2023年11月29日
パレスチナ イスラエル 中東

ガザの現実を伝える2人「報道し続けることは私たちの義務」

「もしジャーナリストがいなければ、他の誰が伝えるのでしょう。報道し続けることは私たちの義務です」

死者が1万5000人を超えたパレスチナのガザ地区をめぐる軍事衝突。おびただしい数の犠牲者と破壊に終わりは見えない。

にもかかわらず、その現場を伝えるために今、メディアがガザ地区に入ることは原則できない。NHKの現地からの報道は2人のパレスチナ人スタッフによって支えられている。

ガザ取材を担う2人

NHKのガザ事務所は2人のジャーナリストによって支えられている。プロデューサーのムハンマド・シェハダとカメラマンのサラーム・アブタホンだ。10年以上も現地からの報道を一身に担ってきた。

NHKガザ事務所 ムハンマド・シェハダ プロデューサー(右)と サラーム・アブタホン カメラマン

軍事衝突が始まった10月7日。一報を伝えてきたのはやはり彼らだった。

午前6時42分、ムハンマドからメッセージが届く。かつて見たことがない規模でロケット弾がイスラエルに向けて発射されているという。ハマスは20分間に5000発ものロケット弾を発射したと主張。数々の軍事衝突を取材してきたムハンマドにとっても、まったく次元の違う攻撃だった。

2人はすぐに家族を避難させることを決断する。それぞれ幼い息子と娘を持つ父親だ。親戚の家に家族を避難させると、すぐに事務所に向かう。軍事衝突が起きた際の2人の動きは決まっている。衝突が続く限り事務所に泊まりこむのだ。

パレスチナ ガザ地区から発射されたロケット弾(2023年10月7日 NHKガザ事務所から撮影)

ビルの11階にある事務所からは最大の都市、ガザ市が一望できる。イスラエル軍による空爆を撮影するのに最適な場所なのだ。このビルにはハマスの関連施設はなく、攻撃対象にならないと見られてきたからだ。ムハンマドとサラームは窓を全開にして夜も撮影を続ける。伝送されてきた映像からは、窓際にカメラだけ設置して、素早く離れるムハンマドの姿が映っている。

こちらからは「撮影を止めて帰ったらどうか」と水を向けるが、「家には帰らない」とだけ短い返信がくる。現場を熟知する彼らに日本人の安全アドバイスなど不要なのだ。

空爆で倒壊するビル(2023年10月7日 同事務所から撮影)

繰り返す避難生活

イスラエル軍は事務所の入ったビルには攻撃しない、という考えは攻撃開始からわずか2日で通用しなくなる。周辺地域にイスラエル軍が空爆を行うと警告したのだ。カメラ、防弾ベスト、ヘルメット、編集用のパソコンといった最低限の機材を持って急いで避難する。これまではあり得なかった事態だ。

「ガザに安全な場所などない」。

ムハンマドがこう口にするようになったのはこの頃だ。

空爆が激しくなるにつれガザ地区の通信状況が悪くなる。やりとりが滞り始める。

10月12日、カメラマンのサラームが家族を避難させていた地域にもイスラエル軍から退避通告が出る。さらなる避難のために彼が家族を迎えに行く。その時の様子をムハンマドが撮影している。映像では、6歳の息子がおもちゃを両手に持ちながら駆け寄ってくる。きつく抱きしめて言葉が出ないサラーム。娘と息子が泣きじゃくるのを落ち着かせようと抱きしめ続ける。妻のハーラも加わり、家族全員が涙を流し続けている。そこには、どんな時も飄々ひょうひょうとしているサラームの姿はない。

家族を抱きしめるサラーム

撮影したムハンマドは「誰かが記録しておかなければならないと思った」と話している。抱擁を続けるサラーム一家にムハンマドが声をかけている。「ハラース」。終わりにしろ。もう行くぞという意味だ。

