朝井リョウさん「素晴らしき“多様性”時代の影にある地獄」

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朝井リョウさん。平成生まれで初めて直木賞を受賞した人気作家が2019年3月、平成を生きる若者たちを描いた小説を出版した。平成の時代を歩んできた朝井さんは平成をどういう思いで描いたのか? そして次の時代に思うことは?

平成は「対立」を排除した時代

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――長編小説『死にがいを求めて生きているの』は、3月に刊行された朝井リョウさんの最新作だ。作品を手がけるきっかけは、朝井さんや伊坂幸太郎さんなど、8組の作家がさまざまな時代の「対立」をテーマに作品を描く、という企画に参加したこと。この中で朝井さんは平成を担当することになった。

「平成を舞台に『対立』を書く。そう考えた時に、いったい何を書けばいいのか、迷子になってしまったんです。昭和を担当される伊坂幸太郎さんは嫁姑や米ソの対立を、中世・近世を担当される天野純希さんは源平合戦を書くらしいという話を聞く中で、平成では個人間の『対立』も国を挙げての『対立』も、象徴的なものがどちらもなかなか思い浮かばなかったんです。今ならばジェンダーの問題が最も当てはまりそうですが、企画が始まった2013年当時はそのことについて自覚的になれていませんでした。書くべきことが見つからない自分を無価値に感じて、はじめは作家全員が集まる打ち合わせでも全然発言できませんでした。私はすぐ、『生産性のない自分は○○する資格がない』と考えてしまうんですよね。 そんな風に落ち込み続けていたあるとき、平らかに成るという字のとおり、平成はもしかしたら『対立』を排除してきた時代なのかなと思ったんです。国が豊かになり、ナンバーワンよりオンリーワンという空気のもと、わかりやすい「対立」がなくなったように見えるのに、生きていく苦しさはそのまま残っている。対立じゃないよ、人と比べなくていいよ、という雰囲気が平成なのかなと思いつつ、そこに眠る違和感の手触りも明確になっていきました」

――平成元年に生まれ、「ゆとり教育」の中で学校生活を送ってきた朝井さん。「1つのゴールに向かって全員がしのぎを削って競争していくより、自分の個性を大切にしよう、自分の個性を磨いていこうという風潮があった。それがどんどん強くなっていた気がする」と話し、そうした経験から「個性」を大切にする雰囲気に潜む「見えない対立」に着目した。

「自分の個性、自分らしさを大事にと言われていますが、その個性や自分らしさが何なのか、実は誰にもわからないところに、平成らしい『見えない対立』の種が眠っていると思いました。小説の中ではまず、運動会の組み体操と棒倒しがなくなり、テストの順位が発表されなくなっていく描写を入口として書きました。それは、世界から順位をつけられる苦しみを手放す代わりに、自分で自分を見つけなければならない終わりのない旅の始まりの部分です。これまでもそのような自意識については書いてきましたが、今回は、その先にある自滅精神、さらにそれが転じて発生する社会や他者への攻撃性の爆発について書きたい気持ちが強くありました。『対立』は見えなくなっただけで、ずっとそこにあり続けているんです」

すばらしさの裏にある地獄をかき分ける

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――順位を付けない。相対評価から絶対評価へ。「個性」を重んじ、「多様性」という言葉が市民権を得る。こうした時代の変化について「すばらしいこと」としたうえで、次のように語った。

「従来の幸せの形ではなく、『自分の幸福を追い求めていこう』ということであったり、いろいろな役割から解き放たれて、『自分の長所を伸ばしていこう』といった風潮が今やっと強まってくれたと感じます。多様性という言葉が市民権を得ることによって、これまで諦めてきたさまざまなことを諦めなくてよくなるという点は、本当に100パーセント素晴らしいことだと思います。ただ、今は多様性という言葉のあまりに強い光によって目が潰されている部分がある気もしています。私はもともと、光が当たっている所に生まれる影みたいなものを感知したくなる癖があって、すばらしさの裏にある地獄をかき分けて見に行ってしまいたくなる習性があるんです」

