農業用ハウスの「自主避難所」 地震から2か月の今も

ベッドの土台は、培養土が入った袋を積み上げたもの。

保健師の健康相談も取りやめになりました。

「それでも気心の知れた人とここにいたい」

能登半島地震の発生から2か月。今も農業用ハウスという厳しい環境で避難生活を続ける人たちがいます。

約300人が「自主避難所」で避難生活

輪島市によりますと、29日の時点で市が運営する27か所の「指定避難所」にはおよそ1700人がいて、地域の人たちがみずから運営する30か所の「自主避難所」でもおよそ300人が避難生活を続けています。

このうち輪島市東中尾町の農協が運営する葬儀場に設けられた自主避難所は、多い時にはおよそ140人が身を寄せていましたが、避難する人が9世帯18人に減ってきたことなどから28日で閉鎖しました。

閉鎖にあたり、代表の住民は農協の職員に感謝のことばを伝えたあと、指定避難所の小学校に移っていきました。

運営にあたってきた新谷昌嗣さん(41)
「長い避難生活で皆さんストレスがたまったと思いますが、不満を口に出さず協力してくれました。次の避難所でも協力して、少しずつ、一歩ずつ前に進んでいくしかないと思います」

ベッドの土台は培養土が入った袋

一方、地震から2か月たった今も自主避難所で生活を続ける判断をした人たちもいます。

輪島市三井町にある農業用ハウスでは、70代と80代の人たちを中心に5世帯9人が避難生活を続けています。

ベッドの土台は、地震の直後に若い人たちが稲作に使う培養土が入った袋を積み上げてつくったものを今も使っています。

今後について、9人は先月下旬に話し合ったということですが「被害を受けたものの住み慣れた自宅の近くから離れて環境が変わるほうが負担だ」という意見や「自宅の片づけがあり離れると不便だ」という声があがり、厳しい環境の中でも当面、生活を続けることを決めました。

自主避難所をめぐって輪島市は、全国の自治体からの応援態勢が今後縮小する見込みで指定避難所の支援継続を優先せざるをえないなどとして、保健師が自主避難所で行ってきた健康相談を地震から2か月となる1日で取りやめ、指定避難所に集約しました。

避難所の代表 尾坂先さん(84)
「もうしばらくすると支援物資もだんだん少なくなるだろうと思いますし、高齢者が多いので保健師さんが来れなくなるというのはちょっと不安ですが、家の近くで気心の知れた人とここにいたいというみんなの意向をふまえてここにいます」

“期限が来たからさようなら”とは言いたくない

一方、「福祉避難所」として被災した高齢者などを受け入れている福祉施設では、先が見えない状況が続いています。

障害者のグループホームなどが入る輪島市の「ウミュードゥソラ」は、能登半島地震の発生直後から福祉避難所として日常的に介護や介助が必要な高齢者を受け入れてきました。

2か月がたった今も30人余りが身を寄せていて、県外からボランティアで集まった医師や看護師、それに介護士などが、高齢者の体調管理のほかトイレや食事の介助などを行っています。

地震の発生までグループホームで生活していた障害のある人たちは愛知県の別の施設に避難していて、将来的に戻りたいと希望する人について施設側は受け入れる考えです。

このため、避難を続けている高齢者やその家族にはほかの福祉施設に移ることも提案しているということですが、石川県内の施設は定員がいっぱいで受け入れ先は県外しか見つからないといいます。

先月末には、避難していた80代の夫婦が山口県の福祉施設に入ることになり、スタッフや友人に見送られながら避難所をあとにしていました。

ただ、地元で安定して暮らせる場所が定まらない中で、当面、この福祉避難所にとどまることを希望する人も多いということで、避難者と施設のどちらにとっても先が見えない状況が続いています。

施設に避難している80歳の男性
「杖がなければ生活できないようなものなので、ここではみんな協力してくれて助かっています。ここが地元なので、離れるつもりはありません。行政にお願いして、安心して住めるところを作っていただきたい」

地震の前から施設で働き、今は高齢者の支援にあたっている看護師は複雑な心境だといいます。

中村悦子さん
「県外での避難を選んだ人には『いつか必ず輪島に帰れるからそれまで健康で頑張ろう』と声をかけて送り出しています。福祉避難所はいつかは閉じなくてはいけませんが、“期限が来たからさようなら”とは言いたくありません」