翌13日、イスラエル軍はガザ地区北部の住民100万人に南部に退避するよう通告する。2人は家族を連れて南部のラファまでの避難を決断する。

この2か月近くで2人は7回も避難先を変えることを余儀なくされている。

避難するたびにその先が空爆対象になるからだ。

「安全な場所に避難して」。

その一言すらかけられない。今のガザに安全な場所などないからだ。

何の気休めにもならない、むなしい言葉をかける気になれない。

2人から届く映像

たびたび通信が遮断される中で、途切れ途切れの細い回線からムハンマドが映像を送ってくる。

人々であふれかえる避難先の国連施設。

食料不足に陥る中でパンの販売店にできた長蛇の列。

電力不足で地下水のくみ上げができず、子どもたちが手作業で水を貯水タンクに運ぶ様子。

伝送されてくる映像の1つ1つが、ガザの窮状を訴えかけてくる。

ガザで何が起きているのかをNHKが直接知る手立ては彼らを通して以外にない。

ムハンマドは映像とともにメッセージも送ってくる。

「30分おきに空爆が行われている」
「病院で対応する医師が、運ばれてきたけが人が自分の子どもだったと言っていた」
「3日で10時間しか寝られていない」
「パンを確保するのに7時間並ばなければならなかった」
「とにかく水が手に入らない」
「友人のジャーナリストが亡くなった」

「(避難先の)ラファでは1か月間で水道水が出たのは8時間だけだ」
「妻が正気を失いそうだ」
「これはどんな人間にとっても耐えられないことだ」

彼が伝えてくる内容は、ガザの住民全員が直面している現実だ。

ジャーナリストとして目の前のことを記録しているだけではない。

彼らが一市民として経験していることなのだ。

たまに自撮りの写真も送られてくる。

憔悴しきっている様子が伝わってくるが、中には笑顔のものもある。

理由を尋ねるとムハンマドはこう説明した。

ムハンマド
「家族がいるから強く振る舞わなくてはならない。妻や子供に希望を与えるために笑顔を見せる必要がある。自分たちは弱く、そして今も怖い。でも、それを家族の前で見せることはできないんだ」

ガザ報道を支え続けてきた家族

ムハンマドの実家、シェハダ家とNHKの付き合いは長い。ムハンマドの父親で腕利きのカメラマンとして知られたアブデルサラム・シェハダから親子2代続く関係だ。1994年のNHKのエルサレム支局開設の翌年から、アブデルサラムは14年にわたってNHKのカメラマンを務めた。その後、長女のビサーンがプロデューサーとして跡を継ぎ、2012年からはムハンマドが事務所を切り盛りしている。

 カメラマンのサラームもアブデルサラムのアシスタントとして弟子入りし、音声マンからキャリアをスタートさせている。

ムハンマドは激動するパレスチナ問題とともに人生を歩んできた。生まれたのは1990年。そのわずか3年後にはイスラエルとパレスチナの間で歴史的なパレスチナ暫定合意、いわゆるオスロ合意が交わされている。

「オスロ合意」(1993年)

イスラエルの占領下で閉塞感に包まれていたガザ地区で、一転して和平への期待が高まっていった時でもある。ガザ地区では国際空港も開港。パレスチナが国家となる日はすぐそこまで来ていると人々は信じていた。

情勢が暗転したのは、ムハンマドが10歳となった2000年。聖地エルサレムの帰属をめぐって双方の衝突が激化。第2次インティファーダと呼ばれるパレスチナ側の民衆蜂起が起きる。

この頃に当時のエルサレム支局長が撮影した写真には、あどけないムハンマド少年が写っている。

シェハダ家の食卓 右手前がムハンマド(2000年ごろ)

 2007年にはハマスがガザ地区を実効支配。締め付けを強めるイスラエルが人と物の出入りを厳しく制限し、ガザ地区は「天井のない監獄」とも呼ばれるようになっていく。そんな中でもムハンマドは、2年間、フランスの大学に留学する機会に恵まれる。

 ヨーロッパで自由の風を浴び、先進国の暮らしを経験したムハンマド。フランスでの生活は、封鎖下におかれ、数年おきに軍事衝突が起きるガザのものとは比べるまでもない。しかし、ムハンマドはガザに戻ってくる。姉と弟2人はよりよい機会を求めてカナダに移住している。なぜムハンマドだけガザに残るのか。

