災害列島 命を守る情報サイト

これまでの災害で明らかになった数々の課題や教訓。決して忘れることなく、次の災害に生かさなければ「命を守る」ことができません。防災・減災につながる重要な情報が詰まった読み物です。

地震 水害 教訓 想定

備えたことしか、役には立たなかった ~ある官僚の震災~

大きな揺れ、迫り来る大津波。状況の把握もままならない中での初動対応。がれきに遺体が残る中での道路啓開「くしの歯作戦」。遺体を埋葬するための「ひつぎ」の確保…。

「備えたことしか、役には立たなかった」

あの日、経験なき大災害に直面しながら数々の判断を迫られた、ある官僚の告白です。
(社会部災害担当記者 清木まりあ)

目次

    3月11日午後2時46分/地震発生

    「ロッカーや棚がガタンガタン倒れて。揺れの長さと大きさで、ただごとではないと」

    当時、東北地方整備局長だった徳山日出男さん。陸・海・空を管轄する国土交通省の出先機関のトップでした。

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    当時の徳山さん

    局長に就任したのは2011年1月。
    阪神・淡路大震災など、過去に災害対応にあたったこともありましたが、基本は東京で対応。被災地の現場経験は、ほとんどありませんでした。

    そして、就任2か月後の3月11日。あの巨大地震が発生しました。
    当時は、局長室で打ち合わせをしていましたが、大きな揺れが収まるまで身動きがとれなかったと言います。

    徳山さん
    「宮城県沖地震の発生確率が高いことは頭に入っていました。ただ正直、自分が遭遇するとは…」

    揺れが収まるとともに、防災服を着用。

    A4の「メモ用紙」と「シャープペン」を握りしめて災害対策室に走りました。

    3月11日午後3時/混乱の“初動対応”

    災害対策室には、徐々に職員が集まり始めていました。
    しかし「何が起きているのか」「何をすべきか」は混乱の状況。

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    発生直後の災害対策室
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    徳山さんが書いたメモ

    <職員たちへの指示を書き出す>
    思い思いに動いていては、組織としての初動対応を誤ることになる。


    徳山さんがまず行ったのは、部下たちが何をやるべきか、自分の経験や知識を振り絞ってメモ用紙に書き出すことでした。「職員の安否確認」「道路や河川・港湾施設の被害状況の把握」「本省とのやりとり」「メディア対応」…。

    メモで頭を整理しながら、職員の意見も参考にしていきました。

    すると、駆け寄って来た防災課長から重要な提案が。

    <職員無しで“防災ヘリ”離陸>
    「局長、防災ヘリを上げていいですか。時間がないので“無人”で」


    被害状況を把握するための「防災ヘリコプター」を職員無しで飛ばす提案でした。

    通常のルールでは、防災ヘリを飛ばす時には職員が同乗することになっています。しかし、整備局からヘリコプターがある仙台空港までは、通常でも1時間弱。迅速な被害把握のため、職員を待たずにパイロットだけでヘリコプターを飛ばそう、というのです。

    徳山さんは防災課長の提案を受け入れ、防災ヘリを飛ばすよう指示します。

    しかし、仙台空港の管制からは…。

    「飛ぶのであれば、自分の判断で安全を確認して飛んでほしい」

    地震の影響で管制機能を失っていたのです。

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    飛び立つ防災ヘリ みちのく号

    ーとにかく初動が人の生死を分ける。

    それでも徳山さんはヘリを飛ばすよう指示します。
    午後3時23分に仙台空港を離陸。地震発生から37分後のことでした。

    徳山さん
    「リスクがあるのはもちろん分かっていた。でもやらないで後悔するよりは、やって後悔した方がいいと思ったんです。責任は、何かあってから考えればいいと」
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    冠水した仙台空港(NHK映像)

    その後、午後4時ごろ、仙台空港にも津波が押し寄せ冠水してしまいます。
    結果として、この判断が功を奏しました。

    3月11日午後4時~/最大の被災地はどこだ

    リアルタイムで送られてくる防災ヘリからの映像は、想像をはるかに超えるものでした。

    ※このVTRでは津波の映像が流れます 再生時間 2:18

    押し寄せる巨大津波。次々に押し流される住宅。
    仙台市から南方向の、福島県いわき市までの状況を把握することができました。しかし天候不良で北上はできず、三陸方面の状況は把握できませんでした。

    こうした中、内陸の出先機関からは、土砂崩れや道路陥没などの被害情報が相次いで入ってきます。

    通常なら、情報がある現場に職員や作業員を派遣して応急復旧にあたります。

    ー情報空白地こそ、被害が大きいのでは?

