念館に行かなかったら父への思いは、今までどおり無関心な感じで過ぎたかも分からないですね。会ったことはないんですけど、やっぱり血がつながっている父親なんですね」

「あなたのお父さんだったかもしれない」

父の手がかりを求めて北口さんは、対馬丸の生存者の上原清さんが8月に広島市で開いた講演会に駆けつけました。そこで初めて、対馬丸が撃沈される直前の様子を聞いたのです。

(上原さんの講演より)
「夜の10時すぎあたりですか、ブワーっと。魚雷の音ってね、そんなに炸裂するような音じゃなかったですね。ドラムカンをカーンとたたくような音だったですね」

講演の中で上原さんは、「漂流中に砲兵と会った」と語りました。

その砲兵は父だったのではないか。講演終了後、北口さんが上原さんに尋ねたところ、上原さんはそのとき砲兵が語ってくれたという言葉を伝えました。

(上原さん)
「『明るくなったらすぐに救助が来るからね。頑張ろうね』というふうにわれわれを励ましていたんですね。子どもたちが乗っていましたからね。そう言った人があなたのお父さんかもしれないです」

北口さんは上原さんの手を強く握りしめ「手があったかいです」と涙ながらにつぶやきました。

(北口さん)
「父と一緒にいたかもしれない上原さんと、お会いして握手してもらったら、なんだか父の代わりに握手してもらった気がしました。75年たって記憶は風化していくものだと思っていましたが、親子の情は風化しないんだと思いました。来てよかったです」

自分の父は、母は、家族はどのように亡くなったのか。その理由は何だったのか。戦争のために秘匿された対馬丸の沈没は、75年たった今も遺族の心に重くのしかかっています。

箝口令が敷かれたことについて、上原さんは当時のことを考えればしかたないという思いもあったということです。しかし事実が事実として伝えられない、そのような世の中には二度と戻ってはいけないと強く感じた取材でした。