中東解体新書

彼女が流した涙のワケ

ガザ紛争2021後編

17歳にして4度の紛争を経験した女子高校生。一夜にして5人の家族を失った男性。流された涙の数だけ、世界が見過ごしている苦悩が確かにそこにはあるのです。その涙の理由を追いました。

前編:ガザ紛争2021 現地ではあのとき何が

アーヤ・アサムナ

私の名前はアーヤ・アサムナです。17歳で、パレスチナのガザ地区に住んでいます。

ことし5月、私が暮らすガザ地区とイスラエルとの間で紛争が起きました。

私はそのとき高校3年生で、大規模な紛争を経験するのは、それで4回目でした。

「紛争」にとらわれた日々

――2021年5月、イスラエルとガザ地区の武装勢力の間で武力衝突が起きた。衝突は11日間におよび、イスラエルによる激しい空爆が行われたガザ地区では256人が死亡した。

今回の衝突について、住民たちは「これまでにないほど激しかった」と話しているが、なかでも、特に激しい攻撃を受けたのが、アーヤが暮らしている北部だ。

アーヤ・アサムナ

私が暮らしているのは、ガザ地区の北部にあるベイト・ハヌンという町です。

この家に、お父さん、お母さん、それに、6人のきょうだいと住んでいます。屋上から境界線が見えるくらい、イスラエルとは近いのです。

アーヤ・アサムナ

私の家のリビングにあるものを紹介します。

隅の小さなテーブルの上に、自動車用のバッテリーが置いてあるのですが、なぜだかわかりますか?

アーヤ・アサムナ

ガザ地区ではふだんから、1日に8時間ほどしか電気が使えません。軍事衝突が起きると、数時間くらいまで短くなるときもあります。

ガザ地区はイスラエルに経済封鎖されているので、十分な燃料を確保できず、日常的に電力が不足しています。

ですから、夜間はこのバッテリーを使い、LEDライトで最低限の明かりを灯して生活しているんです。勉強するには十分ではありません。

アーヤ・アサムナ

紛争が頻繁に起きるので、隣の家の壁には穴があいています。2014年の衝突で砲弾が直撃してできたものです。

私たちの家も砲撃を受けました。ガザ地区では、空爆されたときに隠れるようなシェルターはありません。

繰り返される紛争

——イスラエルと、ガザ地区を実効支配するイスラム原理主義組織ハマスの間では、たびたび紛争が起きている。

軍事力には圧倒的な差がある。イスラエル軍は、最新鋭戦闘機や迎撃システムを備えるが、ハマスは、田畑や住宅街などからロケット弾などによる攻撃を仕掛けていると指摘される。こうした攻撃に対し、イスラエル側は「住民を盾にしている」と強く非難している。

