力士人生で一番楽しかった
翔猿
血のにじむような稽古を積み重ねた先にある勝負の世界。そんな大相撲の土俵を「楽しむ」ことは、私たちが想像する以上に難しいことに違いない。それでも、翔猿は新入幕の秋場所を誰よりも楽しんでいた。
「猿ってやっぱり速いイメージがあるんで、相手を翻弄できるような速い相撲を取りたい」
平成4年、さる年生まれ。身長1m75cm、体重131キロ。幕内の平均より25キロも軽いが抜群の運動神経とスピードで体格のハンデを補ってきた。「猿のような速い相撲」で見ている人を楽しませたいという思いを、この一風変わったしこ名に込めている。
「皆さんが楽しい相撲を取りたいですね。僕はちっちゃいから勝てば、会場を沸かせられると思うんで」
目指していたのは“楽しい相撲”。
秋場所の翔猿は、まさにその言葉どおりだった。あるときは正面から当たって一気の攻め。あるときは、相手を冷静に見ながらの思い切ったいなし。まわしを引いての鮮やかな投げも見せた。
土俵を所狭しと動き回って、一回りも大きい力士たちを翻弄する姿に国技館のお客さんの拍手は、日に日に大きくなった。
次は何をやってくるんだろう。きょうはどんな相撲を見せてくれるんだろう。翔猿の取組を心待ちにしている自分に気付かされた。
翔猿が“楽しい相撲”を目指すのにはもう一つ理由があった。翔猿が“楽しい相撲”を目指すのにはもう一つ理由があった。
新型コロナウイルスの影響で世の中の人たちが閉塞感や不安を感じている中、自分に何ができるかを考え続けていたのだ。医療従事者への感謝を示す「青」をあしらった締め込みを新調したのもその思いの表れだ。
「こういう時期だから、みなさんを元気づける相撲が取れたら」
翔猿の思いは間違いなく多くの人に届いた。白星を重ねるうち気がつけば優勝争いのトップに立ち、「新入幕での優勝」という106年ぶりの快挙も見えていた。
「今は緊張よりわくわくの方が強い」
翔猿に固さはなく、まるで子どものように無邪気に相撲を楽しみ続けた。最も印象的だったのは、14日目、初めて組まれた大関 貴景勝との一番だった。角界屈指の馬力と立ち合いの強さを誇る大関に、正面から突き押しで挑んだのだ。最後ははたき込まれて敗れたが、起き上がった翔猿は、秋場所で一番と言える晴れやかな笑顔を見せた。
「楽しくてしかたなかった。僕の力が大関にどこまで通用するのか、思い切り行きました」
秋場所、最終的な成績は11勝4敗で優勝はならなかった。
一番一番に自分の力を出し切ってきた翔猿は最後まで笑顔だった。
「力士人生で一番楽しかったかもしれない。これから先もどんどん楽しい相撲を取っていきたい」
力士たちは、日々の厳しい稽古を乗り越えて土俵の上に立っている。だからこそ相撲は楽しく、見る人たちに勇気を与えてくれる。翔猿が見せた15日間の「楽しい相撲」は、そのことを改めて教えてくれた。
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