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予期せぬ妊娠 中絶を書く理由

予期せぬ妊娠 中絶を書く理由

2023.02.07

2022年のノーベル文学賞に選ばれたフランスの作家、アニー・エルノーさん(82)。数多くの自伝小説を発表してきました。

 

作品のひとつ、「事件」のテーマは人工妊娠中絶です。エルノーさん自身の体験をもとにしていて、映画化された作品が日本でも公開されています。

 

「タブー」とさえいわれる中絶を書いたのはなぜなのか。エルノーさんがノーベル文学賞を受賞した意味とは。本人や関係者のことばから探ります。

 

(国際放送局World News部 記者 古山彰子)

“守ってくれなかった”

アニー・エルノーさんは1940年にフランス北部のノルマンディー地方で生まれました。実家は喫茶店と食料品店を兼ねた店。

「階級社会」だといわれるフランスで、労働者階級出身、そして女性として様々な格差に直面してきたエルノーさん。みずからの人生を小説の題材にしてきました。

とりわけ、女性として生きる中で感じる疎外感や、結婚生活に対する失望など、ジェンダー格差の現実を率直な文体で表現し多くの読者の共感を得てきました。

なぜ、個人的な体験を書き続けるのか。ノーベル文学賞の受賞前のスピーチで、エルノーさんは自身の体験から普遍性を紡ぎだしてきたみずからの役割についてこう話しています。

アニー・エルノーさん 
「あらゆる物事は否応なく個人のレベルで体験される――『私がこんなことの当事者になるなんて……』――ので、その物事が一様に読み取られるためには、書物の中の「私」がある意味で透明になり、男性読者または女性読者の「私」がそこに乗り移ることが必要です。つまり、私なるものが複数の人格に通じるものとなること、単一性が普遍性に達することが必要です。このような角度から私は、ものを書く行為を、社会的責任をともなう積極的関与(アンガージュマン)と考えています」

映画「あのこと」

エルノーさんの中絶体験をもとにした小説「事件」を原作にした映画は、日本では「あのこと」というタイトルで、2022年12月から上映が始まりました。

舞台は1960年代、フランスでは中絶が違法だった時代です。労働者階級出身の女子大学生が予期せぬ妊娠をし、学業を続けるために違法で危険な中絶方法に頼りながら困難を乗り越えようとするストーリーです。

なぜ、つらい体験だったはずの中絶を題材にしたのか。その理由について、中絶を法的に認めないことで女性を、そして自らを守ってくれなかった国家としてのフランスに対する強い憤りが原点にあったと話します。

アニー・エルノーさん
「その状況は受け容れがたいものでした。その頃のフランスは依然として、中絶を望む女性に、医師免許なしに闇で堕胎を施す女性たちに頼らざるを得ない状況を強いていたのです」
「1974年に出版された私の最初の本において、当時は意識していませんでしたが、その後の自分の執筆活動の領域、社会的であり、同時にフェミニスト的でもある領域が確定したのでした。自分と階層を共にする仲間の雪辱を果たすのと、女性の性の雪辱を果たすのとが、それ以降は同じ一つのことになりました」

忘れられない涙

この映画は、2021年、世界3大映画祭の1つ、イタリアのベネチア国際映画祭で最高賞にあたる金獅子賞を受賞しました。

審査委員長を務めたのは、韓国映画「パラサイト 半地下の家族」がアカデミー賞の作品賞などを受賞したポン・ジュノ監督。韓国の格差社会を鋭く切り取りました。ポン監督は「私たちが生きているいまの時代やテーマを捉えた作品であることを重視した」と述べ、審査員の満場一致で「あのこと」を選んだと明らかにしました。

ベネチア国際映画祭 オードレイ・ディワン監督(中央)

作品を手掛けたのは、フランスのオードレイ・ディワン監督です。2022年12月、横浜市で開かれた映画祭にあわせて来日しました。映画を制作する過程で、エルノーさんと丸1日一緒に過ごしたというディワン監督。インタビューで力強く語ったのは、決して忘れられない瞬間についてでした。

オードレイ・ディワン監督
「アニーと2人で『事件』を読み進めて行き、中絶の瞬間について話をした時、彼女の目に涙が浮かんできたんです。まるで、幼い体に負わされた痛みを、年を重ねた今も感じているようでした」

ディワン監督は、エルノーさんは書くことを通じて、みずからの体験をより深く理解するだけでなく、同じ体験をした他の人を勇気づけてきたと考えています。

オードレイ・ディワン監督
「みずからの体験を言語化し、自身だけでなく他者にも伝える。恥は、沈黙の上に築かれています。体験を言語化することで、議論が生まれ、アニーは同じような体験をした人たちをその重みから解放しているのです」

議論になる「中絶」

フランスでは女性たちの求めに応じる形で1975年に中絶を合法化する法律が施行されました。

日本では、1948年に施行された法律やその後の改正法で原則、配偶者の同意を得れば、医師は中絶手術を行うことができます。厚生労働省は、配偶者の同意は未婚の場合や夫のDVで婚姻関係が実質的に破綻している場合などは不要だと説明しています。