アーヤ・アサムナ

これは、2014年、私が11歳のときの写真です。

その年に起きた軍事衝突のことは、いまでも鮮明に覚えています。

アーヤ・アサムナ

当時、自分の部屋で寝ていると、家に砲弾が直撃しました。

私は、すぐに飛び起きて逃げ、家族も無事でした。

しかし、避難先でもさらに攻撃を受け、一緒にいた友達は死んでしまったのです。

アーヤ・アサムナ

それ以来、私はいろいろな夢を見るようになりました。

例えば、みんなで楽しく遊んでいるときに、ミサイルが落ちてきて、お父さんが『伏せろ!伏せろ!』って叫ぶような夢です。

アーヤ・アサムナ

私はいまでも突然汗が出てきたり、自分ではわからないのですが、寝ているときに叫んだりしていると言われます。

そういうときは、いつもお母さん(サミラさん)が優しくなでてくれるんです。

厳しい現実

——ガザ地区では、多くの子どもがアーヤのように心に傷を負っている。

国連の推計によると、紛争によるトラウマを抱えた子どもは、ガザ地区全体の子どもの3分の1にあたる約30万人にも上る。

——アーヤの2人の弟たちも、同じような症状に悩まされている。

しかし、保守的な気風のガザ地区では、心の病気で通院することは家族の恥だとされ、多くが適切な治療を受けられずにいる。

——イスラエルによる封鎖の影響で、ガザ地区の経済状況は厳しい。失業率はおよそ5割に上り、若者にいたっては7割に達している。

高校3年生だったアーヤはことし、大学進学のための卒業試験を控えていた。ガザ地区の若者にとって、大学進学は明るい未来を手に入れるための限られたチャンスだ。

この試験に向け、まさに猛勉強をしていたときに起きたのが5月の衝突だった。

アーヤ・アサムナ

武力衝突が5月10日に始まると、私はすぐ家族と一緒に親せきのところへ避難しました。

でも、そこでは信じられないような光景を目にしました。

アーヤ・アサムナ

避難した家のすぐ近くに、イスラエルのミサイルが直撃し、近くにいた若者たちの体がバラバラになってしまったのです。

とにかく、恐ろしい光景でした。

アーヤ・アサムナ

私は勉強道具を置いて逃げていました。でも、勉強はしなければならないと思いました。将来がかかっているからです。

お父さんが家から勉強道具を持ち出してきてくれましたが、勉強しようとしても、すぐにまた攻撃が始まるんです。

あまりに空爆が激しくて、私はもう2度と家に帰れないんじゃないかと思いました。勉強どころではありませんでした。

アーヤ・アサムナ

11日間の衝突で、私の心はボロボロになりました。

私には夢がありました。卒業試験で良い成績を取って、大学に進学し、海外に留学することです。

アーヤ・アサムナ

でも、今回の紛争のせいで、何もかもめちゃくちゃになりました。どんなに勉強しても、もう無理だとしか思えなくなりました。

インタビュー動画(1分7秒)

一夜にして家族5人を失った人もいる。

リヤド・エーシュクンタナ

私の名前は、リヤド・エーシュクンタナです。

妻と5人の子どもと、ガザ市の「ワハダ通り」にあるアパートで暮らしていました。

ワハダ通りは、ガザ市の中で一番有名な通りで、いつも買い物などをする人で賑わっていました。

リヤド・エーシュクンタナ

5月16日の未明、私はテレビで紛争のニュースを見ていました。

すると突然、すごい揺れに襲われました。自分たちのアパートが空爆されたと気づきました。

リヤド・エーシュクンタナ

私はすぐに子どもたちのところへ行き、妻とともに避難させようとしました。

しかし、そのとき、天井が落ちてきたのです。

——この日、イスラエル軍は、高層住宅などが立ち並ぶワハダ通りで、少なくとも19か所に空爆を行った。

——エーシュクンタナが暮らしていた建物は一夜にして、がれきの山と化した。翌朝、現場では救出活動が続いていた。

リヤド・エーシュクンタナ

建物が崩壊してから6時間後、私は、がれきの下から助け出されました。その4時間後には、娘のスージーが救出されました。

その場にいた多くの人が、「アッラー・アクバル」と叫び、神に感謝していました。

スージーの救出シーン(39秒)

リヤド・エーシュクンタナ

ただ、妻と、4人の子どもは亡くなりました。

着の身着のままで逃げたので、私の手元にはほとんど写真が残っていません。

妻 アベル(30歳)

リヤドは、妻のアベルを愛していたと話す。大らかな性格で、厳しい経済状況にも関わらず、夫や子どもたちの将来のことを常に考えていたという。

長女 ダーナ(9歳)

きょうだいの中で一番人なつっこい子どもだった。近所の子どもの間ではリーダー的な存在で、いつも友達を引き連れて遊んでいた。

近所の人たちにも挨拶を欠かさず、いつもかわいがられていた。

三女 ラーナ(6歳)

姉のダーナと比べると、大人しい子どもだった。いつも家族の話に静かに耳を傾けていたという。自分の部屋で折り紙をしたり、本を読んだりするのが大好きだった。

長男 ヤヒヤ(5歳)

父のリヤドは、ヤヒヤは家族の中で一番のしっかりものだったと話す。正義感が強く、家族はみなヤヒヤの将来を楽しみにしていた。

次男 ゼイン(2歳)

