奇跡のバックホーム 28年目の真実 甲子園決勝 松山商×熊本工

奇跡のバックホーム 28年目の真実 甲子園決勝 松山商×熊本工
「なぜ伝説のプレーは生まれたのか」
「その後の選手たちの人生にどんな影響を与えたのか」

1996年、夏の甲子園決勝「松山商業 対 熊本工業」。
今も語り継がれる伝説のプレー“奇跡のバックホーム”が生まれました。

10回裏1アウト満塁、松山商業の守り。ライトへの大きなフライは熊本工業の勝利を誰もが確信しました。
しかし、優勝は松山商業。サヨナラ負けのピンチを救ったのは直前で代わったライト・矢野勝嗣さん。バックホームで熊本工業の三塁ランナー・星子崇さんを刺しました。

甲子園の激闘から28年目、当時のメンバーが再び集まったその時、新事実が次々と明らかになりました。
(松山放送局ディレクター 中元健介)

甲子園決勝 松山商と熊本工の“背負うモノ”

1996年夏の甲子園。松山商業は10年ぶりに甲子園の決勝に臨みました。
それまで夏4度の優勝を誇り「夏将軍」と呼ばれながらも苦戦が続いていました。

“堅守”が持ち味の松山商業ですが、高校野球に金属バットが導入されるとともに、徳島の池田高校のような“パワー野球”の前に苦戦が続き、27年間、優勝から遠ざかっていました。
当時の松山商監督 澤田勝彦さん
「当時、もう松山商業の野球じゃ勝てない、澤田の野球じゃ勝てない、と批判も受けていた。それでも伝統の“堅守”を大事にしながら、走攻守を磨いた緻密な野球に磨きをかけ、流行のパワー野球を打ち破ることを目標に掲げた。いわば“松商野球”が通用することを証明する戦いだった」
一方、熊本工業にも負けられない理由がありました。

強豪といわれながら夏の甲子園の優勝はありません。過去に決勝に2回進みながらも、いずれも準優勝に終わっています。

その2回とも甲子園準優勝メンバーだったのがプロ野球で活躍し“打撃の神様”と言われた川上哲治さんです。
川上さんは1996年の決勝の前に熊本工業の田中久幸監督に直接電話し「熊本に悲願の甲子園優勝を」と激励していました。

その激励に選手たちは奮い立ちます。

プロ野球のスター選手も熱望するほど、熊本県にとって悲願の初優勝に期待が高まっていたのです。

“奇跡のバックホーム”矢野勝嗣(松山商)のその後

奇跡のバックホームの立て役者、矢野勝嗣さん(松山商・ライト)は現在、地元の愛媛朝日テレビで営業部長です。
今でも街中を歩くと、すれ違う人から「あ、奇跡のバックホームの矢野さんだ」と話しかけられる。

それほど甲子園の優勝と“奇跡のバックホーム”が愛媛県の人々にとって誇りとなり、地元の有名人となっていました。

そのことが、矢野さんのその後の人生で思わぬ足かせとなっていました。
矢野勝嗣さん
「大学に進学、そして就職してからも人に会う先々で『“奇跡のバックホームの矢野さん”ですね』と言われた。最初は気分よかったが、そのうち『さぞかしすごい人かと期待していたけど、会ってみると普通ですね』と言われることが多くなり、逆にがっかりされる。甲子園のあのプレーによって自分の実力以上のものを常に求められ、それが常に重圧となりうまく応えられないことで20代、30代とつらい思いをしてきた」

“悲劇の三塁ランナー”星子崇(熊本工)のその後

奇跡のバックホームによって優勝を阻まれた悲劇の三塁ランナー・星子崇さん(熊本工)。

熊本市内でスポーツバーを経営しています。
熊本県悲願の夏の甲子園初優勝をかけたタッチアップからの走塁に失敗し、星子さんは心ないことばを浴びました。

「ゆっくり走ったの?」

「遅くタッチアップのスタート切った?」

「回り込めばセーフでは?」

まるで戦犯扱いでした。

高校卒業後は社会人野球に進みますが2年で引退。その後は職を転々としながら人目を避けるように飲食店で働くようになりました。
星子崇さん
「甲子園の決勝で、ましてやあの場面で手を抜けるやつなんているはずがない。なのにどこに行っても甲子園のタッチアップ失敗がつきまとい『お前のせいで負けた』と言われることも1度や2度ではなかった。野球に疲れていましたね。大好きだったはずの野球がつらいものになっていた。引退したあとも野球に触れることがキツく、ずっと甲子園の中継も見ることができなかった」
奇跡のバックホームは、勝者にも敗者にも十字架を背負わせていました。
そんな2人が甲子園から17年ぶりとなる2013年に再会します。矢野さんが熊本に仕事で行った際に星子さんが働く店を訪ねたのです。

