2022年9月21日
ウクライナ ロシア

何者?ゼレンスキーも語るウクライナの自由の民コサックとは

「私たちは敗れることはない!なぜなら我々はコサックの一族だからだ!」

ロシアによる軍事侵攻が続く中、ウクライナのゼレンスキー大統領は、2022年6月、国民に向けたビデオメッセージでこう呼びかけました。

ところで、なぜ“コサック”なの?そもそもコサックって何者なの?

調べてみると、ウクライナの知られざる自由と闘いの歴史が見えてきました。

(国際部記者 吉元明訓、ネットワーク報道部記者 杉本宙矢)

コサックって、あのダンスの?

コサックと聞いて、どんなイメージを思い浮かべるでしょうか?私たちがまず思い浮かべたのは「コサックダンス」。

跳ねるように足をリズミカルに前に突き出す、あのダンスです。

取材を始めると、日本にもコサックダンサーがいるということが分かりました。

取材に快く応じてくれたのは、俳優でダンサーの酒井靖史さん。YouTubeで「コサックマニア Cossack mania」というチャンネルを作りコサックダンスの実践的なやり方を解説しています。

「わたしはアクション俳優をしているのですが、たまたまネットでコサックダンスの動画を見つけて、武術みたいでカッコいいと思ったんですね。でも実際にやると、身体にものすごい負担がかかるんです。圧倒的な筋力が必要で…。5年ぐらいしてようやく今の形になりました。フォームを崩すとダメなんですよ、こんな感じで」(酒井靖史さん)

ところで、コサックダンスってそもそも何なのでしょうか?

「コサックダンスはロシアの舞踊と間違われることもありますが、ウクライナの伝統文化と言われます。現地では今でも祝い事の席などでダンサーが披露したりしているようです。もともとコサックはウクライナの昔の軍人の集団で、その踊りは体の強さと柔軟さ、そしていくさでの武勇を表しているそうです」(酒井さん)

なるほど。コサックは軍人だったので、強靱な肉体を持っていて踊りもうまいと。

ただ、「コサックってロシアのイメージが強いんだけど…」と、周りからはそんな声がちらほら。

たしかに、日露戦争を舞台にした司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』にもコサックが登場していましたが、旧日本軍が戦ったのは、当時世界最強とも言われた“ロシア帝国のコサック騎兵団”だったはず。

日露戦争時のコサック騎兵団

一方、資料を見ていると、ウクライナの国歌にはこんな一節が。

“我ら自由のために心と体を捧げ
示そう 兄弟たちよ
我らコサックの一族であることを”

(原田義也訳)

なんとコサックは、国歌にまで登場していました。

専門家に聞く、コサックの起源

「コサックは、ウクライナの人々にとって自由の象徴なんです」

こう話すのは、ウクライナの歴史や社会に詳しい神戸学院大学の岡部芳彦教授です。岡部教授によると、コサックを理解するキーワードは「自由」だというのです。

そもそもコサックというのはどんな存在なのでしょうか?

「ロシアにもコサックがいるんですね。日本ではコサックはロシアのものと思っている人が多いし、実際、日露戦争のときに戦っているコサック騎兵もロシア軍の一部なんですよ。言ってしまえば、コサックの歴史は、ウクライナを中心に栄えた自由の民・コサックたちがロシア帝国と戦う中でどんどん取り込まれていく過程なんです」(岡部教授)

いったい、どういうことなのか。まずはコサックの成り立ちから話を聞きました。

(以下、岡部教授の話)

そもそもコサックとは?

まず押さえておきたいのは、コサックは“特定の民族ではない”ということです。

ウクライナの国歌には「コサックの一族」とうたわれ、ゼレンスキー大統領も「一族」と表現していますが、もともとは血のつながりはない、いろんな地域から寄せ集めの人々の集団です。

具体的には、15世紀後半ごろに東ウクライナから南ロシアの未開拓地に形成されたとされる“社会集団”で、当時、周辺にあったポーランドやモスクワ、オスマン帝国などの王様たち(領主)の支配を嫌ったり何らかの理由で逃れてきたりした、いわば「はぐれもの」の集まりでした。

当時、ウクライナのコサックは大国に囲まれていた

そもそもテュルク系言語で「自由の民」を意味するコサックは、より歴史を遡ると「群れを離れた人」という意味があったと言われます。

どんな集団だった?

