
「一家全員で行くと、一家全滅のおそれがあるので、1人ずつ行くんです。僕がトップバッターでした」
こう話すのは、福岡県に暮らすベトナム人の男性。
彼は、今から40年あまり前の6歳の頃、小さな漁船に乗り込んで母国を逃れ、日本にたどり着きました。
いったい何があったのか、話を聞かせてもらいました。
(長崎放送局記者 榊汐里)
「旅行だと思っていた」
話を聞かせてもらったのは、福岡県でベトナムレストランを経営するホアン・トロン・ハイ・ユイさん。
日本で40年以上暮らす、ベトナム人です。
ユイさんが生まれたのはベトナムですが、ある日突然、小さな漁船に乗せられて、母国を離れなければならなくなりました。

「僕は旅行に行けると思っていたので、うきうきしてたんです」
ユイさんは、その時のことをこう振り返りました。
着の身着のまま連れ出される
ユイさんは、1970年代、ベトナムが南北に分かれて戦争を続ける中、南ベトナムのサイゴン(現在のホーチミン)に生まれました。

6歳の頃まで、戦争の中にあっても平穏に暮らすことができていたというユイさんの家族。
しかし、ベトナム戦争が終わったあとの混乱の中、ユイさんたちの人生は時代に翻弄されることになります。
親戚の家に泊まりに行ったある夜。寝ていたユイさんは突然、起こされます。
そこにいたのは、おじさんとおばさん。
“旅行”に行くのだとユイさんは伝えられました。
着の身着のままで連れ出され、暗闇の中ライトも付けず、おじさんとおばさんと一緒に足早に進んでいきました。
目的地の海に到着すると、そこにあったのは小さな船。
そして、すでに30人ほどが船に向かって列を作っていました。中には赤ちゃんを抱えた人もいました。
ぎゅうぎゅう詰めの船旅
船に乗り込むと、船底にある小部屋のような場所に、全員が押し込まれ、身動きが取れないほどの、ぎゅうぎゅう詰めでした。
しかも、小部屋の上は蓋のようなもので閉め切られ、中は真っ暗になりました。
窓もないため、外の様子も分からず、時間の感覚もなくなっていったといいます。
長い時間、身動きを取ることもできずに波に揺られることで、疲れを見せ始める周りの人たち。
船には食べ物や飲み水もなく、空腹と渇きも訴えていました。
途中、雨が降ると上の“蓋”が開き、雨水の入ったコップが差し出され、大人たちは、我先にとコップを奪い合うようなこともあったそうです。
甲板で失神する大人たち
「早く出ろ、助けが来たぞ!」
出発してからどれくらいたったのか分かりませんでしたが、突然辺りが騒がしくなり、部屋の上の“蓋”が開き、光が差し込んできました。
明るさに目が慣れてから目の前に見えたのは、ユイさんの乗った船の何倍もの大きさがありそうな大型の船でした。
その船からはハシゴが降ろされ、大人たちが小さな子どもを順々にその船に運んでいきました。
一方、自分の力でハシゴを登りきったユイさん。
あとから次々に大人たちもハシゴを登り甲板に降りてきましたが、すぐに失神してしまう人、少し歩いたと思っても突然倒れてしまう人が相次ぎました。
みんな、ギリギリの状態だったのです。
ユイさんたちを助け出したのは、たまたま通りかかった貨物船。その後、山口県の港で降ろされ、そこから日本での暮らしが始まったのです。

ボートピープルとベトナム戦争
ユイさんたちのように小さな船に乗って、祖国ベトナムから逃げ出した人たちは、当時「ボートピープル」と呼ばれ、その数は約80万人にも上りました。
背景にあったのは、冷戦のさなか、民族解放を掲げる北ベトナムと、アメリカの支援を受けた南ベトナムが激しい戦闘を繰り広げたベトナム戦争です。
1975年、北ベトナムが南ベトナムを打ち破り、サイゴンが陥落すると、それまでの資本主義体制が崩壊。

南ベトナムで一定の地位にあった人たちは、軒並みその地位を追われ、身の安全が守られるのかすら分からなくなりました。
こうして、新しい体制のもとでの迫害を恐れた人たちなどが、大勢海から国外に逃げ出すことを選んだのです。
しかし、「ボートピープル」となって海にこぎ出しても、安全が約束されているわけではありません。海上でベトナム政府に捕まったり、海賊に襲われて殺害や暴行されたりする人たちが相次ぎました。