酒を酌み交わしながら、あのプレーが重圧となり悩んできたことなど互いの胸の内を朝まで語りました。
星子崇さん
「僕はアウトになって負けた側なので人に何かを言われるのは想像つくけど、勝った矢野も実力以上のことを求められ、プレッシャーを受けながらキツい思いをしてきたと初めて知った。ああ一緒なんだ、苦しい思いをしていたのは自分だけじゃなかったって思えたし、背中をポンと押してもらった感じがした。ならばあのプレーに苦しむのではなく、前を向いて逆手に取ってやろうと、矢野と話したのが人生の転機になった」
矢野勝嗣さん
「変に奇跡のバックホームを自分の中で考えすぎていた部分があった。『すごいやつで居続けないといけない』とか。でも星子と話していたら、気持ちを切り替えることができた。『過去の栄光にとらわれるのではなく、大切なのは今の自分を誇れるか』だと。以来『“奇跡のバックホームの矢野さん”は、会ってみると普通ですね』と言われても『今の自分を見てください』と胸を張って返せるようになった。あのプレーで仕事先とも盛り上がり、営業成績につながればと、よい方向に考えられるようになりました」
17年ぶりの対面でしたが、古い友人のような感覚が共有されて驚いたといいます。

再会から半年後、星子さんは自分の店であるスポーツバーを持ちました。

名前は“たっちあっぷ”です。
星子崇さん
「一番自分らしく、しっくりきた。逆にいさぎよいかと。甲子園でのあの瞬間を背負っていく覚悟」
矢野さんも甲子園で着ていたユニフォームを贈り祝福しました。

今では、高校野球ファンが集う店として県外からもお客さんがきてにぎわっています。

◆新証言(1) “交代 ライト矢野”の決断は逆転の発想

奇跡のバックホームの直前、なぜベンチにいた矢野さんを投入したのか。
そこには澤田監督の明確なねらいがありました。
高校時代、矢野さんは肩の強さはチームトップクラス。しかし、ある弱点がありました。それは外野からのバックホームです。

通常、外野手は内野手に中継してバックホームするのがセオリーですが、矢野さんはそれが苦手だったのです。
当時の松山商監督 澤田勝彦さん
「内野手のカットマン目がけて低く速いボールをつないでバックホームするのがセオリー。ところが矢野は何回投げさせてもそれができない。どうしても送球が高く浮いて、ホームにダイレクトで投げてしまう癖が直らなかった」
甲子園の決勝、奇跡のバックホームが生まれる直前のシーン。10回裏、3対3の同点、松山商業の守り。1アウト満塁のピンチ。

攻める熊本工業は三塁ランナーに俊足の星子さん。そして打席には相手打線で最も怖い3番の左打者・本多大介さん。引っ張る打撃に定評があり、ライトへ飛ぶ確率が高まります。

三塁ランナーを返せば松山商業の負けが決まる絶体絶命のピンチ。この時、矢野さんはベンチにいて「このまま出番はない」と諦めていました。

ピッチャーが投球動作に入ろうとする直前、澤田監督が動きます。

中継プレーが苦手で直接バックホームを繰り返していた矢野さんの投入を決断したのです。
澤田勝彦さん
矢野は中継のカットマンに投げるのが苦手で直接ホームに投げる癖があるが、それが正しい場面が1つだけある。サヨナラのケースはダイレクトでいくしかない。内野に中継していては間に合わない。矢野の“能力”を生かすにはこの場面しかない。ライト矢野に交代!

