6組の家族の選択 住まい 仕事 学校は 能登半島地震1か月

能登半島地震の発生から1か月。

被災した人たちの多くが住まいの選択に思い悩んでいます。

“去るべきか” それとも “残るべきか”

家族への思い、土地への思い、将来への思い。

それは、簡単な決断ではありません。

6組の家族の決断を取材しました。

《迷う》友人か 家族か 揺れる高校1年生

輪島高校の1年生、池澄來夢さん(16)です。

通っていた輪島高校は避難所として運営されていて、通常の授業を再開できる日は決まっていません。

池澄來夢さん

來夢さんは数少ない登校日以外は、自宅で自習などをして家族とともに過ごしています。

中学生の弟は白山市に集団避難していて來夢さんの家族は市外への避難も検討しましたが、市内で花屋を営む父親の店を守りたいという意向もあり、家族で話し合った結果、輪島市にとどまることを決めました。

避難所となっている輪島高校

一方で來夢さんと仲のよかった友人は全員、市外に避難してしまい、クラスで市内にとどまっている女子生徒は來夢さんだけになったということです。

避難した友人とは電話やSNSで連絡を取っていますが、家が火災で全焼してしまった友人もいるため、地震に関する話はあまりしないようにしているということです。

池澄來夢さん
「金沢市に避難した親友の1人から転校することに決めたと聞きました。頻繁に家に泊まりに来てくれていつも一緒にいた友達でした。急にいなくなってしまってとても寂しいです」

被害を受けた外の状況を見ると地震を思い出してつらくなるため、あまり外出せずにほとんどの時間を家で過ごしているということです。

先週、母親のもとに学校から届いたメールでは、ことし4月の再開を目指して準備が進められているということですが、市内にとどまるか、金沢市に出るか、來夢さんの気持ちは揺れているといいます。

池澄來夢さん
「ライフラインがなかなか整わない中で、本当に学校が始まるのか不安です。学校が始まったとしても避難した友達は帰ってこないかもしれない。みんながいる金沢市に行きたい気持ちもありますが、家族とも離れたくありません。どうしたらいいのかわからないです」

《迷う》幼い3人の子を持つ夫婦 “2月中には…”

谷内勝次さん(45)は、地震のあと、妻の香奈子さん(42)と幼い子ども3人の家族5人で石川県輪島市から県南部の加賀市に2次避難しています。

子どもと遊ぶ 谷内勝次さん

暮らしていた輪島市打越町は、土砂崩れによる道路の寸断で一時孤立するなど大きな被害があり、自宅は住める状態にないということです。

夫婦が働く介護施設は入所者が市外に避難したことなどから休業することになり、仕事を再開できる見通しは立っていないということです。

4月は長男が小学校に入学するタイミングでもあり、谷内さんは今後の生活の拠点をどこに置くのか、悩んでいます。

谷内勝次さん
「輪島市に戻りたいという気持ちはありますが、そのためには教育の環境や生活の基盤を整える必要があります。子どもを優先する選択肢を選ばざるをえないかと、非常に迷っています」

谷内香奈子さん

谷内香奈子さん
「最終的に輪島市に戻るにしても2次避難所にずっといるわけにはいかないので、生活の基盤を整えていかないといけないと考えています。2月中には決めたいと思います」

《残る》区長として決断も 次々と去る住民たち

珠洲市蛸島町の新町地区で区長を務める木挽芳紀さん(54)です。

およそ90年前に海沿いに建てられた住宅で生まれ育ち、80代の両親と妻(52)、それに高校3年生の娘(18)の合わせて5人で暮らしていました。

木挽芳紀さん

今回の地震で住宅は1階部分が押しつぶされるように倒壊し、当時、娘と父は外出中で無事でしたが中にいた妻と82歳の母親が閉じ込められました。

妻は、自力で脱出できたものの母親は身動きが取れず、最悪の結果が頭をよぎったといいます。

木挽芳紀さん
「正直、母親は死んでしまったと思いました。窓から確認のために声をかけたら声が聞こえたので『どこや壁たたけ』と言ったらドンドンと反応があったので救出しました」

近所でも倒壊した建物に複数の人が閉じ込められて、ひたすら5人ほどを助け出し終えて気付くと、はじめの揺れから7時間余りがたっていたということです。

被害の全容も分からぬまま数日たった先月初旬、両親と娘は安全を確保するためにおよそ120キロ離れた白山市の親類のもとに避難し、木挽さんは区長として地域を見守る責任があるとして妻とともに倒壊を免れた自宅裏の小屋で在宅避難を続けています。