    この時、徳山さんの頭にあの大災害がよぎります。1995年の阪神・淡路大震災です。
    地震発生直後は、比較的、被害が少なかったところからの情報が相次ぎ、本当に被害が大きかった地域の把握や支援が遅れてしまったのです。

    このため徳山さんは、最大の被災地は“情報が無い”三陸など沿岸だと確信します。沿岸につながる救援ルートの確保を最優先にすることを決めました。

    徳山さん
    「被害が分かっている地域に応援を送らないという判断は、もちろん心苦しかったし、あとで問題になるかもしれないという懸念もありました。ただ、人も機械も燃料も不足することが予想される中、最大の被災地はどこなのか、優先順位の見極めが大事だと思ったのです」

    3月11日夜~/「くしの歯作戦」救援ルートを確保せよ

    沿岸に、一刻も早く救助隊や自衛隊が到着できるようにしなければならない。

    しかし沿岸に近づけば近づくほど、道路は、押し流された家や車、がれきで埋もれています。海側から船で近づくにも、まだ「大津波警報」がでている状況。とにかく、道路の障害物を取り除いて、道路を啓開するしかありませんでした。

    どうやって救援ルートを確保するのか。夜を徹した打ち合わせが続きました。

    そこで結論に達したのが「くしの歯作戦」でした。

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    「くしの歯作戦」の図

    沿岸近くを南北に走る国道45号線は、ほとんど通れないことが予想されます。一方、内陸を南北に走る国道4号線や東北縦貫道には、大きな被害はありません。そこで国道4号線から沿岸に向かって東へ、「くしの歯」のようにルートを啓開する計画です。

    その一方で、啓開する機材や人員が確保できるのか、徳山さんには不安がありました。

    そのとき、ある報告が飛び込んできます。

    「地元の建設業者たちが、みずから動き始めています!」

    東北地方整備局からの指示が無い中でも、地元の建設業者たちが、各地に集まり始めていたのです。地震の翌日、12日朝の時点で500人を超える作業員が集まりました。

    地元の建設業者も“被災者”。家族や知人の安否がわからない人もいました。

    それでも地元のために集まってくれた人たち。

    ーありがとう…、ありがとう…。

    徳山さんは胸が熱くなったと言います。

    3月12日/苦難の道路啓開

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    地震翌日の12日。東北の沿岸では、まだ大津波警報が出ています。当時、東北地方整備局が定めていた業務継続計画(BCP)にも「津波注意報が解除された後に、巡回・復旧作業にあたる」とありました。

    それでも徳山さんは12日からの道路啓開を決断。現場の作業員たちには「10分以内に高台や安全な場所に逃げられる場所でだけ作業をするように」と指示しました。

    徳山さん
    「また津波や地震が来たら命にかかわる…作業員の安全を考えると、悩みました。ルールを逸脱することになってしまうけど、道路を啓開できるのは私たちだけ。そう考えたら、やらないという選択肢はなかったんです」
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    がれきで埋もれた道路

    がれきの撤去作業も、苦難の連続。

    現場からは悲痛な訴えもありました。

    「がれきに遺体があって重機が使えません…」

    中から「遺体」が見つかり、大型の重機で作業することができなくなることもありました。このため手作業でがれきを取り除き、警察に来てもらったうえで、遺体を運び出してもらいました。

    行方不明になっている家族を、がれきの中で捜している人も多く、重機での作業を嫌がられることもありました。そのたびに救援ルートを確保するために必要な作業であることを丁寧に説明してもらったということです。

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    啓開した道路

    作業を始めた3月12日には、計画していた16の国道のうち、11のルートを啓開。3日後の15日には、15のルートを確保しました。(福島の1ルートは原発事故の影響で確保できず)

    ルートが確保されたことで、救急車や警察、自衛隊などの緊急車両が通行可能に。医療チームも被災地に入ることができるようになり、少しずつ支援物資も届き始めました。

    3月16日/被災地に足りないもの…

    救援ルートができた。
    次に徳山さんが取り組んだのは、被災地の市長や町長などに必要としている物資を聞き取り、届けることでした。

    しかし、電話の聞き取りの中で、思わぬものを求められます。

    当時の徳山さんのメモです。

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    「カンオケ(ひつぎ)」「遺体確認しても持ち帰れない」