◆新証言(2) ライト 矢野“ホームベースが見えずに投げた”

急に交代を告げられた矢野さん。一球もキャッチボールができず肩が作れないまま右肩をぐるぐる回しながらライトの守備へ。
すぐに風の強さと方向を計り、自分の強肩で直接バックホームで刺せるギリギリの深い位置に陣取ります。

つまりこの位置から後方に打球がいけば、負けが濃厚となるボーダーライン。

その初球、無情にも大きなフライが代わったばかりの矢野さんの“後方“を襲います。

実況アナウンサーも「いったー、これは文句なし」というほど、誰もが熊本工業の勝利を確信した瞬間でした。
矢野勝嗣さん
「打たれた瞬間に完全に頭の上と直感し、打球から目線を切ってフェンス目がけて必死で背走し、このあたりと振り返ったときに、だいぶ風に戻されていた。放物線というよりは球が上がったところから真下に落ちてくる感覚。だからグローブを開いて真上に向けて捕る感じだった。定位置より10メートルほど左斜め後方で捕球した。押し戻された分、前に出て反動を利用して、こん身の力で送球体勢に入れた」
ところが捕球から送球に移る瞬間、ホームベースはおろかキャッチャーさえ見えない。

ではなぜ、90メートル先のキャッチャーのミットにストライクの送球ができたのか?
矢野勝嗣さん
「あの位置からだと当然ホームベースは見えない、キャッチャーもきちっと見えていない。でもセカンドとファーストが中継プレーで間に入るので、その頭上に投げればホームベースはあると信じて投げた。仲間のポジション取りが間違っていたら当然、僕が投げる位置も間違える。奇跡のバックホームは仲間を信じチームワークで成立したワンプレーだった」

◆新証言(3) 奇跡のバックホーム 原動力は“チームワーク”

チームワークで成し遂げた“奇跡のバックホーム”。

それを裏付ける貴重な写真が、当時の監督、澤田さんの自宅のリビングに飾られていました。

バックネット裏から試合を見ていた観客が偶然に撮った写真です。
その写真にはライト矢野さんから、セカンド吉見さん、ファースト今井さん、キャッチャー石丸さん、さらに送球がそれた場合に備えカバーに入るピッチャー渡部さんまでが一直線に並び中継体制を組む様子が写っていました。
当時の松山商監督 澤田勝彦さん
「この1枚にこそ松山商業の強さの秘密がある。あの絶体絶命のピンチの中で誰一人諦めず、最後まで中継体制を組んで万全の準備をしている。奇跡のバックホームの裏で、全員が自分のやるべきことをやっていたこの姿を見た時に、本当にうれしかったし、選手たちを誇りに思った。監督冥利(みょうり)に尽きる。だからこの写真は大切に飾っている、宝物です」

“わずか2球”でヒーローに

九死に一生を得た松山商業。直後の11回表の攻撃、先頭バッターは矢野さん。自分でも想定以上のビックプレーに興奮がおさまりません。

間違えて、新田投手のバットを手に取り、新田投手のヘルメットをかぶりそのままバッターボックスへ。

初球の変化球を自信満々に振り抜きレフトへのツーベースヒット。ベース上で笑顔のガッツポーズ。この一打がチームに勢いをもたらし一挙3点を奪い27年ぶり、5度目の夏の優勝を飾りました。

矢野さんは途中交代で守備について“初球”に奇跡のバックホーム、そして打席に立ち“初球”にヒット。“わずか2球”でヒーローになったのです。
実は内気な性格だった矢野さんは人前で力を発揮するのが苦手でした。

試合でガッツポーズすることも無ければ、初球から積極的に打っていくこともありませんでした。

澤田監督はそれをどうにか変えたいと練習中、部員みんなの前で矢野さんにだけ“エアー”でサヨナラホームランを放ちガッツポーズをする練習を毎日課していました。

恥ずかしい気持ちから、なかなかうまく“エアー”ができなかった矢野さんでしたが、“奇跡のバックホーム”は「自信と勇気を与え、その後の人生も変えた」と本人も語るほどの一大事でした。

11回表、矢野さんが勝ち越しにつながるツーベースを打ち、笑顔でガッツポーズする姿を見た澤田監督。

「そうだよ、おれがずっと見たかったのは矢野のこの姿だよ。最後の最後で羽ばたいた」

その厳しさから“鬼”と言われた澤田監督が甲子園のベンチで笑顔を見せたわずかな瞬間でした。

◆新証言(4) 三塁ランナー 星子 “捕手との接触避け ロス”

三塁ランナー星子さんにも知られざるドラマがありました。
50メートル5秒8の俊足。甲子園でアウトになるまで、タッチアップからの走塁を一度も失敗したことはありませんでした。
星子崇さん
「三塁ベース上からライトへの大きな打球がはっきり見えていた。この飛距離で自分の足なら、セーフになれると確信して、フライング気味にスタートを切った」
左足でタッチアップの三塁ベースを蹴り全力疾走。15歩目で右足からスライディングした直後、キャッチャー・石丸裕次郎さんのミットに接触しています。この間、約3.5秒。

