桐島容疑者 名乗る人物死亡 爆破事件の遺族「無念でならない」

1970年代に起きた連続企業爆破事件の1つに関わったとして指名手配された「東アジア反日武装戦線」のメンバー、桐島聡容疑者(70)と名乗る人物が、29日朝、入院先の神奈川県内の病院で死亡したことが捜査関係者への取材でわかりました。
警視庁はDNA鑑定などで確認を急いでいて、本人と確認されれば、容疑者死亡のまま書類送検する方針です。

昭和49年から翌年にかけて過激派の「東アジア反日武装戦線」が起こした連続企業爆破事件のうち、昭和50年4月に東京 銀座にあった「韓国産業経済研究所」のビルに爆弾を仕掛けて爆発させた事件に関わったとして、メンバーの桐島聡容疑者が爆発物取締罰則違反の疑いで全国に指名手配されていました。

捜査関係者によりますと、今月25日、桐島容疑者を名乗る人物が神奈川県内の病院に入院しているという情報が警視庁に寄せられ、DNA鑑定などで確認を急いでいました。

この人物は末期のがんと診断され治療を受けていましたが、29日朝、死亡したということです。

この人物は、数十年前から「内田洋」という名前で神奈川県藤沢市内の土木関係の会社で住み込みで働いていたことが分かっていて、「最期は本名で迎えたい」などと話していたほか、▽事件当時の詳しい状況や▽家族構成など関係者しか知りえない情報を説明していたということです。

こうした状況から、警視庁は、桐島容疑者本人の可能性が高いとみて、DNA鑑定などで確認されれば、容疑者死亡のまま書類送検する方針です。

事件からおよそ半世紀がたつなか、突然、逃亡を続けていた容疑者を名乗る人物が現れ、長年の捜査が大きな転機を迎えていましたが、この人物の死亡により、一連の事件の解明がどこまで進むのかが今後の大きな焦点となります。

爆破事件の遺族「無念でならない」

桐島聡容疑者が所属する過激派の「東アジア反日武装戦線」のほかのメンバーが、昭和49年8月に起こした三菱重工ビル爆破事件で、父親を亡くした石橋明人さん(64)は、桐島容疑者と名乗る人物が死亡したことについて「この人物が桐島容疑者本人だとしたら事件のことをきちんと説明してほしかった」と語りました。

三菱重工ビル爆破事件の実行犯のメンバーの一部はいまだに逃走中で、石橋さんは「実行犯であるほかのメンバーの行方を知る捜査の糸口が切れてしまったと感じ、無念でならないです」と話していました。

元捜査幹部「分かっていないことが多かった」

「東アジア反日武装戦線」の捜査に携わった警視庁公安部の元幹部は、「桐島容疑者は、グループの中で主要なメンバーとは言えず、どのように組織に関わるようになったのかなど、分かっていないことが多かった。彼の捜査の難しさは、新しい情報が入ってこないことだった」と振り返りました。

そのうえで、「全く同情はしないが、死亡したのが桐島容疑者本人だとすれば、50年近くの逃亡生活で彼なりに苦労して生き延びていたのだろうから、最期は仮の姿から本来の姿に戻りたかったのかもしれない。犯した罪は許されないが、ある意味、時代にもてあそばれた犠牲者の側面もあり、彼を犯罪に引き込んだ人物たちは、責任を取るべきだ」と話していました。

元捜査員「私にとってのどの奥の『とげ』のような存在だった」

連続企業爆破事件の発生当時、「東アジア反日武装戦線」の捜査に携わった警視庁公安部の元捜査員は「メンバーの多くを検挙したが、今も指名手配が続いていた桐島容疑者は、私にとってのどの奥に刺さった『とげ』のような存在だった。このまま行方が明らかにならなければ、永遠に分からなかった可能性もあり、死亡した人物が本人であれば発見されてよかった。名前を名乗ったのは、『他人として死にたくない』『自分の名を残したい』という気持ちがあったのではないか」と話していました。

また、警察庁の元幹部は「本当に日本国内で生きていたのだと率直に驚いた。これまでにも過激派やオウム真理教のメンバーが時間がたってから発見されるケースもあったが、『事件は終わっていない』という思いで警察も情報提供を呼びかけたり捜査を尽くしたりすることが大切だと改めて感じている」と話していました。

元捜査員「捜査に携わった者として本当に心苦しい」

桐島聡容疑者の捜査に長年携わった警視庁公安部の元捜査員は、「『桐島聡』と名乗られる前に行方をつかみたかった。長年、多くの捜査員が足取りを追っていたが、有力な情報は無かった。この人物が本当に桐島容疑者だとすれば、亡くなったことで法の裁きを受けることはなくなり、捜査に携わった者として本当に心苦しい」と話していました。

そのうえで、「『東アジア反日武装戦線』は、3つのグループが横でつながり、組織としての強固な形を持っていなかったことから関係者の捜査も困難だった。この人物の証言が捜査の鍵となって事件の全容解明につながってほしい」と話していました。

