山本篤が現役引退を発表 義足選手としてパラスポーツ界けん引

パラ陸上の第一人者で、義足の陸上選手として日本で初めてパラリンピックでメダルを獲得した山本篤選手が自身のSNSで現役を引退することを発表しました。

42歳の山本選手は、初めて出場した2008年の北京パラリンピック、走り幅跳びで義足の陸上選手としては日本初のメダルとなる銀メダルを獲得し、4大会連続でパラリンピックに出場しました。

また、スノーボードで冬のピョンチャンパラリンピックにも出場するなど、“二刀流”パラアスリートの先駆者として知られるほか、競技の普及や義足アスリートの育成に力を注ぎ日本のパラスポーツ界をけん引してきました。

山本選手は26日午前9時ごろ、自身のSNSを更新し「本日をもって競技を引退します。きのうまで開催されていた神戸パラ陸上世界選手権に向け全力でトレーニングしてきました。しかし、結果は5位と惨敗でした。『可能性のある限り挑戦する』という信念のもと活動してきましたが、今大会の結果はその可能性が見えなくなってしまった瞬間でもありました。プロアスリートである以上勝つことにこだわってきました。僕のこだわりである世界で戦う・メダルをねらうことを考えると厳しいと感じています」などとコメントしています。

山本選手は27日、記者会見を開いて現在の心境や今後について語ることにしています。

【独占インタ】引退の真相を語る

現役引退を決めた翌日の今月21日、山本篤選手は決断した直後の率直な気持ちを語ってほしいという要望に応じ、NHKの独占インタビューで引退を決断した経緯を明かしてくれました。

山本選手
「今の年齢のなかで、自分の伸びる限界がたぶん決まってしまっているんですね。それは自分自身が一番わかっていて、そのなかでメダル争いができるのか、金が取れるのかとなった時に現状では客観的にみて厳しいなと」

走り幅跳びの義足のクラスのレベルは飛躍的に上がり、海外の選手が相次いで7メートル台の記録を出しています。

去年の世界ランキング1位は、7メートル25センチの世界記録を持つドイツの26歳、レオン・シェファー選手。

7メートル3センチの自己ベストを記録し、すい星のように現れたオランダの22歳、ヨエル・デ ヨング選手は世界2位。

山本選手は6年前は世界2位だったのが、去年は7位。

自己ベストは3年前の東京パラリンピックでマークした6メートル75センチにとどまっています。

山本選手
「7メートルジャンパーが3人いて、6メートル後半のジャンパーが何人かいて、僕自身がどこまでいけるのか冷静に考えた時に自己ベストはもうちょっといけるだろう。でも7っていう数字は現状見えてこないっていうのが率直な気持ちです」

4月、沖縄で行われた合宿を取材したとき、山本選手は思わぬことを口にしました。

40分近くのインタビューを終えたあと、山本選手が「話したいことがあるんです」と言って語り始めたのは、去年7月にパリで行われた世界選手権の後に芽生えた“ある気持ち”についてでした。

「今までモチベーションなんて下がらないと思っていた。だってトップでずっとやっていて、トップを狙い続けているんだから、気持ちがないなんてことはないでしょ、というのが普通だったんですよ。でも去年の世界選手権が終わったあと、ガタって下がって何もやる気が起こらない。陸上辞めたいくらいのところまで落ちたんです。練習に行くにしてもよしって思わないと行けないし、普通だったのが普通じゃなくなって、こんなにエネルギーがいるのかって、すごく大変な思いをしました」

長く続く腰の痛みに悩まされ、最悪のコンディションで臨んだ去年の世界選手権は8位に終わりました。

「東京パラリンピックの時は4位で自己ベストが出て、まだそこから更新できるだろうって思って現役を続けてきました。でも去年ケガをしてしまって、ケガがあったから戦えなかったと言い訳はできるけど、世界選手権に出た以上、そんな言い訳は関係なく負けたことは負けたし、記録は全然よくなかった。自分自身のパフォーマンスを発揮できたかというとそうでもないのに、このまま続けていいのかと考えました」

そんな山本選手の新たなモチベーションとなったのが、日本で開催される世界選手権でした。

「2024年、日本で開催される世界選手権があって、自分が出ることで少しでも盛り上がったらいいなと思って、神戸まではやろうって決めて覚悟を決めてやったうえで戦えないならもう終わりにしようと。戦える可能性があるならパラリンピックに出てもう1回勝負しようっていう気持ちになりました」

その世界選手権に「すべてをかけて跳躍する」と今月19日に臨んだ山本選手は、今シーズンの自己ベストを更新する、6メートル48センチの跳躍を見せて5位。

世界の強豪たちとの力の差を冷静に受け止めたといいます。

「数字はうそをつかない」という山本選手。

義肢装具士の資格を持ち、博士課程まで在籍した経験から“走る研究者”とも称される山本選手らしい受け止めでした。

ただ、5位に入ったことで、まだパリパラリンピックの代表に内定する可能性も残されています。

それでも、パリパラリンピックは目指さず、世界選手権を最後に引退することを決めました。

「プロである以上、世界と勝負をして勝っていかなければいけない。今回の世界選手権は惨敗だと思うんですよね。自分自身の今のベストは出せたかもしれないが、メダルを取れる選手でなくなったかなと思うので、そういう意味ではプロとしてのアスリート人生は終わりなのかなと思い、自分で身を引く覚悟をしました」

