COLUMN

“少年老人”立花隆さん
~私しか知らない「知の巨人」の素顔~

2021.08.24 :

「サイボーグ技術」「臨死体験」「がん」…。私が評論家・立花隆さんとともに制作した番組は、この17年間で17本に上る。

 

立花さんとの番組作りで世界を6周半くらい回りながら、何度も議論を重ね、楽しくお酒を飲み、時に怒られ、ジャーナリストとしてのあり方、ディレクターとしてのあり方、そして、人としての生き方にもかけがえのない影響を受けてきた。

 

立花さんが亡くなって3か月。私しか知らない素顔を伝えたい。

 

(仙台拠点放送局 シニアディレクター 岡田朋敏)

17年前の出会い 「本当に非常識な人なんです」

立花隆さんの事務所 通称猫ビル
今でも忘れない光景がある。立花隆さんの仕事場である事務所、通称猫ビルを初めて訪ねたあの日のことだ。

チャイムを鳴らすと、秘書をされている妹さんが重い鉄製の扉を開けてくれた。私とプロデューサーは、彼女の後をついて狭いらせん階段を上っていった。コンクリートの打ちっぱなしの狭い階段沿いに本棚がびっしりと並んでいる。

2階の事務所で改めて秘書の妹さんにごあいさつしたあと、まずは彼女に自分たちの企画を説明しようとすると、すぐにこんなことをおっしゃった。
妹さん
「説明は本人に直接してください。やるともやらないとも、本人が決めますから。興味があればいくらでもやりますけど、気に入らないと何か月もほったらかして、返事なし、なんてこともありますから。本当に『非常識な人』なんです。だから、何か言われても大先生、なんて恐縮しちゃダメ、言うべきことはびしっといってください」
私は「そんなこと、できるのだろうか…」と途方に暮れる思いで聞いていた。

当時私は入局8年目、初任地の地方局から東京に移り、ニュースの現場を経たあと、ようやく希望していた長尺のドキュメンタリー番組を作る部署に配属されて半年くらい後の事だった。
仕事場の立花さん
「3階へどうぞ」といわれ、延々と続く本棚の間のらせん階段を進むと、ようやく彼の仕事場に到達した。

彼は自分の脳内を体現するような360度本に囲まれた部屋の中央のパイプ椅子に座って仕事をしていた。

「はじめまして」名刺を取り出しごあいさつすると、私と上司の名刺だけ受け取って「はい」という短いお返事。

知りたいことは何でも聞く“少年老人”

私が持ってきた提案を渡し、上司が趣旨を説明し始めた。特に何かに反応するでもなく、聞き続けている。

持って行ったのは、脳や神経とコンピューターをつなぐことで、脳の情報を取り出し、ロボットやコンピューターなどで利用する「神経工学」と呼ばれる新たな分野に関する番組だった。

私と上司は、脳科学、ロボット工学、コンピューター、これらすべてに卓越した知見を取材し続けてきた立花さん以外、この番組を引っ張ってくれる人はいないと考えていた。

今では、「ブレイン・マシン・インターフェース」「ロボットスーツ」などとして大手企業も製品化し、一般化し始めている技術だが、当時はこの科学技術の分野自体がほとんど知られておらず、本当に興味を持ってもらえるのだろうかと不安に思っていた。

一とおりの説明を終えると、立花さんは突然、やつぎばやに質問を始めた。
「で、この技術は大体何年ごろから始まってるの?」
「その大きなブレイクスルーの転換点は何ですか?」
「これまでのロボット技術などと何が違うのですか?」
私は必死になって答えた。
「コンピューターの能力の向上と、電極という脳から情報を取り出すデバイスの進化がこれをもたらしました。この技術はかなりの速度で進展しており、私はこれが世界を変えることになる技術で、今その転換点にあると思っています」

