証言 当事者たちの声看板が倒れてきて 私は“車いすのアイドル”になった

2021年9月3日事故

ガタガタと揺れるものが視界に入った次の瞬間。

数百キロある看板の下敷きになっていました。

長い下積みを終え、やっと正規メンバーのアイドルになったのに。

腰から下の感覚がなくなり、私は絶望しました。

感じたことのない激痛

2018年4月11日、低気圧と前線の影響で風が強まり、東京の都心では23.2メートルの最大瞬間風速を観測した。

猪狩ともかさん

あの日。

ライブはお休みでしたが、ダンスのレッスンに参加するため秋葉原の劇場に向かっていました。

風が強く吹いていましたが、歩けないほどではありません。

スーツケースを引き、イヤホンで新曲を聴きながらいつものように歩道を歩いていたそのときでした。

気づくとうつ伏せの状態で、看板の下敷きになっていました。

「えっ、今何が起きたの。この状況ヤバいかも」

少しパニックになりました。

それと同時に頭をよぎったのは、アイドル活動のことです。

「これからレッスンあるのに」
「明日の仕事どうしよう」

自力で抜け出そうとしたものの、重くて動きません。

現場の歩道

今は撤去されていますが「湯島聖堂」の敷地内、上の写真の左側に建っていた木製の案内板が強風で歩道に倒れてきたのです。

あとで知りましたが、高さ2.8メートル、幅3.5メートル、重さは数百キロあったそうです。

助けを呼ばなきゃ。

転がっていたスマートフォンに手を伸ばしますが、届きません。

そのとき出せた精一杯の声で「助けて」と叫びました。

倒れた看板は、周りにいた人たちが3人がかりでどかしてくれました。

そしてうつ伏せの状態で苦しそうにしていた私を仰向けにしようと動かしたとき。

腰に今までに感じたことのない激痛が走りました。

救急車で搬送される間も体が動くたびに信じられないような痛みが襲い、息も苦しいままでした。

肺に血がたまっていて、呼吸がしにくい状態だったそうです。

「治らない可能性が高いの?」

入院中の様子

緊急手術は6時間に及び、目が覚めたのはベッドの上でした。

脚、ろっ骨、胸椎、腰椎の4か所の骨折、頭部挫創、まぶたの裂傷。

さらに医師はこう告げました。
「脊髄を損傷しているから、今は脚の感覚がなくなっています」

腰から下がしびれてひんやりとした感じでした。

例えるなら雪の中に脚が埋まっているような感覚です。

でもそのときは、けがのことを正確に理解していませんでした。

「脚はいつ戻りますか?」

「人によって個人差があるから何とも言えないけど、リハビリを続けていれば感覚が戻る可能性もあるから」

手は動いていたので、「遅くても3か月くらいかな」と軽く考えていて、今までと変わらない活動ができると思い込んでいました。

ただ見舞いに来た家族は違いました。
「車いすでもこんなことができるんじゃないか」と、治らない前提で話をするのです。

スマートフォンで脊髄損傷について調べて、ようやく自分の置かれた状況がわかってきました。

母と兄が面会に来た日、覚悟を決めて尋ねました。

「脚は治らない可能性の方が高いの?」

「…うん」

「私に隠してた?」

「今はまず生きていくために体調を戻さないとだから」

「そっか」

「でも先生はリハビリを頑張れば奇跡的に脚が動くこともあるって言ってたよ。それを信じて頑張ろう」

リハビリの様子

ブログにつづった思い

事故からおよそ1か月後の5月7日
猪狩ともかは、ブログに「大切な皆さまへ」と題したメッセージを掲載した。

私には「脚が動かない」という未来が見えていなかったんです。

でもこの事実を知って…

“歌って踊らなくなる時=卒業”
としか考えたことがなかった私は、踊れない猪狩ともかを想像することができなくて。

そんな状態の私に需要はあるのか。
いったい何ができるのか。

絶望しました。

(ブログより抜粋)