    道路の啓開によって、自衛隊や警察などによる捜索活動が進み、多くの遺体が見つかりました。一方で、「ひつぎ」が足りなくなっているというのです。

    被災地の市長
    「火葬場も被災してしまったので、今は仮埋葬(土葬)するしかない。でも、泥の中におられたご遺体を、そのまま土の中に埋めるなんてことはできません。『ひつぎ』をお願いします」


    本来、「ひつぎ」は、国土交通省の所管外の物資です。職員たちからは、「所管外のことまで手を出して大丈夫なのか」という不安の声も上がりました。

    国土交通省の予算で支払いが認められるのか、目途はたっていませんでした。しかし迷うこと無く「ひつぎ」を買い取り、被災地に送ることを決断します。背景にあったのは当時の国土交通大臣のことばでした。

    徳山さん
    「当時の大畠大臣がテレビ会議で言ってくれたんですよ。『徳山くん、現場のことは君が一番よく分かっているから、すべてを任せる。君が国の代表だと思って、あらゆることをやってくれ』と…だから、迷いなくできました」
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    その後、徳山さんが自治体に向けて出した通知文書です。

    ー私を「整備局長」と思わず、「ヤミ屋のオヤジ」と思ってください。

    「ほしいものは何でも用意するので気軽に言ってください」というメッセージでした。

    要望を受けて調達した物資は、水や食料はもちろん、燃料や仮設トイレ、生理用品、洗濯機など、200種類以上にのぼったということです。

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    徳山さんは、その後も局長室に寝泊まりしながら対応を続けます。2013年7月まで局長として道路や堤防の復旧、住宅の高台移転など復興事業を進めました。

    備えたことしか、役には立たなかった

    あれから10年。当時の臨機応変な決断を徳山さんはどう感じているのか。聞いてみると、返ってきたのは意外なことばでした。

    徳山さん
    「あのときの機転だけでできたことなんて、一つもなかったんですよ。備えていたことしか役には立たなかった。災害が起きる前にどれだけ準備できていたか、というのが非常に大きかったんです」
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    地震直後の格納庫

    震災が起きる前までの「備えが」判断を支えていたというのです。

    <防災ヘリ>
    たとえば初動を支えた防災ヘリ。
    過去の災害で、すぐに飛び立てなかった教訓から、格納庫の中の一番手前に駐機するようにしていました。また、震災の2か月前には、ヘリの運航を委託する会社とすぐに連絡が取れるよう、緊急時の専用回線を新たに設けたばかりでした。

    <道路啓開>
    震災の翌日、なぜ500人もの作業員が集まれたのか。
    東北地方整備局は、震災の前に多くの建設業者と災害協定を結んでいました。通信が途絶えている中でも、自主的に道路の被害状況を確認し集まっていたのです。

    国道の多くが本体に損傷を受けていなかったことも復旧を早めました。阪神・淡路大震災の後、橋の耐震補強対策を強化してきた結果でした。

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    「備えていたことしか、役には立たなかった」

    この言葉で始まる本があります。

    「災害初動期指揮心得」です。

    徳山さんを始め、東北地方整備局の職員たちが当時の経験をまとめた本で、全国に教訓を共有したいという思いから、電子書籍で無料公開されています。

    この本にはもう一つのことばが記されています。

    「備えていただけでは、十分ではなかった」

    つまり、備えていても、実際に行動に移す意識を持ち、訓練などをしていなかったら十分に役立たないということです。

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    あれから10年。徳山さんは国土交通省を退職し、現在は、震災の教訓を伝える活動を行っています。

    徳山さん
    「今の災害でも『想定外だった』『被害情報がないから初動が遅れた』とよく聞きます。でもそれは10年前に日本が経験したこと。震災の教訓は何だったのか、教訓を生かすためには何をしておく必要があるのか。これを考えることからしか、災害への備えは始まらないと思います。だから私は自分が経験したことを伝え続けていきたい」

    震災10年 何を“備え”につなげるか

    多くの人が犠牲となった東日本大震災。
    この10年、私たちは、今も苦しんでいる被災者の方々や、国や自治体の政策に足りないことなど、被災地や復興の課題を伝えてきました。

    今回、徳山さんを取材して感じたのは、教訓は“対応できなかったこと”の中にだけあるのではないということです。当時、被災地では“対応できたこと”もあります。意外に気付きにくいのですが、実はその中にも多くの教訓がありました。

    「備えたことしか、役には立たない…」

    被災地の課題だけでなく、こうした教訓も含めて伝えていくことが、将来の災害への“備え”につながるのだと強く感じました。

    清木まりあ
    社会部記者
    清木まりあ