一緒の現場で働いたことがある男性「手先が器用で仕事も真面目」

桐島容疑者と名乗る人物は、神奈川県藤沢市にある土木関連の会社で働いていましたが、一緒の現場で働いたことがあるという別の会社にいた70代の男性は、「7、8年ほど前から神奈川県内の土木工事の現場で一緒に働くことが何回かあったが、運転免許が無いのかいつもほかの人の車に乗せてもらっていた。手配の写真と印象は違うが、メガネはかけていて、小柄だった」と振り返りました。

そのうえで、「作業員仲間からはウチダ君とかウチダさんと呼ばれていて、話しかければ返事をしてくれるし、手先が器用で仕事も真面目だったので、嫌われるようなタイプではなかった。温厚に見え、あのような事件に関わるような人には見えなかった」と話していました。

通っていた飲食店の店主「驚いている」

桐島容疑者と名乗る人物が通っていたという神奈川県藤沢市内の飲食店の店主の60代の男性は、この人物について、「音楽が盛り上がってくると体を揺らして踊ったり声を上げたりすることもありました。来るのはほとんど1人で、ほかのお客さんからは『うっちー』という愛称で呼ばれ、和みながらお酒を飲んでいて、多い時で4杯ほど飲んで歩いて帰っていました」と話していました。

また、「音楽が好きだったようで、ギターを触って音楽にあわせて軽く弾いたり、お互いに好きなアーティストの話をしたこともありました。いつもメガネをかけていて、無精ひげを生やし、指名手配の写真と同じだという感覚はありませんでした。ジーパンにトレーナー、ジャンパーといった同じような服装でした」と語りました。

そのうえで、「ここ数年、姿を見ていませんでしたが、10年間ぐらいはよく来ていて、『仕事が疲れた』とか『きょう大変だった』といった話をしたことはありましたが、思想的なことや過去の話は聞いたことがなく、あのような事件を起こした人という感覚にはなれず、驚いています」と話していました。

作家 麻生幾さん「本当に残念」

公安事件や公安警察をテーマに多くの小説作品を手がけている作家の麻生幾さんは、連続企業爆破事件などが起きた当時の社会情勢について、よど号ハイジャック事件や、あさま山荘事件など多くの過激派による事件が起き、「騒乱に近い状態にあった」としたうえで、「若い人たちはある意味純粋に『政府は悪い』、『この国をよくしよう』、『世界を平和にしよう』という思いがあり、一種の正義感や美学からスタートしたが、手段が暴力的になっていったところから、ゆがんでいった」と述べました。

桐島容疑者とみられる人物が死亡したことについて、「一連の事件では、容疑者が超法規的に刑務所から出てきたケースもあるが、ほとんど供述が得られず、解明につながらなかった。日本を恐怖のどん底におとしいれた過激派の事件の真相が明らかになっていない中で、過激派の歴史、犯罪史の記録に穴が空いたことになり、本当に残念だ」と話していました。

「東アジア反日武装戦線」とは

『警察白書』によりますと、1970年代、ベトナム戦争を契機とした反戦・反米の気運や、学園紛争から生まれた反体制のムードの高まりを背景に、警察が『極左暴力集団』と位置づけるグループの活動が先鋭化しました。

連続企業爆破事件が引き起こされた1974年と75年には、合わせて37件の爆弾事件が相次ぎました。

「東アジア反日武装戦線」は1970年代、大道寺将司元死刑囚をリーダーとして結成されました。

革命の主体となりうる日雇い労働者の最大の敵は大手建設会社であり、海外進出した日本企業によって東南アジアの人たちの「窮民化」が進んでいるとして、これらの企業を敵視していました。

メンバーらは「狼」、「大地の牙」、「さそり」の3つのグループに分かれていました。このうち大道寺元死刑囚ら「狼」は昭和49年3月、爆弾の製造方法などを記した冊子「腹腹時計」を地下出版するなど、爆発物を使った闘争路線を主張しました。

これに共鳴した若者が「大地の牙」や「さそり」のグループを結成して合流し、桐島聡容疑者は「さそり」に所属していました。

昭和49年8月、「狼」のメンバーが起こした、三菱重工ビル爆破事件では、8人が死亡、165人が重軽傷を負いました。

「東アジア反日武装戦線」はこの事件をはじめ、翌年にかけて「三井物産」、「間組」といった海外進出企業などを標的に、爆破未遂を含めて12件の爆弾事件を起こしました。

警察白書は『極左暴力集団は活動が際限なく過激化し、同調していた学生や労働者の支持が急速に失われて、社会的に孤立していった』としています。

連続企業爆破事件では、2017年に死亡した大道寺将司元死刑囚と益永利明、旧姓 片岡利明死刑囚が死刑判決を受け確定しています。

また起訴された8人のうち、日本赤軍が海外で大使館占拠事件やハイジャック事件を起こした際に超法規的措置によって釈放された2人が、現在も国際手配されています。