すると彼は「電極」とはどういうものか、写真を見せろという。スマホもない時代、用意しておいたプリントアウトしたものを取り出してお見せした。
「これはどういう材料でできているの?」
「針の数で情報の数が変わるというのはどういうこと?」
「神経の数に対応するような電極は作れないんじゃないか?」
質問がどんどん出てきて、どんどん専門的な内容に踏み込んでいく。私も答えられない領域にたびたび入るので、「今度調べてきます」と何度も答えることになった。

ふだん、テレビの取材では、「おおまかにわかりやすく伝えること」が大事だと言われてきた。専門的すぎる内容はテレビでは分かりにくいし伝わらないといわれている。

その中で、これほど微に入り細に入り聞かれたことはそれまでの人生でなかったことだった。知りたいことは何でも聞く、容赦ない『少年老人』との出会いだった。

最後に、上司が「やっていただけるということでいいのでしょうか?」と尋ねると、彼は手を差し伸べてこう答えた。
「やりましょう、もちろん」
そして少年のようににこやかに笑いながら、こう付け加えた。
「この番組、神経工学という言葉は固いから考えたほうがいいね。要は『サイボーグ』だよね」
私が彼のもとを日参する日はこうして始まった。

“細部にこそ面白いことが宿っている”

私が彼のもとを訪ねる日の前日はたいてい厳しい仕事になった。取材先に関する情報は、論文、ウェブページなどありとあらゆるものを求められるからだ。

プリントアウトしたものを取材先ごと、自分が目を通した重要度ごとに分類し、束にして整理して渡せるように準備する。

何かを聞かれても大丈夫なように、余分と思えるような補足情報までプリントアウトした。持って行く資料はたいてい大きな紙袋2つ分くらいになった。

しかし、それは全く苦ではなかった。準備すればするだけ、翌日の彼との議論は白熱し、ますます面白くなるからだ。
少年のように常に本当に知りたいことを伝えてくれる立花さんは、自分がそれまで考えていた「効率よく取材する」というような考えが恥ずかしくなるくらい、純粋な人だった。

よく言っていたのは、「取材は微に入る細部にこそ面白いことが宿っている」ということだった。

だから、資料が少ないと言うことはあっても、多すぎると言って嫌な顔をすることなどなかった。

海外取材で目撃 何にでも興味を持つ姿

「サイボーグ技術」取材中の立花さん、出演者、番組スタッフ
そして私たちは合計2か月に及ぶ、海外の長い取材を共にすることになった。

最初のインタビュー取材は、ネズミの脳の快楽中枢に電気信号を送ることで、ネズミを意のままに動かそうという「ロボラット」という技術を開発したニューヨーク州立大学のジョン・シェーピン教授だった。

どぎもを抜かれたのは、昼過ぎの取材開始からぶっ通しで数時間インタビューが続いたこと。最初の日は午後いっぱい時間をいただいていたのに、始まったら最後、インタビューは一度も切れ目なく取材が続いた。

終わったのは夜9時。休憩時間を除くと、実に6時間以上聞いていたことになる。
「サイボーグ技術」取材でインタビューを聞く立花さん
海外取材というと気楽な取材と思われることが多いが、実際は過酷なことが多い。特に立花さんとの取材では取材先を1日たりとも切らしてはならないと詰め込んでいた。

