マイナス100点から100点を目指す

富田宇宙

パラ競泳

パラ競泳、視覚障害が最も重いクラスの富田宇宙。その人生は諦めの連続だった。 『宇宙』という名前に定められた運命か、富田は子どものころから宇宙飛行士を目指してきた。しかし、高校2年生の時、視力を徐々に失う難病「網膜色素変性症」と診断された。

「『人生、撤退戦』、みたいな感じ。健常者としてやれることが難しくなっていって、自分のできる場所を探してどんどん場所を移して、たどりついたのがパラリンピックだった」

宇宙飛行士、大学時代に打ち込んだ競技ダンス、システムエンジニアの仕事。すべて視力の悪化とともに“撤退”してきた。23歳で始めたのがパラ競泳だった。 2019年の世界選手権では銀メダル2つを獲得。撤退戦の結果たどりついたパラ競泳の舞台に、富田はみずからの居場所を感じた。

「パラスポーツを通じて自分の障害を受容できたし、ほかのパラ選手と一緒に活動していく中で障害が自分の中で当たり前になっていった。自分、そして障害を受け入れて、前向きに社会の中で生きていくプロセスをパラスポーツにもらった」

メダル候補と期待されて臨むはずだった東京パラリンピック。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大で大会は延期。それでも富田は「諦め」は感じなかったという。

「本当に何とも思わなくて、まずいなと思って悩むくらい。自分はまだまだ成長できる段階にあると思っているし、水泳がヘタクソだと思っているので、1年あればもっとうまくなれる」

高校生まで目が見えていた富田は、かつて客観的にパラリンピックを見ていた経験がある。そして、パラアスリートとして当事者としての立場も分かるがゆえ、パラリンピックの価値についての考え方も客観的で極めて論理的に語る。

「パラリンピックはメダルよりも、競技をやる以前の苦労がすごくある。オリンピックは0点から100点を目指すものかもしれないが、パラリンピックは、マイナス100点から100点を目指すもの。オリンピックのトップ選手の泳ぎが100点だとしたら、僕の泳ぎの技術は30点程度かもしれないが、僕が病気になって『死んでしまいたい』『人生どん底だ』と思ったマイナス100点からスタートして、合わせて130点分の長い長い道のりがある。パラリンピックは、その道のりに価値があり、それを見てもらうことが、 普通の競技にはない魅力としてインパクトを与えられる」

新型コロナによってあたり前だった日常が突然変わってしまった今だからこそ、富田はパラリンピックの持つ力がなおいっそう輝きを放つと信じている。

「新型コロナウイルスは、すべての人を“社会的な障害者”にした。こういう時だからこそパラリンピックは必要なんじゃないかと思う。障害やいろいろな困難を乗り越えて、自分に残されたものを最大限に生かす姿勢が、今こそすべての人々に求められてるものだから」

パラリンピックへの過程にこそ価値がある。そう話す富田の東京パラリンピックはすでに幕を開けているのかもしれない。あとは2021年の大舞台で“130点の泳ぎ”を見せつけるだけだ。

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