2022年10月17日
ウクライナ ロシア

「ただただ、恐怖」ロシアに避難せざるをえないウクライナ人

「自分を守ることができず、ただただ恐怖でした」

ウクライナでロシアによる支配地域に一時的に連れて行かれたウクライナの人の言葉です。

ロシアによる軍事侵攻が続くウクライナでは、多くの人が国外に避難していますが、その中には、ロシア側に向かったという人も少なくありません。

ロシア側では何が起きているのか。

ロシアに避難せざるをえなかったというウクライナの人に、オンラインで話を聞くことができました。

(国際部記者 松田伸子)

ウクライナから避難している人はどれくらいいるの?

国連のまとめによりますと、ロシアの軍事侵攻を受けてウクライナからのべ1200万人以上が国外に避難しています。

そして、そのうち260万人近くがロシアに『避難』したとしています。(いずれも2022年9月15日現在)

なぜ、ウクライナに侵攻を続けているロシア側に向かったのか。

取材を続けると、ロシアに避難せざるをえなかったという女性と、ロシア側に一時的に避難して、今は別の国で暮らす女性2人の合わせて3人に話を聞くことができました。

今回は、このうちの1人の話を、お伝えします。
※取材に応じてくれた方の中には、名前を公表してもよいという方もいましたが、安全のため匿名としました。

話を聞かせてくれたのは?

ウクライナ東部のマリウポリで暮らしていた40代の女性です。

侵攻が始まる前は、1人暮らしをしながら、医療関係の仕事をしていました。

侵攻後、爆撃を受けて足にけがを負って、ロシア側に“避難”したあと、ロシアの西側で国境を接しているバルト三国のラトビアを経由して、今はその隣国リトアニアに避難しています。
(以下、取材に応じてくれた女性の話)

マリウポリでは何があったのですか?

ロシアが侵攻を開始した2022年2月24日に砲撃が始まり、地下シェルターに避難しました。

そして、3月13日までずっとそこにいました。特に、女性は外に出ないように言われていたので、家に縛りつけられているような感じでした。

外の様子はわかりませんでしたが、街で何が起きているのかを考えると、とても怖かったです。

3月13日に、私たちが避難していた家が爆撃を受けました。家はがれきとなりました。

女性が避難していた住宅

6人が亡くなり、兵士1人を含む3人がけがをしました。私も足に大けがをしました。病院に搬送されましたが、薬もなく、治療を受けられない状態でした。

3月22日にはロシア兵がやってきて、治療のためドネツク州内の(※)の親ロシア派が支配している地域に連れて行かれました。

私は動ける状態ではなかったので、連れて行かれるほかありませんでした。

※マリウポリがあるドネツク州は、2014年から親ロシア派の武装勢力が一部の地域を支配している。ロシアと国境を接していて、歴史的にも経済的にもロシアとのつながりが深い住民が多い地域。

連れて行かれた先はどうでしたか?

大きな病院は軍人やもっと重傷の患者が入るようで、私は小さな病院に入れられました。その病院には水も、食料もありませんでした。

助けが得られず、ベッドで横たわって何もできず、自分を守ることができない状況は、ただただ恐怖でした。

幸いにも、ロシア側の医師は、私を患者として扱ってくれましたが、看護師の中にはそうではない人もいました。

彼女たちの夫は戦場に行っていて、ウクライナ人を“敵”だと思って戦っているのでしょうから、彼女たちにとっては私も“敵”だったのだと思います。

ロシア側の兵士がウクライナの市民を攻撃し、攻撃でけがをしたウクライナの市民をロシア側の人が治療する。おかしいですよね。

これが戦争の現実でした。

ほかにもウクライナの人たちはいたのですか?