その結果、ある都市で取材して、翌日には移動して次の取材へというペースになる。時間もばらばら、早朝から深夜の移動まである。

移動の機内で次の取材相手の論文を読む立花さん。しかも、その取材の過程でホテルに置いてある数紙の新聞を必ず持って出てくる。

いつ読む時間があるのか分からないが、USA Today、NY Times、Financial Timesや地元紙、いくつも袋に突っ込んでホテルから現れるのだ。

そして移動の最中には「そういえばあの事件は、いったいどういう意味なんだろう?」などと言いながら、現地の人間に話を聞いたりしている。

まさに何でも興味があるのだな、と思わされることだった。

立花さんに怒られた! 大切なのは“面白いものを作る”意識

立花さんと「サイボーグ技術」番組スタッフ(筆者は右から2人目)
私がこの取材で一度だけ立花さんから強く怒られたことがある。

それは、1日おきに海外の都市を転々として1か月が過ぎ、皆の疲労が極限に達していた頃のことだった。

取材をまとめるだけでなく、取材相手や現場のクルー、多くの人の思いをまとめ上げるのがディレクターの仕事だ。

しかし、当時、初めての海外取材、初めての立花さんとの番組作りなど様々な「初めて」が重なっていた私は、おそらくそうした人々をつなぎ止める力が不足し、私の指示も散漫になりクルーの思いがばらばらになりかけていたのかもしれない。

そんな折、夜、ホテルから程近いバーに私を誘い、面と向かって立花さんはいつにないお説教を始めた。
立花さん
「そろそろね、みんな限界に来ている。そういうときには、あなたがきちんと本当にやりたいことを言わないとダメなんだ。皆ばらばらになりかけている」
立花さんはこんな感じのことを言って、切り出した。そして、私の至らない点をいくつか指摘し、次のようなことをおっしゃったのだ。
立花さん
「僕らプロはね、プロのフリーの人間はね、いつでも仕事をやめたいと思えば自由にやめられるんだ。最後まで仕事を続ける義務なんてものはないんですよ。でも、それをやめないのはなぜか分かる?NHKの人は、一度始めたら最後までやりきらないとダメでしょうが、我々は一度始めたことだからやり続けなきゃいけないなんていうことは僕らにはないんです。だから本当に面白いものを作る、それがあるから一緒にやるんです。興味があって面白いものを作る、そこが一致団結しなかったらダメなわけ」
私は、フリーの世界で、一人で生きてきた立花さんが心から諭すためにおっしゃっていると感じた。

自由に生きることの意味、番組を作るとき何に責任を持つべきなのか。そういう場で生きるときの覚悟として、面白さをきちんと共有できないとダメなんだと私に教えてくれているのだと思った。

その後、私が多くのフリーの方と仕事をするとき、この言葉は今も基本になっている。どんな立場の人も面白さならつながれるし、最後まで一緒に貫徹できる、そのことを立花さんから身をもって教わったと思う。

深夜に立花さんから電話がかかる仲に

立花さんと筆者(前列右)
この番組を境に、彼の事務所に日参する生活が始まった。

番組が終わったあとも、何やかやとシンポジウムをやるからとか、取材に一緒に来ないかなどといった形でお誘いいただくようになった。

すると、時間を問わず、(たいてい深夜に)突然電話がかかってくるように。

あるときなど夜中に突然電話がかかってきたと思ったら、「君、二光子顕微鏡って知ってる?」とお聞きになる。「何ですか?」と聞くと「生きたまま脳のシナプスが伸びる様子が見られるんだよ」と興奮しておっしゃる。

とにかく専門的な内容なのだが、ついて行けないと分かると切ってしまう。私も分からないことが続かないように分からないワードが出てくると勉強しながら、がんばってついて行くようにした。

私にとっては、すべての話が面白く、お互い、しまいには興奮して、それは面白い、ぜひ取材しましょう!といって切ることがたびたびだった。

そして、もちろん、何かの報告を持って行くときには、大量に印刷した資料や論文が「手土産」になった。

“自ら実験台に” 体験することを大事に

立花さんは物事を知るために自ら体験することをとても大事にしていた。先の「サイボーグ技術」の番組の時には、触覚を人工的に作り出す実験に参加してくれた。

腕の神経に針電極を刺して、電気信号を与えると触覚を感じられるのだが、そうした自分を傷つけかねない実験も「それはやってみます」と屈託もなく応じてくれた。

カメラの前でも「ああ、感じます」などとおっしゃっているのだが、終わってどうだったのか不安に思って訪ねると、「すごく面白かったよ。君もやってみたら?本当に」と強く勧められたのはさらに驚きだった。
自らのがん手術をモニターで見る立花さん
「がん」になったときの立花さんの姿勢はその最たるものだったと思う。