ムハンマド
「両親は今もガザで暮らしている。長男だから親を支えないといけないんだ」

シンプルな答えだった。

現在のムハンマドの家族

大黒柱として

ガザ事務所の大黒柱としてムハンマドとサラームはNHKの歴代エルサレム支局長を様々な面で支えてきた。

 2013年、ヨーロッパでは、占領を続けるイスラエルに抗議するため、イスラエル製品の不買運動が広がっていた。特に活動が盛んだったのはフランス。運動には移住したパレスチナ人などが多く関わっていた。

 ムハンマドはアラビア語もフランス語も話せる。フランスでの取材に連れて行きたいが出入りが厳しく制限されているガザ地区からの出域は簡単ではない。イスラエル、エジプト、そしてハマスからも手続き上の了承を取り付ける必要がある。数か月の調整を経て、なんとかすべてのペーパーワークが完了する。ムハンマドとサラーム、当時働いていたもう1人のプロデューサー、ラミのあわせて4人でフランスへの取材に向かった。サラームとラミにとってガザから出るのはこれが生まれて初めてだった。

フランスでのイスラエル製品の不買運動(2014年)

 取材を終えてホテルで休んでいると部屋のドアがノックされる。開けると神妙な顔をしたムハンマドが立っている。

ムハンマド
「ラミがこのままフランスに亡命すると言ってます。ガザに帰りたくないと」

言葉を失う。封鎖され、イスラエル軍の脅威にさらされ、恒常的な停電が続き、将来の展望が見えないガザよりも、ヨーロッパでの人生に賭けてみたい。その気持ちは痛いほどよくわかる。誰にもそれを止める権利はない。

 しかし、支局長は関係機関に頭を下げ倒して3人のガザ出域を実現させている。これで1人でも戻ってこなければ、ただでは済まされない。最悪、支局閉鎖のシナリオも頭をよぎる。しかし、自分にラミの未来を奪う権利があるのか。答えを見つけられないまま、気まずい時間だけがすぎる。人の真価が試される瞬間とはこういう時のことだ。

 見かねたムハンマドがこう口にする。

ムハンマド
「自分が説得します」

おろおろするばかりの支局長を前に、嫌われ役を買って出るムハンマド。同僚の未来への希望を断ち切るのは簡単ではない。結果的にラミは説得に応じる形で取材班と一緒にフランスからガザに戻った。

2014年“50日戦争”

過去何度も繰り返されてきたイスラエル軍とハマスとの大規模衝突でも、ムハンマドとサラームは欠かせない役割を果たしてきた。

地上侵攻が行われた2014年の衝突は50日間に上った。当時、東京からきたエルサレム支局長は着任したばかりで素人同然。しかも、まだガザ地区に入ったこともなく、ムハンマドやサラームとも電話でしか話したことがなかった。

2014年のイスラエル軍とハマスの軍事衝突

2人はガザのことは何も知らない支局長と電話で連絡をとりあい、破壊された建物や、ガザの住民たちの声を集めて回る。

その過程で、取材者でありながら、当事者としてガザ地区の住民が置かれた理不尽さをにじませることもあった。

「車のなかでみんな泣きました。ドライバーさえも泣いていました」

そんなメッセージが送られてきたのは、イスラエル軍の誤爆で4人の子どもを失った両親を取材した帰り道だった。

「空爆で家が震えています。眠れない」
「怖い。死にたくない」

そんな文面が送られてくることも1度や2度ではなかった。

軍事作戦が始まって1か月が経ったころに72時間の停戦が実現し、支局長が初めてガザ地区に入った。

2人は知りあいなどのつてをたどって取材対象を見つけてきてくれる。避難の途中、忘れ物をとりに家に帰った夫を空爆で失った女性。避難先の学校に砲弾が落ち、目の前で友人を失った女の子。当時、取材した人々は、戦闘が終わったあとも、2度、3度と取材に応じてくれた。継続取材をできたのは、彼らの丁寧な取材のたまものだった。