ふだんは農業や漁業を営みながら、いざ戦争となったら戦士になる武装集団です。ウクライナは肥沃な農業地帯でしたし、船に乗るのがうまいコサックもいて漁業をする人々もいたようです。草原が広がる未開の土地を開拓して守るためには、武装しながら生業を立てるのが、都合が良かったと考えられます。

分かりやすくイメージしてもらうなら、宮崎駿監督のジブリ映画『もののけ姫』に出てくる「タタラ場」の集落(※)が近いでしょうか。コサックの産業は製鉄ではなく農業や漁業ですが。明治時代に北海道を開拓した屯田兵は、コサックをモデルにしたという説もあるんです。

※タタラ場の集落
劇中に登場する、古くからの手法で製鉄を生業(なりわい)とする村。鉄を狙う外部の侍たちと戦うため、村人が武装して暮らす様子が描かれる。

文化的な特徴は?

服装が特徴的ですね。アラビアンナイトみたいな服装も取り入れられているので、それが中東・オスマン帝国から逃げてきた人たちの影響も大きいんじゃないかなと思います。

コサックは奴隷から貴族まで様々ですから、彼ら一人ひとりの出自やバックグラウンドは問われません。お互いの関係は平等です。

毛皮の帽子に亜麻布でできた長袖の上着、ゆとりあるズボン、革製の長靴、長い鼻ひげに頭髪は一部を残して剃っていたと言われる

平等って、どういうこと?

コサックの意思決定一番の特徴は、「ラーダ」と呼ばれる集会で物事を決めていたことです。この集会ではリーダーも選ばれるのですが、これはあくまで武装集団を率いる「隊長・頭領」であって、決定権を独占する王のような存在ではなかったんですね。

しかもリーダーは“血統”ではなく、“選挙”で選ばれていたんです。

こちらの絵を見て下さい。

これは19世紀末にイリヤ・レーピンというロシアの画家が描いた「トルコのスルタンへ手紙を書くザポリージャ・コサック」(※)という作品です。

この場面は隣国のオスマン帝国の皇帝が「配下になれ」と要求してきたときに、多くのコサックたちがガヤガヤと議論をしながら「支配には屈しないぞ」と決める、一種の独立宣言のようなシーンなんです。

ウクライナでも愛されている作品で、最近ではゼレンスキー大統領が出演していたドラマ『国民の僕』のオープニングにも登場しています。

このようにコサックの集会の参加者は平等な関係ですし、直接民主制といってもいいでしょう。現在のウクライナの国会にあたる最高会議も「ラーダ」ということばが使われていて、研究者の中には「ウクライナの民主制の起源はコサックのラーダにあった」と主張する人もいます。

※ザポリージャ・コサック
ドニプロ川(ロシア名 ドニエプル川)の下流を拠点にしていたウクライナの代表的なコサックの集団。ロシア側の代表的なものとしてはドン川付近に形成された「ドン・コサック」があり、ミハイル・ショーロホフの長編小説『静かなドン』でも描かれる。

なぜコサックは注目されたの?

ラーダで選ばれたリーダーを中心に軍事組織が強化され、徐々に支配地域も増えていきました。当時の軍隊というのは傭兵ようへいが中心で、明確な国境もなく「国のために戦う」という近代国家の発想は薄い。そんな中、コサックたちは自分たちの土地を守るために戦うんですね。だから強い。

この軍事力に周辺国も目をつけます。隣国のポーランドは一部のコサックを軍に登録させ、地位や給料、土地の所有などを認める制度を始め、その軍事力をイスラム勢力から本土を守る盾として利用しました。

このポーランドの政治介入によって認められるコサックと、そうではないコサックで階級化が進み、本来のコサックの自由・平等の組織はくずれていきました。

コサックは独立国をつくったの?