「今回でいうと、人と比べなくていい、多様性だと言われたところで、どうしたって自分を人と比べてしまう、他者や世間の平均値からの差異でしか自分の輪郭を感知できない人間の弱さです。自由研究と言われると何をしたらいいのかわからなくなるように、外から順位をつけられたり、あなたはこうだよと決めつけられたりする機会が全くなくなると、むしろ、それまでは何かに置き換えることができていた自分自身の存在価値や意義をずっと問い続ける感覚が強まるのではないでしょうか」

「私は多様性という言葉から、自分で自分のことを決めていい快適さと同時に、自分で自分の意義や価値を見出していかなくてはならない地獄も受け取った実感があります。決めつけるようにジャッジしてくる存在がいないから、『自分はあの人よりもダメ』とか『この人よりはまだマシ』とか、日々、自分で自分をジャッジし続ける地獄。そこで負う痛みこそ『生産性のない自分は○○する資格がない』思考の根にあるものなのでは、と思った時、小説が生まれる予感がしました」

内側から腐っていく痛み

――そして、今の若者世代の「痛み」をこう表現した。

「他者や社会から『お前は男だからこうだ、女だからこうだ』と言われるつらさは、焼き印を押されるような、外から火傷を負わされるような痛みだと思います。誰が見ても傷の在り処がわかる痛みです。 ただ、多様性礼賛の世界の中にいながら自分を誰かと比べ続ける矛盾、自分で自分の意義や価値をジャッジし続ける行為は、内側から腐っていくというか、外から見ても傷の在り処がよくわからないんですよね。だから、甘えのようにも感じられる」

「たぶん上の世代で、ナンバーワンを目指してゴリゴリと競争させられてきた人たちからすると、オンリーワンでいいと言われた世代の『内側から腐ってしまう痛み』というのは、こんなに恵まれているのに一体何が不安なの、という感じだと思うんです」

「今作のキーとなる重要人物は国立大学に通っていますし、家庭も特に貧困層というわけではありません。友人もいるし、周囲の人から恋愛感情を向けられる章もあります。だけど心の内側に煮えたぎる何かを抱えており、それが作品全体を貫く毒素となっています。彼のプロフィールだけ抽出すると、悩みなんてなさそうですよね。プロフィールだけ抽出して外側から見ると」

「それって、日本という国全体にも当てはまる現象なのかなとも思うんです。先進国で、物質も豊かで街もキレイで、水道をひねれば水が出てスイッチ押せば電気がついて、食べたいものを24時間買えるような素敵な国。何も問題がないように見えますが、それでもみんな生きづらさを抱えている。それって、インフラが整っていない国の人たちからすると、『何が生きづらいの?』ということになると思うんです。だけどそこらじゅうに毒素がある。そんな、条件だけを言葉にして並べ立てた途端に見えなくなってしまうような毒素を、小説ですくい出して描くことができないかと考えていました」

自己否定の先にある「自滅」

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「その毒素には、今回、『自滅』という言葉を当てはめました。目に見える形での個人間の対立が奪われていき、自分で自分の意義や価値と向き合い続けた結果、謙虚とも違う、自己否定が積もっていってしまう。その先には、自分なんてこの世界に存在していたって意味がない、と思い込んでしまう『自滅』が待っていると思うんです。そして『自滅』の先には、まさに自分を滅しようとする『自殺』と、自分をこんなふうに苦しめている他者や社会もろとも滅してしまえという『爆発』があるような気がしています。実際に、平成のうちに起きたいくつかの印象的な事件の犯人の供述を読んでいると、『自滅』からの『爆発』パターンなのでは、と思うことが結構あるんです。自分はこの社会で意味がない、価値がない、という思いが犯行動機の土台にあるケースです」

「怖いのは、そのパターンの事件の犯人は、なぜか男性が多いということ。そして、自分の中にも、『自滅』からの『爆発』を辿る要素がはっきりと存在することを自覚しているということです。自分はこの社会で意味がない、価値がない、という思いから、たとえば『自分よりももっと価値がないと判断した人』を殺傷したり、『自分にそう思わせている社会や他者』を壊しにかかったり。その事件の犯人が自分ではない理由を、明確に説明できないんです」