一番年下のゼイン。家族のみんなからかわいがられ、愛される存在だった。

——その夜、ワハダ通りへの空爆で40人以上が死亡した。

そして、5日後の5月21日午前2時、イスラエルとハマスは停戦した。

リヤド・エーシュクンタナ

停戦にはなりました。でも、妻や子どもたちは帰ってきません。

がれきの下で、「パパ、パパ」と助けを呼ぶ子どもたちの声が、今も頭を離れないのです。

リヤド・エーシュクンタナ

助かった次女のスージー(7歳)には、『お母さんたちは、天国に行ったんだよ』と言い聞かせています。

でも、スージーは、『それはどこにあるの?』と聞き返してくるんです。

スージーは、衝突のあと、非常に攻撃的になりました。人にも会いたがらず、人が変わってしまいました。

リヤド・エーシュクンタナ

私はスージーとガザを出たいです。

スージーにとっても私にとっても、ここはいるだけで悪夢がよみがえってくるんです。

インタビュー動画(1分17秒)

ガザはいま—

停戦からまもなく半年がたとうとしているガザ地区。

街には活気が戻った。

しかし、街なかにはいまも倒壊した建物が生々しく残っている。

ことし8月、アーヤは涙を流していた。卒業試験を終えたのだ。

卒業試験では、なんとか大学への進学が可能な成績を取ることができた。4度の紛争を乗り越えたアーヤ。試験結果を受け取ったときには、カメラをはばかることなく、涙を流していた。

死をも覚悟した恐怖。そして、将来への道を開いたという安堵。その複雑な気持ちが入り交じった涙だった。

アーヤはいま、ガザ地区の大学に進学し、ITを勉強している。

ただ、大学に進学したとしても、ガザ地区では将来が保証されるわけではない。夢見ていた海外留学は、紛争下で勉強した試験の点数が足りず、あきらめたという。

そして、心にできた傷は癒えないままだ。

倒壊した建物が残っていることや、復興が遅れていることを除けば、街なかは活気にあふれ、市民生活は元に戻ったようにも見える。ただ、それは裏を返せば、次の衝突へのカウントダウンが始まったにすぎないのかもしれない。

すでに双方の間では、発火物を付けた風船を飛ばしたり、軍事拠点を狙った攻撃がたびたび起きている。

エーシュクンタナが暮らしていたガザ市のワハダ通り。

現地にはいまも壊れた建物の残骸が残っている。その建物の間に、ひときわ鮮やかな青緑色で描かれたひとつの落書きがあるのを見つけた。

鮮やかなペンキで描かれた女性が、力強い目つきでこちらを見ている。壁にはこう書いてある。

I've A DREAM =「私には夢がある」

ガザの人たちの夢とはなんだろうか。この女性は、アーヤかもしれないし、将来のスージーかもしれないし、亡くなったエーシュクンタナの家族の気持ちを代弁しているのかもしれない。

自由に留学ができ、自由に仕事に就くことができ、そして、自由に移動ができる。そんな普通のことを、ガザ地区の人たちは夢見ている。

パレスチナ問題を解決し、中東全体の平和を考える「中東和平プロセス」が始まったのは1991年の10月。それから30年が経った。

その間に、和平プロセスは忘却のかなたに追いやられ、複雑な国際情勢のなか、パレスチナ問題は置き去りにされる一方だ。

しかし、そのパレスチナにはいまも、国籍も、移動の自由もなく、家族を失っている人たちがいる。そうした現実に私たちはどう向き合うべきなのか、5月の衝突の犠牲者たちが、改めて私たちに問いかけているように感じる。

    監修
    香月隆之、那須隆博、濱西栄二
    取材
    曽我太一、ムハンマド・シェハダ
    撮影
    曽我太一、サラーム・アブタホン
    プロトタイプ開発・データVIZ
    斉藤一成
    コーディング
    後藤謙介

    ガザ地区被害状況データマップについて

    ・データソース:UNITAR(国連訓練調査研究所) https://www.unitar.org/maps/map/3301 に公開されているShapefile、メタデータを分析して可視化した。攻撃による被害データの中で、「Destroyed」「Severe Damage」「Moderate Damage」のみを採用。被害の可能性を示す「Possible Damage」「Possible Damage from adjacent impact, debris」は本コンテンツでは採用していない。Shapefileに記載のない情報(ビル・建物以外の被害状況)は国連への取材に基づく。

    ・ベースマップ:OpenStreetMap

    ・境界線(ガザ地区):OCHA(国連) https://data.humdata.org/dataset/gaza-stripmunicipal-boundaries

    ・被害者へのインタビュー:NHK取材

    を採用。マッシュアップによるデータ可視化、距離計測にはCARTOを利用している。

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