「今日も一日 見守っててください。じゃあ、行ってきますね」

「本当に無念で、残念でなりません」

「2人が亡くなったことは、まだ納得できない」

最初に取材させてもらったとき、こう話していました。

夫と義理の母を亡くし、毎日のように泣き続けていました。

一度は県外へと離れた女性。その後のことを話してくれました。

毎日のように当時が思い出され…

珠洲市宝立町鵜飼の廣田寿子さん(63)は、能登半島地震で自宅が倒壊し、同居する夫の均さん(65)と、義理の母親の咲子さん(93)を亡くしました。

夫の均さん(左)と義母の咲子さん(右)

夫の均さんは長く珠洲市でクリーニング店を営み、消防団に入るなど地域のための活動にも積極的に参加していたといいます。

母親の咲子さんは短歌や大正琴をたしなむなど多趣味で、2人は仲のよい親子だったということです。

寿子さんは1月中旬、2人の葬儀を終えたところでした。

廣田寿子(ひろた・じゅうこ)さん

「毎日家の様子を見に来るたびに当時の光景が思い出されてつらくなるんです。2人が亡くなったことは、本当に無念で、残念でなりません。納得できない思いです。だけど、私は生きていくしかありませんので…」

寿子さんは愛知県と千葉県にいる子どもたちの元に身を寄せるため、2人が亡くなった珠洲市の自宅を離れました。

「毎日毎日これしてます」

それから1か月あまり。地震から2か月となった、3月1日。

珠洲市の店主のいなくなったクリーニング店で、片づけをする寿子さんの姿がありました。

「軽トラに積んで、災害ゴミ、資源ゴミ、燃えるゴミに分けて、1日3回災害ゴミ置き場に運ぶのが限界ですね」

片づけに訪れた寿子さんと記者(手前)

寿子さんは身を寄せていた愛知県の子どもたちの所から珠洲市に戻り、比較的被害の少なかった市内にある実家で暮らしながら、片づけのために毎日30分ほどかけて通うのだそうです。

ここは夫の均さんが事業を営んできた場所でした。建物は倒壊こそ免れたものの「全壊」扱いに。均さんが亡くなり、店はたたむことにしたといいます。

寿子さん
「もう廃業の手続きはしました。主人が亡くなったので、こんな建物で再開なんて無理ですし、誰も後を継ぐ人はいません」

壊れたり、残されたりしたままの資材。

「すんごいあるんですよ、これ」

そう言って見せてくれたのは大量の金属製のハンガーでした。

「初代のじいちゃんが作った手製のハンガーなんですけど、悪いんですけど全部捨てます。誰もいらないから。これは金属類に出さないといけないんですよ。クリーニング店だからプラスチックのハンガーもあって、これはこれで別にして持っていく。本当に仕分けるのが大変なんです」

寿子さんはこの日も、愛知県から駆けつけた息子と一緒に運び出していきます。建物が応急危険度判定で「危険」と診断されたため、ボランティアに頼ることも難しいといいます。

建物の中と外を何度も往復する寿子さん

「片づけが本当にもう大変で、本当はボランティアの方に来ていただきたいのは山々なんですけど、あんまり危険なところには入っていただけないし。家族でやるしかないかなぁというところもあって」

店舗脇の道路も被害を受け、大きな車が入れない状態もあり、2か月たっても思うように片づけは進みません。

「落ち着くのは、いつになるか分かりませんね。毎日毎日、朝が来て、もう一回やって。これからの生活は『どうしよう』と思うけれども、スムーズに公費解体してほしいし、今は仕事を休ませてもらって、今はこれが仕事だと思って、それに向けて毎日片づけの日々です。しないと進まないので、毎日毎日これしてます」

毎日のように作業を続けている

若き日の証

「やだ、形見が出てきました」

撮影中、ふと寿子さんが声をあげました。

「こんなの初めて見た」

「工学士と称することを認める」
「昭和五十六年三月三十一日」

出てきたのは、夫・均さんの卒業証書の写しでした。

寿子さん
「形見らしい形見ないから。みんなぐちゃぐちゃになっちゃって。写真とかはね、スマホに撮っているから、結構あるんですけど、若い時のはなかなか無いんですよね。ありがとう、うれしいです。これだけでもお供えの、遺影のとこに持っていきます」

「じゃあ、行ってきますね」

寿子さんは、2人の遺骨を珠洲市の実家で保管していました。

本当は「納骨したい」と考えていますが、家の墓がある寺も被害を受けたため、めどが立ちません。

先月下旬には、四十九日の法要を迎えました。

「普通は四十九日にお墓に入れるんですけど、お墓も壊滅状態で手付かずのままブルーシートがかかっているので、こうやってここで、なんというか『仮住まい』じゃないけど、もうここしか置くところがないのでね。金沢に置いていたら、お参りも手を合わせることもできないので」

「せめての区切り、けじめをつけたかなって。地震のあとしばらくは残念で残念で、泣いてばかりでしたが、今は涙がぽろぽろっていう時期は私は終わって、立ち向かって自分でしていくことが山ほどあるので、ひとつひとつ、できることを自分でしていくしかないなと思っています」

遺骨と遺影の近くに、片づけで見つかった思い出の品を供えています。

均さんの長年の仕事道具だったアイロン。

咲子さんが好きだった大正琴。

あの卒業証書もそこにありました。

寿子さんは今、毎朝欠かさず、手を合わせています。

亡くなった夫の均さん

義理の母親の咲子さん

そして、2人に向かってこんな風に声をかけるそうです。

「今日も、一日頑張ってお片づけしてくるわ。見守っててください」

「じゃあ、行ってきますね」

(金沢放送局 記者 園山紗和)