これは本当に自分の人生なのかと信じられませんでした。

自分の足で2度とステージに立つことができない…

夢の中にいるような、別の世界に来てしまったような。

そんな感覚でした。

長かった下積み時代

小学6年生のとき

地下アイドルグループ「仮面女子」の猪狩ともかさん(29)。

子どものころからアイドルが好きで、いつも元気をもらえる憧れの存在だったといいます。

ただあくまでも“憧れ”で、高校ではクッキング部に入り、卒業したあとは管理栄養士の専門学校に進学しました。

専門学校のときの実習

アイドルに挑戦したきっかけは、小学校で管理栄養士として働くための採用試験で不合格になったことでした。

「私が本当にやりたいことって何だろう」

このとき21歳。
ふたをしてきた自分の気持ちに気づき、「仮面女子」の見習い生として活動をスタートさせました。

「候補生」のとき 左下が猪狩さん

「仮面女子」の正規メンバーになるには、次のように昇格していく必要がありました。

「見習い生」→「研究生」→「候補生」→「仮面女子」

ステージが併設されたメイドカフェで働きながらダンスなどの実力をつけてファンを少しずつ増やし、「候補生」まで行きましたが、その先になかなか進めません。

4回目の挑戦で正規メンバーに昇格できたときには、活動を始めてから3年がたっていました。

正規メンバーに

でもそれからは夢のような毎日だったそうです。

正規メンバーとして地方に遠征に行ったり、個人で野球関連の仕事をもらったり。

その日々は輝いていました。

続けられる限り、アイドルを続けよう。

そう強く願い、忙しくも充実した毎日を送っていたさなかに悲劇が襲ったのです。

もう一度ステージに

2度と自分の足で歩けないと絶望していた猪狩さんを励ましたのは、ファンやメンバーたち、そして家族の支えでした。

メンバーがお見舞いに

「ファンの皆さんが待ってるよ」
「どれだけ時間がかかっても戻ってくるまでステージを守るからね」

お見舞いに来たメンバーに何度もかけられた言葉です。

でも、不安はありました。
車いすの自分がいると迷惑になるかもしれないと思ったのです。

猪狩ともかさん
車いすの自分が入ったら邪魔になったり、かっこ悪くなったりするんじゃないか。ファンの方たちは、車いすのパフォーマンスを喜んでくれるんだろうかとか。かっこいい仮面女子を自分が壊したくないって思いました。

そんな猪狩さんに家族は一切、ネガティブなことは言いませんでした。

父親が赤いペンでノートに書き込んだメッセージ。

トンネルの先に一筋の光 私の心に降り注いで
辛い記憶も唇を噛みしめた昨日も
何もかもが笑える過去になるよ

父より

仮面女子の曲の歌詞の一節でした。

背中を押してくれました。

車いすから見えた”景色”

2018年8月26日。
猪狩ともかは復帰ステージに上がった。

復帰ステージ

車いすで上がったステージ。

ファンから「おかえり」と大きな声援が届きました。

目線は少し低くなりましたが、猪狩さんがずっと見たかった景色がそこにはありました。

猪狩ともかさん
この景色を見るためにリハビリを頑張ってきてよかったなと思いました。復帰後しばらくは、ファンの皆さんが本当に満足しているのかなと不安でしたが、だんだんとできることが増えていき、自信を持てるようになりました。

最近では初めて見た方から「車いすの子が違和感なくライブしていてすごい」とか「1人だけ特別な動き方ではなく、チームとしてパフォーマンスをしていて感動した」といったうれしい感想も寄せられるようになったんです。

パラスポーツとの出会い

ハートネットTV 「めざせ!パラマニア」

不慮の事故は、活動にも大きな変化をもたらしました。

その1つが、パラスポーツに関する仕事が増えたことです。

車いすフェンシング、ボッチャ、車いすバスケ、パラ・パワーリフティングなどを体験。

選手たちの姿勢に勇気づけられました。

猪狩ともかさん
自分にできないことがあると障害のせいにしてしまいたくなるんですけど、選手たちは自分の障害と向き合いながらも試行錯誤して練習や試合に取り組んでいました。脊髄損傷だからしかたないとは思いたくないと、気持ちを新たにしました。

いつか自分の足で

猪狩さんはことしから新たな挑戦を始めています。

「いつか自分の足で歩きたい」という目標に向けて動き出したのです。

機械を装着し、歩く機能の改善を促すプログラムに取り組んでいます。

ブログには以前、こんな言葉もつづっていました。

色んな偶然が重なって私の両脚は動かなくなってしまいました。

でも、命が助かりました。

このことだけは何にも代えることのできない神様からのプレゼントだと思っています。

その分試練も与えられたけど、きっと越えられない試練は与えないはず。

「事故がなければ有名になっていない」それは事実だけど

“車いすのアイドル”としてメディアに露出するようになった猪狩さんに対して、批判する声もあるそうです。

「事故がなければ有名になっていなかった」

それは事実だし、そう思われてもしかたないとしたうえで、次のように胸の内を明かしました。

猪狩ともかさん
事故に遭ったから注目されるんじゃなくて、事故に遭っても前向きに頑張っているから注目されているんだよと言ってくれる方もいます。自分で自分を認めてあげることの大切さなど、障害のある私だからこそ発信できることがあると思っています。

そして、障害のある人が当たり前に受け入れられる社会になってほしいと話しました。

今は「車いすアイドル」と呼ばれて少し違和感もあるんですが、車いすに乗ったアイドルやタレントさんが普通にいる世の中になっていけば、それも変わるんじゃないかなと。「車いすアイドル」ではなく「猪狩ともか」という個人として認めてもらえるようになればうれしいです。

地元・埼玉県で聖火ランナーに

子どものころ、アイドルは元気をもらえる憧れの存在だったと語っていた猪狩さん。

周囲に支えられながらも強い心で前を向くその姿は、キラキラと輝いて見えました。

  • 首都圏局記者 戸叶直宏 2010年入局
    インクルーシブ公園など共生社会について取材