木挽さんは離れ離れになった娘の妃菜和さんがまもなく高校を卒業し、春からの進学も決まった大切な時期に慣れない土地での暮らしを強いられていることを心配しています。

木挽芳紀さん
「一緒にいたのに急にいなくなるのは、寂しいですよね、やっぱり。新型コロナウイルスの影響で4年間、何もできない状態で、やっとこれから活動できるというところにとどめ刺されたみたいで本当にかわいそうです」

木挽さんによると娘の妃菜和さんはLINEなどで連絡を取ると、心配をかけまいと無理をして元気にふるまっているように感じることがあるということです。

娘の妃菜和さんは今の心境について「率直に言うと、お父さんお母さんと離れるのが一番さみしいです。ひとりになるときとかにとてもさみしいなと思います。珠洲には卒業までに1回だけでも戻りたいなと思っています」と話してくれました。

木挽さんは、東日本大震災が起きた次の年の2012年に地域の役に立つならばと防災士の資格を取っていたもののこの地震の被害を軽減できなかったのではないかとみずからを責めていて、仕事と区長の両立だけでなく、現在、避難所の運営スタッフにも参加しています。

しかし、家族と離れてまで下した苦渋の決断が本当にこのままでよいのか、分からなくなる事態に直面しています。

この地区を愛し、古くから伝わる祭りで大漁と豊作をともに願い合ってきた住民たちがひとり、またひとりと地区を去っていくのです。

木挽芳紀さん
「ほかの人のことも考えないといけないし、残らないとだめかなという思いで残りましたが、やっぱりさみしいです。『もう町には戻れない』と言う人も多くいるので、地震前の半分の人が残ればいいほうだと思います。せっかくこの町で育ったので復興できればしたいが、家族のことを考えると町を出るか、残るのか、気持ちは半々です」

《去る》志望校を輪島市外に変更 中学生の決断

輪島中学校3年の小林愛心さんです。

地震で自宅が被害を受け、避難所となった中学校で避難生活を続けています。

小林愛心さん

輪島市は希望する生徒を対象に白山市への集団避難を行っていますが、小林さんは1人で家族と離れて知らない土地で暮らすことへの不安から参加しませんでした。

小林さんはみずからも避難し、ほかの人たちも避難生活を送る中学校の教室で勉強しています。

周りの人の話し声などで集中力が保てなくなったり1人で勉強することに限界を感じたりすることもありますが、努力を重ねています。

避難所で勉強をする小林さん

こうした中、自宅の修理の見通しが立たず、余震や断水の影響から落ち着いた生活ができないと感じて家族で市外に移り住むことを決め、地元・輪島市ではない高校に志望校を変更しました。

小林さんは1月31日、受験に備えるために臨時の特急バスで金沢市に到着し、母親とともに荷物が入った大きなバッグを抱えながら宿に向かいました。

そして1日朝、電車やバスを乗り継いで金沢市内の受験会場に向かい、付き添っていた母親は小林さんに手を振って見送りました。

受験に備え金沢市へ

小林さんの母親
「輪島市の高校への進学を考えていたので、最初は友人と離れ離れになるのが嫌だったみたいです。それでも今は気持ちを切り替えていると思います。けさは緊張している様子だったので少し不安ですが、頑張ってくれると思います」

小林愛心さん
「地元の高校に行くと決めていたので、友達もいる長く住んだ地元を離れるのは寂しい気持ちです。志望校を急に変えて戸惑いもありますが、難しい環境の中でもやってきたことをしっかり全部出し切って頑張りたいです」

《去る》“安心できる場所で過ごしたい” 寂しさこらえて

輪島市の山あいにある町野町の若桑地区は、地震による大規模な土砂崩れなどで一時、孤立状態となりました。

地区の区長を務めていた岡田幸吉さん(77)です。

妻と47歳の長男とともに市の外に避難することを決め、1月29日に近くの中学校に必要な書類を出しました。

岡田幸吉さん

行き先はまだ決まっておらず、家族とともに自宅や避難所にある荷物を片づけて避難に備えています。

岡田さんは2018年から6年にわたり区長を務め、1月21日に役職を後任に引き継ぎました。

避難の決断をしたのは、今後も地震が続くおそれがある中、安心できる場所で過ごしたいと考えたほか、断水の長期化による不自由な生活が続き、健康面の不安もあるためだということです。