「少し前に『生産性』という言葉が話題になりました。『なんてひどいことを!』という反応が多かったと思いますが、そう思うのは、私も含めて、他者を『生産性』という目盛りで測っている部分が少なからずあるからだと思うんです。私はこの作品を書く前、『プロットができていないのだから会議で発言してはいけない』と確かに思っていたし、それまでも『原稿のノルマを達成できなかったから、今日はあったかい布団で寝ちゃいけない』とよく考えていました。 自分で自分の存在意義や価値を定義しようとなったとき、最も簡単なのは自分の『生産性』を数値化することですよね。何人の子どもを育てているとか、これだけの額を納税しているとか」

「家族もいない、仕事もない、友人も恋人も何もない、自分の存在をどうしても実感できない――そう思い悩んでいたとき、『多様性の社会だからそれでいいんだよ』なんて言葉を投げかけられたら、私はその人のことを傷つけてしまうかもしれない。多様性なんてどうでもいいから数値化できる生産性をくれよ、と、思わない自信がない」

次にこの椅子に座るのは?

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――平成生まれの作家の代表格とも言える朝井リョウさん。次の世代がどんな作品を発表していくのか、楽しみにしているのだという。

「今こうやって私がインタビューをしていただけているのは、私に特別なことを発見する力があるからではなく、実感をもって書いたことを『新時代の感性!』みたいにもてはやしてくれる人がいたおかげだと思っています。私の小説はこれまで文献として読まれてきた感覚があるんです。内容そのものを楽しむというよりは、その世代の人がその世代から見た今を書いているんだからチェックしておこう、みたいな。ようやくその席から立つときなんだろうなと思っています」

「その席に座る小説家って、各時代に一人ずついたんですよね、きっと。遡れば田中康夫さんの『なんとなく、クリスタル』もそうだった気がしますし、私の前にはそこに綿矢りささんがいらっしゃったのかなと思います。『インストール』も『蹴りたい背中』も、綿矢さんはほかの世代の人をびっくりさせようと思ってはきっと書いていなくて、読んだ大人たちが勝手に驚いて、勝手に時代の人にしたのだと思います。 私もそのおこぼれをいただいただけ。元号が変わって、次にこの席に座る人がどんなものを作るのかとても楽しみ。どんなものを『書く』かではなくて、『作る』と言ったのは、次が小説家とはかぎらないなという感覚があるからです」

「小説は一般的に第一稿を書いてから出版されるまで3~4か月かかりますし、そもそも第一稿を書くのに私の場合は半年ほどかかります。とにかく遅いんです。 動画だったらその日のうちに撮影して編集してアップロードできて、世界中の人に見てもらえる時代。その中で、10代などの若い人がなにかモノを作ろうと思った時に『時間がかかって有料で拡散されにくい』小説を選ぶハードルってものすごく高い気がする。この次にここでインタビューを受けている人が何を作る人なのか、何を表現する人なのか、というのはすごく楽しみです」

言葉にできないものはたくさんある

――小説を書くことは言葉にできないものを表現すること。そう考えた時に、気持ちが楽になったという。

「小説を書いていて思うことは、私たちは言葉でしかコミュニケーションがとれないので、本来は言葉にできない感情や現象にも無理やり言葉を当てはめているということです。 例えば、少年法は18歳以上か以下で、責任能力が変わるように書かれていますが、責任能力の有無って、本来どこかで明確に線引きできるものではないですよね。17歳と364日の人と18歳と1日の人で責任能力が違うかというと、そうではないと思います。そういうことがたくさんある。言葉にするっていうことはつまり、線引きするっていうことだと思うんです。そうなると、本来線引きできないもの、主に心にまつわることかなと思いますが、そういうものって言葉にした時点でもう形が変わってしまっているんですよね」

「私もデビューしたての時は、この感情を書きたい、と思って書き始めたのにうまくいかないことに落ち込みましたが、言葉にできない感情や現象を無理やり言葉というものにおさめているのだと考えが変わった時に、じゃあできなくて当然じゃん、と、逆に書きやすくなりました」

