盗めるものは全部盗む

田中亮明

ボクシング

田中亮明の表情は、貪欲さに満ちていた。
オリンピックの延期で思いがけずに生まれた1年間という猶予。みずからを高めるための貴重な時間となる。

「僕はトップに立っている選手ではなく、あくまで下から上を狙っている人間。
1年の延期はチャンスだと捉えています」

岐阜県で高校の教員を務めながらオリンピックの内定をつかんだ田中。
技術は国内トップクラスで、相手の攻撃をかわすフットワークとここぞという時に決める距離の長い左ストレートが最大の持ち味だ。去年の全日本選手権で3回目の優勝を果たし、ハイレベルなアウトボクサーとして高く評価されている。

一方で、国際大会ではいまひとつ結果を残せていない。パワーのある海外の選手たちの前進を止めることができず、接近戦で押し負けてしまうケースが多かった。
オリンピックの延期を受け田中は大きな決断をした。

「このままじゃいけない。アウトボクサーから、インファイターに近いボクシングにスタイルチェンジをしようと思います」

距離を取って戦う「アウトボクサー」と接近戦でしとめる「インファイター」は、まさに正反対のスタイル。1年という時間でも非常に困難な挑戦である。
田中はあるボクサーに相談を持ちかけた。

プロで世界3階級を制覇した2歳年下の弟、田中恒成だ。これまでボクシングについて、ほとんど相談したことはなかったが、弟の戦い方は田中が目指すイメージにぴたりと重なっていた。

「自分がこういうボクシングをしたいという理想像が弟に近かったんです。
ファイターではないけれど回転力がすごくあるし、自分がチャンスだなと思ったら踏み込んで相手を倒すことができるし、爆発力は僕より優れている」

そして、田中は恒成に率直に打ち明けた。

「接近戦がしたい。俺はもうバックステップを踏むつもりはない」

恒成の答えは、率直で厳しかった。

「今のままでは接近戦は無理だと思う。足りないものがいっぱいある」

恒成も、兄の洗練された技術や左ストレートのキレなどは認めている。それでも足腰の強さや連打のスタミナなどインファイターに必要な能力は別にあると考えていた。
スタイルを変えるためには根本的な肉体改造が必要だった。
田中は弟にトレーニングのメニューを教わり、1年間、一から鍛え直すことを決めた。

「弟の長所が全部僕のものになったら僕はもっと上にいける。
盗めるものは全部盗むつもりで、頑張っていきたい。1年後には今の自分とは比べものにならない自分になってメダルを取りたい」

4月から田中は弟の恒成と一緒にトレーニングを始めた。
新型コロナウイルスの感染拡大が続く中、対人練習は一切せず、足腰やスタミナを鍛え抜くための基礎トレーニングに専念している。
本番までの1年間で弟から「盗めるものを全部盗む」。その地道な時間が、憧れ続けてきたオリンピックの舞台に続いていく。

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