「ボートピープル」としての船旅は、まさに命がけの旅だったのです。
「僕が乗った船は幸い海賊に遭遇しませんでした。出発してから1日もせずに、助けてもらえたので。海賊に捕まったらほぼ殺されてしまいます。当時のベトナム周辺の海には、逃げた人たちの遺体がたくさんあったと思います」(ユイさん)
破れた室内履き
無事、日本に着いたユイさん。日本での新たな暮らしは、おばさんと2人だけでした。
ユイさんを連れ出してくれたおじさんは、船に乗るために必要なお金を持っていなかったため、一緒に船に乗ることができなかったのだそうです。
また、ユイさんの両親と弟はベトナムに残ったままでした。
一家全員で船に乗り込み、もしも転覆したり海賊に遭遇したりすると、全員死んでしまうおそれがあるためでした。
ボートピープルの受け入れ施設や、ベトナムの知人を頼りに、長崎県や滋賀県を転々としたユイさんたちの暮らしは、決して楽なものではありませんでした。

家計はおばさんの内職が頼り。日本の小学校に入ることができたユイさんは、履いていた室内履きが破れても、買い換えるお金がないため、そのまま履き続けたといいます。
見かねた先生が新しい室内履きを買ってくれたこともありました。
「おばちゃんに、やっぱりお金無いの分かっているので、『買って』とは言えなかったですね。だから、室内履きを買ってくれた先生のことは今でも覚えています」(ユイさん)
自分と同じように日本を好きになってほしい
日本で暮らしていく上で、お金の面ではかなり苦労したと話すユイさん。
それでも、ユイさんが高校生の時に、十年以上会えなかった両親やきょうだいを呼び寄せることができ、家族を支えるためにも、工場やラーメン店で一生懸命、仕事に取り組んだといいます。

6歳で突然、母国を離れ、言葉もわからない日本での生活。生きることに精一杯で、気付くと40年以上が過ぎていたといいます。
2022年9月からは、20年以上暮らしてきた福岡県で、新たにベトナムレストランをオープンさせます。
福岡県でも数多く暮らすベトナム人が憩える場所になればとの思いからでした。
レストランの経営のかたわら、技能実習生として日本に来るベトナム人のサポートもするユイさん。
日本語ができない。日本に来る際に借金を背負った。日本で家を借りることができない。日本に来るベトナム人は、何かしらの悩みを抱えているということで、日本で長く暮らしてきたユイさんは、自分ができることはしてあげたいと考えているといいます。
自分のルーツがある国から来る、たくさんの若いベトナム人。
自分と同じように日本を好きになってほしい。
そのきっかけ作りを自分ができたら。
ユイさんは、そんな思いからベトナム人の相談に乗り続けています。

「いい人たちに出会って、日本が好きになりました。出会う人によって、その国のイメージって変わると思うんです。だから、日本に来るベトナム人が日本っていいなって思えるようにサポートしてあげたいんです」
共に暮らす人たちとして
日本にボートピープルがたどり着くようになったのは1975年からで、当時の日本は難民を受け入れていませんでした。

特例措置として一時滞在中のボートピープルの定住が認められたのは、それから3年後です。その後、1981年に日本は難民条約に加盟し、難民に門戸を開きました。
ユイさんのように、日本の暮らしに適応できた人たちがいる一方で、言葉の違いに苦しんだり、母国では役人や教師だったものの日本では単純労働の選択肢しかなく自信を失ったりした人たちも、少なくなかったとみられます。
実際、アジア福祉教育財団難民事業本部が1992年に行った、日本が受け入れたボートピープルの人たちを対象に行った調査(※)では、1割近くの人が「身近な人で心の病に苦しんでいる人がいる」と回答しました。
その後も、日本で暮らす外国人や外国にルーツのある人たちは、ますます増えてきています。ボートピープルを受け入れから40年あまり。
共に暮らす人たちが増える中で、どんな課題があるのか、できることは何なのか。引き続き取材をしていきたいと思います。
※「インドシナ難民の定住状況調査報告」
1993年3月公表。受け入れ施設を退所した約8500人のうち、1992年10月1日現在16歳以上の難民5416人の中から、500人(ベトナム300人、ラオス100人、カンボジア100人)を無作為に抽出