山本選手にとってこれまで23年の競技人生は、どんなものだったのか。

尋ねると、意外な答えが返ってきました。

「最初から最後まで悔しいものでした。世界選手権で2回金メダルは取りましたが、パラリンピックでは金メダルを獲得できませんでした。夏と冬両方のパラリンピックには出場できましたが悔しい気持ちが多く、でもその悔しいをどこかで見返してやるぞという思いを常に持っていました」

そんな山本選手には、次世代を担う若いアスリートに送りたいメッセージがあるといいます。

パラリンピックに出るだけでは意味がない。
選手としてやっている以上は、メダルを目指してほしいなと思う。東京パラリンピック以降、パラリンピック自体の価値が上がってきたと思うが、その価値をより高くするためには出場することだけに満足するのではなく、“勝つ”ということをしっかり考えてほしい」

今後は指導者として、若手選手の育成にあたるという山本選手。

『挑戦』する気持ちを忘れず、走り続けたいと考えています。

山本選手
「自分が世界でチャレンジしている姿は、人の心を動かしているんだと感じました。より多くの人に影響を与えられる存在になりたいし、これからもそういう状態を作っていきたいと思います。むしろ今は足がなくなって楽しい人生になっているので、足がなくてもいろいろなことができるし、いろいろなチャレンジをしていいんだよっていうのを伝えていきたいと思います。それを伝えるためにはパラスポーツの地位も上がらないといけないし、地位を上げるためには世界で戦えるところにいかないといけない。パラスポーツの地位が上がることで、障害のある人たちや、いろいろな人のところに情報が届くんだと思います。僕自身も走ることを通してすごく人生が豊かになったのでいろいろな人にチャレンジする機会を持ってもらって、その中からアスリートが出たらうれしいし、人生が豊かになったという人が増えたらすごくうれしいと思います」

山本選手 現役最後の日

「たくさんの人に来てもらえてうれしかった。今の最高のジャンプができた」

1週間前、現役最後の大会を終えた山本篤選手はこう心境を話し、悔しさもにじませていました。

今月19日、山本選手はおよそ100の国と地域から1000人余りの選手が参加したパラ陸上の世界選手権に出場。

新型コロナウイルスの影響で2回延期となり、日本で初めて神戸市で開催された大舞台です。

8大会連続の出場、関西ゆかりの選手としても大きな注目を集め「勝負に勝ってメダルを取る」と強い決意で挑みました。

会場には支え続けてきた妻や息子だけでなく、両親や親戚などおよそ70人が駆けつけ観客席から見守りました。

しかし、雨が降り続ける中で記録が伸びず2回目の跳躍を終えて6位。

3回目はメダルをつかむためにも記録を伸ばして弾みをつけることが必要でした。

その助走の直前、初めて観客に手拍子を求めました。

その音が徐々に1つになっていき自然と、選手と観客の一体感が生まれていました。

こうした光景を山本選手は待ち望んでいたのです。

3年前の東京パラリンピック。

新型コロナの感染拡大で原則、無観客で行われ、夢みてきた国立競技場を埋めた観客に跳躍を見せることはかないませんでした。

それでもテレビの前で応援してくれている人たちが楽しめるようにとみずから手拍子をする姿がありました。

現役最後の日となった大舞台、今度は大勢の観客が見守る中で一緒に手拍子をして助走に入りました。

力強い踏み切りから滞空時間の長い跳躍、今シーズン自己ベストの6メートル48センチをマークしたのです。

拍手や歓声が会場を包み、この時点で順位は3位に。

その後、記録を伸ばせず5位に終わり、最後に観客席に向かって「ありがとうございました」と伝え、深々と一礼しました。

東京パラとは異なり、大声援や拍手の中で跳躍をできたことに山本選手はこの上ない喜びを感じていました。

山本選手
「今出せる最高のジャンプができた。たくさんの人に来てもらえてすごくうれしかった。家族も友人も本当に観客席にいるんだなと。東京パラは無観客だったのでかなわなかった。多くの人に応援してもらえてとても楽しかった」

その一方で、プロとして活動している山本選手は7メートルを超える跳躍を見せる世界との圧倒的な差を感じ悔しさもにじませていました。

一晩考え抜いて引退を決め、翌朝、家族に伝えました。

その決断には、悔しさを原動力に数々の偉業を達成して多くの人たちに希望を与え続けてきたパラスリートの先駆者としての誇りがかいま見えました。

小須田潤太「師匠のような存在」

山本篤選手の影響で、義足アスリートとしてパラ陸上とパラスノーボードの“二刀流”に挑戦した小須田潤太選手は「師匠のような存在で、アスリートとして競技をしていくうえですべてのターニングポイントに篤さんがいた。寂しい思いがある。パリパラリンピック直前のタイミングでの引退は少しびっくりしたが、篤さんらしい潔いやめ方だと思った」と話しました。

最も記憶に残っているエピソードについては、東京パラリンピック走り幅跳び義足のクラスに一緒に出場したことを挙げ「非常にうれしくて楽しかった。篤さんが6メートル75センチの日本新記録を出したときは、競技では敵のはずだがすごいと思ったことを覚えている」と振り返りました。

また、山本選手の現役最後の大会となった世界選手権を会場で観戦していたということで、「東京パラリンピックでの跳躍と同様、会場と一体となってジャンプをするというか、ここぞのタイミングで記録を出してくるのが、すごいなと思ったし格好よかった。22年間、お疲れさまでした」とねぎらっていました。