落ち着いたら自宅近くの仮設住宅に住み、そのあとも若桑地区に住み続けたいと考えていますが、資金面などから先が見えないと言います。

輪島市 町野町 若桑地区

岡田幸吉さん
「若桑地区のことがまだ心配でなんとも言えないさみしさがあり、まだいたいという気持ちになって残ろうかなという葛藤というか気持ちの整理がつかないまま市の外へ行ってしまう気がします。住み慣れた土地だし傾いた家も見に行けるので戻ってきたいです」

《去る》“再び輪島で漁を” 今は仕事を海から陸へ

輪島市鳳至町にある輪島港に水揚げしている吉浦翔太さん(38)は、父親とともにおよそ20年にわたってフグやタラの刺し網漁を続けてきました。

吉浦翔太さん

吉浦翔太さん
「最初は魚を取るのが楽しいと思ったけれど、いろいろな人に『能登の魚おいしい』と言ってもらえることが楽しくなってきて、『能登っていいんだな』と思うようになった」

仲間とともに漁業を盛り上げ、次の世代につなげようと励んできましたが、地震がすべてを変えました。

海底が隆起して水深が浅くなり船が出せなくなったうえ、港の水揚げ場も地面にひび割れが入り、いつ使えるようになるのか分かりません。

自宅も一部が傾き、妻の美智子(37)さんと小学4年から中学2年までの3人の息子たちは、すぐに金沢市にある妻の実家に避難させました。

それでも自分は港や漁業の行く末を見守りたいと地元に残り続けましたが、船も港も失って漁に出られず収入も絶たれ、これからどうしたらよいのか思い悩む日々を送っていました。

こうした時、金沢市で土木会社を営む親類から「仕事がないなら土木作業をやってみないか」と声をかけられ、1月28日、当面は別の仕事で家族を養い一緒に暮らしていこうと自分も金沢市に移りました。

その次の日、海から陸へと仕事場を変えた吉浦さんは、長年、網をたぐっていた手でのこぎりをひいていました。

水路が流れるようにするため流れ込んだ木の枝を切り続けました。

吉浦翔太さん
「家族でなるべく一緒にいたほうがよいのかなと考えた。慣れない仕事なので大変だけれども、まずは働こうと思っている」

今は住まいと仕事を変えようと決断した吉浦さんですが、漁を再開できるようになればすぐにでもふるさとに戻って自分の船を出し、漁業を活気づける夢をかなえたいと考えています。

吉浦翔太さん
「『一日でも早く戻りたい』という気持ちはあるが、状況が全然、改善されてない。またみんなで力を合わせて、能登のすばらしい漁業を継続させていきたい」

専門家「被災者の悩みに寄り添った情報発信を」

能登半島地震の発生から1か月となり、被災した人たちの多くが住まいの選択に思い悩んでいます。

専門家はこうした悩みに寄り添った情報発信を行政に求めています。

大阪公立大学 菅野拓准教授

被災者支援に詳しく、地震のあと石川県に入り現地の自治体職員とやりとりもしてきた大阪公立大学の菅野拓准教授は「地域から出てしまうと戻れないのではないかなどと、悩みの多い中でも住まいを選択しなければいけないタイミングに来ていると思う。数か月でライフラインが復旧する可能性がある中、自主的に家族単位で判断していくことになるので必然的にコミュニティーはばらばらになってしまう」と指摘しました。

そのうえで「皆、地域のつながりの中で生きてきたので、つながりが絶たれることでふだんと全く違う環境に置かれると、寂しいという感情的な面だけでなく見守りを緩やかに受けていたような方々に目が行き届かなくなり、最悪の場合、災害関連死も起きてしまいかねない」と警鐘を鳴らします。

そして、被災した人たちにいま必要なものについて菅野准教授は「暮らしというのは住まいだけでもお金だけでも仕事だけでもない。それらが組み合わさって生活再建が進んでいくので、被災者に分かりやすく情報を伝えることがとても大切だ。今はいろんな支援制度をまとめて案内していないので、ワンストップできちんと悩みを受け止めて選択を促してあげるような機会も重要になる」と説明しました。

行政に求められることについては「『なんとか残らなくては』という思いと故郷を出た人の思い、どちらもよく理解できる。難しい決断だが、被災した人たちには命を守るための選択をみずからしていただくしかないので、行政にはなんとかそこに寄り添うような情報発信をしてもらいたい。できるかぎり個々がしっかりと選択できる、適切で分かりやすく寄り添った形で縦割りにならない情報発信を心がけていただきたい」と話していました。