ガザ地区のタブー「反ハマス」をどう伝えるか

ムハンマド
「自分たちはガザで生きていかなければならないので…」

ムハンマドは、ガザでジャーナリストとして働くことの難しさや苦悩を吐露したことがある。

 2017年、ガザでは異常事態が起きていた。ハマス支配にNOを声をあげる住民の抗議デモが頻発していたのだ。住民たちは、10年におよぶハマスの統治に不満をため込んでいた。イスラエルとの武力衝突の巻き添えになり、電力供給が1日4時間に減らされるなど、生活は苦しくなる一方だった。そして一部の住民たちは「ハマスはガザの統治から去るべきだ」と怒りの声をあげた。これに対し、ハマスは抗議集会を強制排除したり、参加者を拘束したりするなど強引な抑え込みを図っていた。

SNS上は、デモ参加者が投稿した映像が出回っていたが、地元メディアはこの問題を報じず、沈黙を続けていた。ガザで暮らすジャーナリスト達にとって、ハマス批判はタブーだったからだ。ムハンマドも当初は「抗議デモを取材すれば確実にハマスに捕まってしまう。ガザ地区には逃げ場がない。捕まれば、何をされるか分からない。自分たちはハマスの支配下にあるガザで生きていかなければならないので…」と、後ろ向きな気持ちを語っていた。

だが、ここで諦めないのがムハンマドだ。しばらくして解決策を提案してきた。ハマス創設の古参メンバーで、現状を憂いている人物を見つけてきて、インタビューをセットしたのだ。やって来た古参メンバーは堂々と「ハマスはイスラムに基づいた政治を唱えたが、結局、何も解決できなかった」と切り出し、ハマスの汚職体質や民心が離れていく現状を語ってくれた。

ムハンマドがセッティングした ハマス古参メンバーへのインタビュー(2017年)

ハマスといえども、古参メンバーの物言いにケチはつけてこなかった。ムハンマドの機転により、NHKは地元メディアが後ずさりする問題を取り上げることができた。

「日本に伝えたい」

 数々の修羅場をくぐってっきたムハンマドとサラームにとっても、今回の攻撃は過去とは比べものにならないくらいの衝撃だ。それは、取材者である彼ら自身が命の危険にさらされ、避難生活を余儀なくされ、食料や水の不足に直面しているからだ。ムハンマドはこう表現している。

ムハンマド プロデューサー

ムハンマド
「ふだんは厳しい状況におかれている人々を取材する。ただ今回は、それが私であり私の家族です。ジャーナリストも医者も救急隊も、攻撃の対象になってはならない立場の人々が何にも守られない状態なのです」

それでも取材し続ける理由はムハンマドにとっては明確だ。

ムハンマド
「もしジャーナリストがいなければ、ほかに誰がパレスチナ人のメッセージを伝えられるでしょうか。報じ続けることは私たちの義務なのです」

今月10日、ムハンマド一家はエジプトに退避することができた。しかし、一息つくこともせず、ムハンマドはガザで起きていることの情報を集め、報道を続けている。

サラーム カメラマン

サラームは家族とともにガザに残り、撮影を続けている。サラームは避難先で35歳の誕生日を迎えた。長女も9歳、次女は1歳の誕生日をそれぞれ戦火の中で迎えた。衛生環境も悪く、十分な食料もない避難生活から2人の娘はせきと嘔吐に悩まされている。病院に連れて行きたいが、空爆が激しく、病院まではたどりつけない。このため、近くのクリニックになんとか連れて行こうとしているという。

サラーム
「もしクリニックでガザの現状が伝わる光景があれば撮影する。どんな状況でも無視できない光景が広がっていればジャーナリストとして撮影しないことはあり得ないから。日本の人に少しでも現実を伝えられるように」

メッセージの最後はこう締めくくられていた。

"We will meet again in Gaza. Inshallah.”
(ガザでまた会いましょう。神の御心がそう望むなら)

2人が伝えるリアリティをともなった情報が、NHKのガザ報道を今日も支えている。

ガザ地区南部へ避難した人々(サラームカメラマン撮影 2023年11月10日)

(11月7日 NW9などで放送)

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