「今、頭の中にある気持ちを小説にしたいと思っても、それに当てはまる言葉を探した時点で削ぎ落とされる部分がたくさんあるのだから、書けない自分に落ち込むことはやめようという思考回路になりました。それによって少しは息がしやすくなりましたが、同時にゴールもなくなりました。ゴールなんてもともとなかったかもしれませんが」

言葉の器が小さくなっている

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――直木賞作品「何者」で、就職活動とSNSをテーマに、若者たちが抱える心の闇を描いた朝井さん。SNSによって、短い言葉のやり取りが広がる現状に怖さも感じている。

「mixi、フェイスブック、ツイッター、インスタグラムと、ここ十年ほどでSNSがどんどん変化していきました。メールからLINEへ、もそうですね。私が最も思う変化は、扱う言葉の数が少なくなっていることです。mixiはわりと長文の日記で、何千字も書く人がいたのですが、フェイスブックになって、日記よりは少し短くなって、ツイッターは140字、インスタグラムはタグだけだったりします。メールからLINEへの移行は特に、使う言葉がものすごく減ったなと感じます」

「扱う言葉が少なくなっているということは、捉えることができているものもどんどん少なくなっているはずで、そこからこぼれ落ちている情報や感情みたいなもののほうが多いはずですよね。だけど、その部分を想像する力が養われる場は増えていない気がするんです。その違和感から生まれたのが『何者』という小説でした」

「あの小説を貫くキーワードは『想像力』。それは今でもすごく大切な言葉だと思っています。目を合わせて対話をしていても、本当は何を考えているのかなんて誰にもわからない。SNSはもっとそうだと思うのですが、短くてキャッチーなものがすごく拡散されている様子などを見ると、内容がどんなものであれ恐怖を感じます。一つの色でたくさんの人の脳が上塗りされているように見えるというか」

「極端な例かもしれませんが、韓流アイドルが好きということを発信しただけで、『日本嫌いってことですか?売国奴!』みたいなことになるコミュニケーションに、SNS登場以前は出会わなかったんですよね。可視化されていなかっただけで感情はそこにあったんだとは思いますが。短い言葉を基準に0か100で判断される怖さは、今でも『何者』を書いたときと同じ、もしかしたらもっと高い濃度で抱いています。人間は0か100ではなく、1から99を浮遊し続けていると思っているのですが、最近は一貫性を強く求められる感覚があるので、そういうことへの違和感はこれからも書いていくと思います」

書くことは考えること

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――「言葉には必ずもう1つの意味がある」。言葉の裏の側面や人間の「論理的ではない」部分に目を向け、作品を手がけてきた。小説家・朝井リョウは、今後、どのような作品を描いてくれるのか。

「小説を書くという言葉を英訳すると、『Write』ではなく、考える『Think』だという気がしています。ニュースを見ている時、人と会話をしている時、スーパーで買い物をしている時に、大きい木のようなものに少しずつ小説の全体像の線が引かれている気がします。そして、文章を書いている時は、木をその形に掘っている感覚です。 書き手の勝手な思いですが、今のところ私にとって書くことは『Think』、考えることなので、最後がきれいにまとまっていなくても考えは尽くしましたので許してください、みたいな気持ちがあります。でも自分が読者の立場でそんなこと堂々と言われたらめちゃくちゃムカつきます(笑)」

「次世代の表現者が私とは全く違う『Think』をもとにどんな作品を発表するのか、本当に楽しみです。私自身は、今はもっと心に近づきたいというか、そういうものを書く時期がきている感覚があります。論理的には語れないことというか、それを言葉にしちゃうと不都合なことだらけだけど、でも心の中ではそういうこと思っちゃうよね、みたいなことというか。粛々と書くだけですね」

【プロフィール】
朝井リョウ(あさい・りょう)
小説家。1989年、岐阜県生まれ。早稲田大学在学中の2009年、「桐島、部活やめるってよ」で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2013年「何者」で直木賞、「世界地図の下書き」で坪田譲治文学賞を受賞。現代を生きる若者のリアルな姿を描いた作品の数々で、同世代を中心に人気を集めている。そのほか「チア男子!!」「星やどりの声」「武道館」「世にも奇妙な君物語」「何様」など著書多数。