ポーランドに不満を募らせ反乱を起こした人物がいます。ザポリージャ・コサックの頭領だったボフダン・フメリニツキーです。

1648年のこの動きは「フメリニツキーの乱」と呼ばれ、内実はコサックの自治拡大を目指した対ポーランド戦争でした。翌年には事実上、ウクライナにおける初めてのコサックの国家(ヘーチマン国家)がつくられました。

ただ、「独立」という点で問題になるのは、彼がポーランドに対抗するためにロシアと協定を結んだことです。その内容はロシアがコサックの自治権を認める代わりに、モスクワの君主であるツァーリにウクライナの支配権を認めるものでした。

つまりは皮肉なことに、“建国の英雄”は短期的にロシアを味方に引き入れるつもりが、結局従う国を変えただけで、ウクライナの独立を手放した“裏切り者”とも言われてしまうのです。

自由の民はどうして「帝国の先兵」に?

フメリニツキーの死後、コサックの国家は周辺国によって東西に分割されてしまいます。西側はポーランド領、キーウなど含む東側はロシア領となります。

当時、ロシアは「近代化の父」と呼ばれるピョートル大帝が統治し、コサックの“ロシア化”が進みますが、18世紀の初めに頭領イヴァン・マゼッパは自治の拡大を目指し反旗を翻します。

しかし、数万人を擁するコサック軍団といえども、近代化されたピョートルの軍には及ばず敗北。日本で例えるなら、さながら「長篠の戦い」(※)で鉄砲隊を擁する織田信長に武田軍の騎馬隊が突っ込むみたいな感じですかね。

結局、マゼッパは亡命先で亡くなります。この反乱を機にコサック(ヘーチマン国家)の自治はさらに制限され、18世紀後半にはロシア帝国の直轄領に編入。ついにウクライナ・コサックは国家としては消滅し、ロシア帝国の傭兵ようへい部隊となっていくわけです。

※長篠の戦い
1575年、織田信長が火縄銃を使った戦法で、騎馬軍を率いる武田勝頼の軍を相手に勝利した戦い。

なぜコサックは今も注目されるの?

ロシアではコサックはまさに「帝国の先兵」であり、領土を広げた“愛国者”と位置づけられました。一方、ウクライナにおいてコサックは現実としては失われながらも、独立を目指す精神的な理想として捉えられるようになります。

「コサックの子孫」だとうたうウクライナ国歌の作詞は、すでにコサックの国家が消滅した後の1860年代にできていますね。

また、第1次世界大戦ごろのウクライナの独立運動も有力者のパウロ・スコロパツキーらコサックを中心とした動きでした。

キーウにあるフメリニツキー像

20世紀の間、ウクライナの独立運動は何度も失敗に終わりますが、その間もコサックは自由と独立を目指す精神として生きながらえました。

そして旧ソビエトの崩壊後、最終的に独立を果たした際に国歌として採用されたように、ウクライナの重要な国民的アイデンティティーの1つであり、自由のシンボルとなっているのです。

(ここまで岡部教授の話)

大統領、コサックと自由を語る

ことし6月にウクライナのゼレンスキー大統領はビデオメッセージで「私たちは敗れることはない!なぜならわれわれはコサックの一族だからだ!」と訴えました。

そしてウクライナの「国家の日」と定められた7月28日には、公開した動画で自由についてこう語りました。

「私たちにとって自由でない生き方は生きることとは言えない。誰かに依存することは、私が存在しないということだ。自立や自由がないウクライナはウクライナではない。私たちは奴隷ということばを認識しない。この単語は私たちの辞書にはあるが、私たちの頭の中にはない。私たちは最後の息、最後の弾薬、最後の兵士まで戦うのだ」

次回は…

ウクライナの歴史についてはシリーズでお伝えしています。前回は「キエフ・ルーシ」について解説しました。

【詳しく】プーチン大統領なぜ執着?キエフ・ルーシの歴史とは | NHK

次回はウクライナの「独立運動」についてお伝えする予定です。

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