私の病室には、8人の女性がいましたが、全員マリウポリから運ばれてきた患者でした。

私以外の女性たちは、そのままロシアが支配する地域に残ることを決めていました。

すべてが破壊されたマリウポリでの未来が見えなかったのでしょう。

彼女たちは、ウクライナのテレビやニュースに目を通すことはなく、ロシアのテレビ報道を見て、ロシア側の視点からこの戦争を見ていました。

彼女たちは、ロシア側に変わってしまい、ロシアで生きることを選んでいるようでした。

その病院の中では、ロシアに肯定的な人たちがほとんどで、「常識」を持っている人は、ほんの数人でした。

そこにいる人たちはみんな圧力をかけられ、ロシアに反対することは言えないようでした。

正しい情報を聞こうとしないのです。

私が「事実」を話そうとすると、私を黙らせようともしました。

女性の住宅は攻撃された

ですから、そこでは静かにしているか、うそをつかなければなりませんでした。

そんなところには絶対いたくありませんでした。

私は、そこから抜け出さなければならない、どうやったら生き残れるのか、このことをいつも考えていました。

困難な状況の中でも、なんとしても生き残らなければならないと強く思っていました。

どうやって出ることができたのですか?

私は、携帯電話も身分を証明するような書類も何も持っていませんでしたが、息子の電話番号は覚えていました。

知り合いに電話を借りて息子に連絡しました。その中で、どうやってロシアが支配する地域から出られるか、相談することができたのです。

私は親ロシア派が支配していた地域にも知り合いがいたのですが、その彼女が古い電話をくれたんです。

画面が壊れて、インターネットは使えませんでしたが、SNSなどで連絡を取ることはできました。

そして、ロシアや親ロシア派の支配する地域からヨーロッパに逃げるのを助けるボランティアとつながることができたのです。

たくさんのボランティアと連絡を取り、その中の1人でリトアニアの女性に相談して、まずロシア側に向かうことにしたのです。

そのためには300ユーロが必要だったのですが、友人が費用を集めるのを助けてくれました。

ボランティアからは、けが人だということがわかるように、松葉づえを使うように言われました。

ロシアにはどのようにして入るのですか?

5月5日に病院を出されたのですが、ロシアに入るためには、まず「フィルターキャンプ」という場所で、身辺調査を受ける必要がありました。そこを通らなければ、ドネツク州を出ることはできませんでした。

ただ、実際に行ってみると「フィルターキャンプ」を通り抜けるためには、1か月はかかると言われました。

私はどうしても待つことができませんでした。車の運転手は嫌がりましたが、「けがをしている市民」だということを口実に、「フィルターキャンプ」を通らずに、直接ロシアの国境を目指すことにしました。

国境に着くと、ロシア人の兵士が私の携帯電話をチェックしました。電話の履歴などはすべて消去していて、見られても問題ないようにはしていましたが、その時はとても怖かったです。

私は松葉づえをつきながら「私は一般市民で、けがをしている」ということを兵士に伝えました。

そうすると、国境を通過させてくれました。私がそこで見た印象だと、ロシアの兵士は、女性、けが人、子どもに対しては甘かった感じがしました。

国境を通過したあとはロシア国内を車で走り、44時間かけてラトビアの国境に着きました。

そこでは9時間待たされることになりました。同じ車に乗っていた別の男性の審査に時間がかかったのです。その間ずっと座らされていました。

健康な人でも9時間いすに座って待つのは大変なことです。私のようなけが人であれば、なおさらです。

それでも、なんとかロシアの国境を通過して、最終目的地のリトアニアの首都に着いたのは、5月9日のことでした。

今はどうしていますか?

リトアニアの療養施設でリハビリを受けています。歩けるようになるまで、3か月以上はかかると言われています。

私のけがが治る頃、ウクライナがどうなっているのか、戦争がどうなっているのか、想像がつきません。

取材に応じてくれた女性

私は、侵攻が始まる前のマリウポリに帰りたいです。

私は、海のそばで育ち、その海が大好きでした。

でも、今は“死の街”になってしまいました。

私のすべての人生も、その中に埋められているのです。

少しでも状況を知るために

今回の取材では、なかなか取材を受けてくれる人が見つかりませんでした。

避難者の支援をしている人によると、ロシアに避難したり、連れて行かれたりしたウクライナの人は、通信手段を持っていない、ショックが大きく話せる状態にない、自分の身の安全を守るためといった理由で、取材に応じられないケースが多いとのことでした。

ロシア側に避難せざるをえなかった人たちが、どういう状況に置かれているのかを少しでも知るために、引き続き取材していきたいと思います。

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