
その男性は、後悔していることがあるといいます。
ロシアの攻撃が迫り、高齢者を避難させる予定でした。
でも、その前に、その高齢者はアパートが砲撃され、亡くなりました。
だからこそ、男性は「自分が犠牲になっても人の命を救う」という思いを強くしていました。
激しい戦闘が行われたウクライナ東部で、住民を助け続けた男性に話を聞かせてもらいました。
(国際部記者 近藤由香利)
話を聞かせてもらったのは?
ウクライナ東部ルハンシク州のセベロドネツクで生まれ育った、アルチョム・グディムさん(38)です。

セベロドネツクは、東部に展開するウクライナ軍の拠点の1つでしたが、3か月に及ぶ激しい戦闘の末、6月25日に、ロシア軍に掌握されました。
グディムさんは、侵攻の直後から地元に暮らす人たちを助ける活動を続けてきました。
(以下、グディムさんの話)
ロシア軍の侵攻後、どんな状況でしたか?
私はセベロドネツクの中心部に住んでいて、最初の2日間、攻撃はありませんでしたが、3日目から街なかにいることに危険を感じるくらい攻撃が増えていきました。
はじめは集合住宅に砲撃があり、地下のシェルターに避難する必要がありました。
私は、住宅の上の階に住んでいる子どもたち、高齢者、体が不自由な人たちがシェルターに避難するサポートをしていました。

どんな活動に取り組んできたのですか?
すでに避難した知人の倉庫に残っていた食料を住民のみんなに配っていました。多いときで1日1000件ほど、食料を求めるメッセージが届き、私1人では対応しきれませんでした。
ただ、徐々に手伝ってくれる人が増えて、最終的には45人で配りました。

車で食料を届けに行くこともありましたが、車に乗ってしまうと外の砲撃の音が聞こえにくいので、歩いて届けに行くことが多かったです。
また、3月から4月にかけて、セベロドネツクからの避難を希望する人と、車を所有していて避難を手伝ってくれる人をつなぎ、約100人をドニプロ(※)に避難させました。
※ドニプロ
セベロドネツクから西に約250キロ離れた街。
危険を感じた場面はありましたか?
ある日、牛乳を買うために外で並んでいたところ、その列にミサイルの攻撃があり、目の前で人が亡くなるのを見ました。
また、食料を届けている最中に、砲撃の際に飛んできた何かの破片が肩に当たって、けがをしたこともあります。
車で移動中、数十メートル先にミサイルと見られるものが落ちてきました。
慌てて車から飛び出して近くの家の角に隠れましたが、私たちの乗っていた車に当たって、車が燃えるということもありました。

これまで8回ほど、近くで砲撃の音を聞きましたが、隠れる場所がないときは、歩道に伏せていました。
そこまでして人を助けるのはなぜですか?
自分の命が犠牲になったとしても、他の人の命を救うことが大切だと思っているからです。
できるだけ、多くの人をミサイル攻撃から助けて、食料がなくて餓死しないで済むように、なんとか救いたいと思いました。
防空警報が出たとき、体が不自由な人は1人でシェルターに避難できないので、一緒に避難しました。
でも、ものすごく後悔していることがあります。
それは、ある高齢者からシェルターに避難したいという相談があったときのことです。
その翌日、一緒に避難する予定でしたが、その前にアパートが砲撃されて、その高齢者は亡くなりました。
助けることができなかったのです。
シェルターに避難した人たちの様子はどうでしたか?
シェルターは地下にあるのですが、避難した人たちは地上に出ることに対しておびえていました。ですので、私たちは心のケアをしたり、運動するよう呼びかけたりしていました。
一緒に活動していたボランティアの仲間からは「これ以上いるのは危ないから避難しよう」と言われましたが、活動を続けていました。
でも、ある日、私が勤めていた会社にミサイル攻撃があり、その数日後、自宅のアパートにも攻撃があったので、最終的に避難しようと判断しました。

4月7日に、車2台で、祖母、両親、知人に加えて、車の余ったスペースに避難を希望する人を乗せて、ドニプロまで避難しました。
妻と12歳と11歳の子ども2人は、先に国内の安全な場所に避難させていました。
今は何か活動をしていますか?
ドニプロに避難したとき、避難してきた人たちが住む場所が少ないことに気付いたんです。
だから、150平方メートルのオフィスを借りて、家を失った人たちの“仮住まい”とすることにしました。今は30人近くが住んでいます。

活動を長く続けるために心苦しいですが、最低限の家賃はもらっています。
今は、ボランティアが食料を届けてくれるので、住んでいる人たちは食料を無料で食べることができています。
ベッドや棚などは寄付金でそろえることができました。
この“仮住まい”に住んでいる人たちは、それぞれ困難を抱えているので、心のケアにつなげるため、みんなで一緒に絵を描いたこともあります。
みんなの一番の望みが、セベロドネツクの家に帰ることだったので、平和だったころの思い出を、思い思いに描きました。

この戦争が終わっても、すぐにはセベロドネツクには帰れないと思うので、しばらくはこの活動を続けていかないといけないと思っています。
今、どんな思いですか?
ウクライナの平和を一番望んでいます。みんな戦争で疲れて、一般の市民が犠牲になっています。
そして「ウクライナは、戦争ではなく平和を望んでいる」ということを全世界の人たちに知ってほしいと思います。
多くのウクライナの人たちは、自分の家に1日も早く帰りたいと願っているのです。
全世界が一緒になって、ウクライナの平和を作ってほしいと心から願っています。