こうやって笑える日が来ると信じてやってきた

照ノ富士

大相撲

照ノ富士は涙をこらえているように見えた。令和2年、新型コロナウイルスの感染防止対策を徹底して行われた大相撲7月場所。大相撲史に残る復活劇を目の当たりにした。大関経験者が幕下以下に陥落して、関取に復帰した例など史上かつてなく、ましてや、その力士が優勝するなど誰も予想できなかったはずだ。

「一生懸命やればいいことがあると思っていた。やめなくてよかった」

照ノ富士はかつて、「横綱候補」と言われた。体重約180キロの恵まれた体格を生かした圧倒的なパワーでの四つ相撲。平成27年夏場所には新入幕からわずか8場所での優勝を果たし、場所後に大関に昇進。平成29年春場所には新横綱・稀勢の里と千秋楽まで優勝を争い、「ヒール役」にまわったものの、強気な発言に恥じない小憎らしいまでの強さは誰もが認めていた。

しかし、その巨体を支える下半身には限界が近づいていた。左ひざはけがを繰り返し、平成29年名古屋場所から、10場所中、9場所を休場。持病の糖尿病も重なり、もはや相撲はおろか、しこすらも踏めない体になっていたという。序二段にまで陥落した照ノ富士は引退を考えたが、師匠の伊勢ヶ濱親方に引き止められた。

(伊勢ヶ濱親方)
「けがに負けて終わってしまうのではなく、やれることをやって本人も納得してからだと思った」

少しずつ稽古を再開した照ノ富士は、もう一度土俵に上がった。序二段、三段目、幕下。かつての大関が、若い力士たちに混じって泥にまみれ、一歩ずつ、着実に番付を戻していった。2年半ぶりに幕内に戻った7月場所。万全とはほど遠い体で、どうすれば幕内の土俵で戦えるのか考え続けた。

「今まで上半身で相撲を取ってきたが、幕内はそう簡単にいかない。下半身をしっかり支えていかないといけない。ここ最近にないくらい鍛えている」

みずからの圧力を支える、下半身を鍛え直すことが今の「やれること」だった。そして本場所で見せた相撲はどれだけ地道な努力を積み重ねてきたか、知らしめるものだった。

かつてのように前に出る圧力を取り戻し、右四つになれば万全。さらに驚いたのは、自分の形になれなくても決して下がらない我慢強さだった。大関時代は、パワーに任せた強引さがあり、それがひざのけがの一因でもあったが、ひたすら相手を正面に置いて前に出ていってつけいる隙を与えなかった。13勝2敗で優勝を決めた直後、照ノ富士は国技館の天井を見上げていた。

「(飾られている)自分の写真を見ていました。自分が優勝したときの写真が下ろされるまでには何場所かあるから、もう一度自分の写真を飾りたいというのを目標にしていましたから」

国技館の天井には32枚、優勝力士の写真、すなわち優勝額が飾られている。5年前に優勝した照ノ富士の額は半年後には下ろされる。その前に、2枚目の照ノ富士の優勝額が掲げられることになるとは、誰が予想しただろう。その奇跡を、照ノ富士自身だけは信じていた。場所後には、さらに驚かされることがあった。終盤、ひざの状態が悪化し、「伸びない状態だった」と明かしたのだ。

「つらいのは慣れていますから」

何気なく言ったそのひと言に、照ノ富士の強さが凝縮されていた。すべての試練を受け止めて師匠の教え通り、「やれることをやってきた」。そこには、かつて「やんちゃ」と言われた大関の姿はなかった。

「5年前の優勝のときは、俺が優勝できなきゃ誰ができるのみたいな考えでした。今は1日ずつ、精いっぱいやっていればいい結果につながると思って毎日を過ごしています」

史上最大の復活優勝は、決してゴールではない。一回りも二回りも成長したかつての「横綱候補」。もう一度、最高の地位に挑戦する姿を見せてほしい。

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