普通の選手が塁間4秒前後かかることを考えても、星子さんの走塁は超トップクラスの“速さ”でした。しかし滑り込んだコースに、ドンピシャで返球と重なった不運もありました。
そこには拭い去れない星子さんの後悔がありました。

28年目に初めて、その真相を語り出しました。
星子崇さん
「最高の走塁ができていた。誤算は僕の走塁ライン上にキャッチャーの石丸が構えていたこと。このまま走れば接触するので、僕はぶつかるか走塁ラインの内側に入って接触を避けるか迷いながら内側に入った。そのちょっとしたコンマ数秒が致命的なロスになった。そこは悔いが残っている。ただ高校野球であの場面、ぶつかっていくのは守備妨害が取られるという怖さもあった」
石丸裕次郎さん(松山商 捕手)
「僕はあの時、タッチしにいったのではなく、捕球したところに彼がボーンと入ってきた。わずかでも星子の滑るコースが違っていたり、ボールがそれていたらアウトにできていない。しかし何であの時、星子はまっすぐの走塁ライン上から急に内側に入ってきたのかという疑問が今でもあるんです。僕はベースの前で捕球体勢に入っていたので、そのまままっすぐ走ってきて体当たりされるか、あるいは後ろに回り込まれていたら間違いなく対応できずセーフになっていた」
Q.星子さんは衝突を避け内側に入ったと話していました。
石丸裕次郎さん(松山商 捕手)
「そうだったんですか。長年の謎が解けました。彼は優しいですね」

“28年目のプレーボール”松山商×熊本工

2023年11月、甲子園で死闘を繰り広げた当時のメンバーが集まり試合を行いました。
「人生の折り返しになる45歳にまた試合をしよう」と約束を交わしていたのです。

40代半ばになった元球児たち、少し大きくなった身体を揺らしながら必死に白球を追いかけます。

この日に向けて特訓をしてきた松山商業の矢野さん。1打席目でヒットを打ち、先制点につながる活躍でした。

熊本工業の星子さんも、負けじと自慢の足で盗塁をしかけ会場をわかせます。

試合は熊本工業が8対7で勝ち、甲子園の雪辱をはらしました。
試合後には“奇跡のバックホーム”の再現が行われました。

10回裏1アウト満塁。打席にはあの日と同じ、熊本工業の3番・本多さん。三塁ランナーもあの日と同じ、星子さん。そして、松山商業・澤田監督の「ライト矢野!」の声が響き、歓声を受けながら守備につきます。役者はそろい準備万端。

すると、ライトにやや浅めのフライが。矢野さんは猛然と前進しながら捕球し、勢いそのままにバックホーム。

あの日と同じ…とはいかず2バウンドでホームへ返球。直後に三塁ランナーの星子さんがホームに突入。あの日とは違い、走塁上に構えるキャッチャーに真っ正面からぶつかります。

「アウト」の判定。それでも星子さんは矢野さんに歩み寄り、2人とも笑顔です。
星子崇さん
「またアウトになったけど、今回は俺はやりたいことができたよ。甲子園でできなかったキャッチャーに正面からぶつかれた、悔いは無い。あの時のメンバーがこうやって集まって試合ができるって幸せだね。俺は最高の失敗をさせていただいたと思っている、あんな高校生の時期に、だれも経験ができないような失敗を甲子園で経験させてもらったんで、強くなれた」
矢野勝嗣さん
「甲子園での出会いに感謝。僕は奇跡のバックホームで人生が変わったし、星子も同じ。僕たちがきっかけで始まったことが今では両チームを巻き込んで絆が深まっている。これまでも、そしてこれからもあのプレーを背負って前を向いて生きていくしかないし、生きていこうと思います」
名残惜しく、いつまでも笑顔で話をしていた盟友。

「50歳になったら甲子園で試合がしたいね」

そんなことばを交わし、再会を誓っていました。

(2023年12月15日「ひめDON」で放送)
松山放送局ディレクター
中元 健介
スポーツ番組、ドキュメンタリーのディレクター
平野歩夢選手や上野由岐子選手などの番組を制作
五輪、サッカーW杯、MLBなど海外の取材も担当
現在は震災など災害が取材テーマ