アメリカで中絶の権利を求める抗議活動の様子

一方、アメリカでは2022年6月、連邦最高裁判所が「中絶は憲法で認められた女性の権利だ」とする1973年の判断を覆したことで中絶を原則禁止する州が相次ぎ、2022年11月の中間選挙でも争点の1つとなりました。

アメリカのニューヨークに本部を置く弁護士などで作る人権団体「生殖権利センター」によりますと、世界ではアフリカやアジア、中米などの16か国でいかなる場合でも中絶が認められていないといいます。国際的な人権団体「アムネスティ・インターナショナル」は2021年、中絶が認められていないマダガスカルの市民団体の報告を公表し、マダガスカル国内で実施された中絶手術のうち、半数あまりは不衛生な環境で行われたとしています。

さらに、全体の3割は医療的な訓練を受けていない人たちによって手術が行われ、重度の合併症や、場合によっては死亡したケースもあるとして、中絶が合法でないことによって多くの女性たちが心身ともに傷を負っていると指摘しています。

ノーベル賞 受賞の意味とは

政財界のリーダーが集まるダボス会議を主催する「世界経済フォーラム」による「ジェンダーの格差に関する調査」。2022年7月に公表された最新の調査では、世界全体でジェンダーの平等を実現するにはまだ132年かかるとしています。

それでもディワン監督は希望を失っていません。ジェンダーの平等に向けた兆しがみられ、エルノーさんの作品がそこで大きな役割を果たしていると考えています。

オードレイ・ディワン監督
「映画で描いた1960年代には、男性は中絶など女性がその当時経験したことを知ることのないように教育されてきたのです。いまの社会の大きな変化、そしてジェンダー平等を後押しするのは、こうした問題について人々が性別を超えて議論するようになったことです。エルノーさんの作品が社会に変化をもたらし、問題に光が当たるようになったのです。彼女のノーベル文学賞受賞は、新たな時代の兆しであり、何かが変わってきていると感じます」

映画で主演を務めたフランスの俳優アナマリア・バルトロメイさん(23)は、エルノーさんの作品は、これまで直視することを避けてきた問題について深く考えさせる力があると話します。

アナマリア・バルトロメイさん
「エルノーさんにノーベル文学賞が授与されたことで、私たちが普段話題にせず、描写することもないタブーなテーマに光が当てられたと感じています。中絶に反対している人たちが正しいのか誤っているのか、評価しようとは思ってません。文化や宗教、受けてきた教育によって異なる考え方があるからです。しかし、実際に自分や周りの人が中絶するかどうかの判断を迫られた時、女性たちが経験する痛みや、その凄まじい過程を目の当たりにしてなお、あなたの人間的な側面は、中絶に反対することを許すことができるのか。これは私自身への問いでもありました」

受賞はみんなの勝利

ノーベル文学賞の選考委員会は「勇気と客観的な鋭さで、恥や屈辱、嫉妬、あるいは自分が何者かを見ることができないといったことを明らかにし、将来にわたって称賛に値する功績を成し遂げた」と、エルノーさんの功績を評価しています。

ノーベル賞 受賞式の様子

エルノーさんは自身への授賞を「集団的な勝利」だと述べ、喜びの気持ちを表現しました。

アニー・エルノーさん
「ノーベル文学賞が私に授与されたことを、個人的な勝利のようには見ておりません。傲慢にも謙遜にも流れることなしに、むしろある意味で集団的な勝利であると思っております。性とジェンダー、肌の色と文化の違いを超えて、すべての人間により一層の自由、平等、尊厳が認められることを何らかの形で願う人びとと、この受賞の誇らしさを分かち合います。また、一握りの人びとの利潤への欲望のせいで地球が人類全体にとってますます生存しにくい環境になり続けている今、将来世代のことを考え、地球を救おうとしている人びととも、私はこの誇らしさを分かち合いたいと思います」

取材を終えて

私(記者)は2022年7月までフランスで特派員をしていましたが、恥ずかしながらエルノーさんがノーベル文学賞を受賞するまで作品を読んだことがありませんでした。

受賞の発表後まず最初に感じたのは、「階級社会」といわれるフランスで認められるには並々ならぬ努力があったのではないかということです。小説や映画では、壮絶な中絶のシーンを包み隠さず詳細に描いていて、目をそむけたくなるような痛々しい描写を多く含んでいました。

しかし、タブーとされていることをタブーとしないのが、エルノーさんの作品の真骨頂なのです。ノーベル文学賞の授与は、文学的に優れた作品を生み出してきた長年の功績はもちろんのこと、タブー視されてきた問題に切り込んできた勇気、そして議論や変化を生み出していることを称えたいという、選考委員会の思いが込められているのではないか。エルノーさんが語ったことば、そして、周りの人たちへのインタビューを通じて、そう感じました。

※アニー・エルノーさんのスピーチの翻訳は、エルノーさんを日本に最初に紹介した翻訳家の堀茂樹さんが担当しました。

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