2004年の年末にがんになったことを秘書の方から聞いて、私は知ったが、その数日後に「全部撮れるから撮りに来ないか?」と誘われたときは、私の方が混乱したくらいだ。

手術当日にカメラクルーと自宅に伺うと、がんになり、落ち込んでいるのかと思いきや、道中も興奮して話し続ける。

手術前の説明も、手術の心配をする様子などなく、まるでがんとは何かを知るための取材のようになっている。

そして、手術も全身麻酔にするか部分麻酔にするかときかれると、迷わず部分麻酔を選び、手術の過程を見たいとおっしゃった。
がん手術後の立花さん
手術後に「あの映像もらえるのかな?すごく面白かった」と言われたことは、今でも忘れられない。

若者たちに必ず伝えた「見当識」

立花さんは、晩年、若い人たちにたくさんの講演をするようになった。

そこで学生の方々に何度も伝えていたのは、「何を食べたか、で体が作られるように、何を吸収したかで脳が作り上げられる。脳を鍛えて、若い人たちが自分で考えるしかないのだ」ということだった。
そして必ず伝えていたのが「見当識」。つまり、今どこにいて、どこから来て、私たちはこれからどこに行くのか、そういう現在地点をしっかりと理解しろということだった。

立花さんは自分が何を知らないのか、そして何を知っているのかを常に意識し、そのうえで知らないことに常に謙虚に向き合い、知ろうとし続けたからだ。

膨大な情報があふれ、自分の興味がともすると狭まってしまう現代において、あらゆるものに目を向け、興味を持ち続けることこそ、本当に今、求められていることなのだということを、立花さんの姿は教えてくれている。

託された段ボール63箱の資料

晩年、私は彼の経験した人生をきちんと聞き取りたいと、仲間と共に内輪で勉強会を開いていた。立花さんはその勉強会のさなか、コロナも感染拡大を始めていた去年春、突然、入院した。

私が最後に話をしたのは11月の電話だった。入院中につながった短い電話が私の聞いた最後の肉声だ。
「まだ勉強会の続きを、お電話でも、リモートでもしたいと思っています。お体の加減はいかがですか?」
すると立花さんは、いつになく弱気な声で答えた。
「あの、すぐに退院できるっていう見込みってある?何か聞いてる?そういう見込みはないんじゃないかなあと思う…」
秘書の方から聞いたお話によれば、立花さんは入院の際にあらゆる検査を拒否したのだという。

そして、コロナ禍の中の4月30日。会うことさえできないまま、立花さんは静かに亡くなった。
亡くなったことを聞いた時、私はしばらく現実を受け止めきれず、何をする気力もなくなった。本当にかけがえのない人をなくしたと思った。

立花さんは常々こうおっしゃっていた。「人間には死ぬ力がある。だから死ぬまでちゃんと生きることが大事だ」と。

きっとずっと追いかけてきた臨死体験があるのか、少年の様に「死」すら正面から向き合って最期まで生きたのだろう。
立花さんの遺族から託された63箱の資料
そして今、私の目の前には、段ボール63箱もの立花さんの大量の資料が置かれている。生前、全てを処分すると決断されていた立花さんのご遺族から特別に渡されたものだ。

私は、立花さんがまだまだいろんなことを語りたかったのだと思っている。重い宿題をいただいたと思いつつも、私たちに何を残そうとしたのかをきちんと読み解き、多くの人に伝えていくことが、私に課せられた使命だと思っている。
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仙台拠点放送局シニアディレクター

岡田朋敏

1997年入局。科学や文明のあり方を見つめる番組を制作し取材している。他の主な番組はNHKスペシャル「神の数式」「シリーズ・ネクストワールド」「シリーズ2030」など。

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