亡き友への思い胸に 安田大サーカス 団長安田さん

亡き友への思い胸に 安田大サーカス 団長安田さん
今月17日で阪神・淡路大震災の発生から29年になります。

お笑いグループ「安田大サーカス」の団長安田さん(49)は兵庫県西宮市出身で、20歳のときに震災を経験。

震災で直面した親友の死をきっかけにお笑い芸人への道を志しました。

そして今、亡き友への思いを胸に、震災の経験を伝える活動を続けています。

能登半島地震の前、去年12月に、話を聞きました。

(神戸放送局 カメラマン 高橋恒太郎)

偶然 震災当日の写真に

阪神・淡路大震災が発生した1995年1月17日の新聞の夕刊に掲載された1枚の写真。

中央でぼう然と立ち尽くしているのはお笑い芸人「団長安田」になる前の、20歳の時の安田裕己さんです。

親友が崩れた建物の下敷きになったと聞き、駆けつけたときに偶然撮影されました。

就寝中に自宅で被災

明るい芸風で茶の間に笑いを届けているお笑いグループ「安田大サーカス」。

グループを率いる団長安田さんは、西宮市の自宅で就寝中に被災しました。

地震発生当時をこう振り返ります。
団長安田さん
「グオー、どんどんどんどんどんどんどんっていう感じで、人が、自分が飛び跳ねてる感じでした」
いままで経験したことのない揺れと音に激しく動揺しました。

家族は無事でしたが、家具は倒れガラスも割れたほか、電気やガスが止まるなどの被害を受けました。

外に出ると、見慣れた風景は一変。

建物は崩れ、あちこちで火の手が上がり、人々は混乱していました。

親友が崩れた建物の下敷きに

最寄り駅のJR甲子園口駅前を通りかかると、親友の祖母の部屋があるマンションが倒壊していました。その部屋には親友がよく寝泊まりしていました。
この日もそこに泊まっていて倒壊に巻き込まれた山口恵介さん。

幼稚園の頃からの幼なじみで、2日前、いっしょに成人式に出たばかりでした。

今と違いスマートフォンのない時代。情報がないなか、なすすべもなく救助隊の到着を待ちました。
新聞に掲載されたこの写真は、山口さんの元に駆けつけた際、撮影されていました。

崩れた建物の下に向かって、何日もの間、友人たちと交代で朝も夜も声をかけ続けたと言います。

生きていると信じて。
団長安田さん
「声が聞こえたような気がしたんですよ。声をかけて励まして、寒くて寝て死ぬみたいの聞くじゃないですか。そうならないように声かけてたんですよね」
しかし数日後、山口さんは遺体で見つかりました。

親友の死をきっかけに

変わり果てた親友の姿。

初めて経験する友人の死。

どんな泣き方をしたか覚えていないほどつらい出来事でした。

山口さんのことを思い出そうとするといまでも涙がこみ上げてくると言います。
団長安田さん
「悔しいだろうな、と思って。成人式の直後で20歳になったって喜んで。どれだけいろんなことやりたかったやろう、どれだけの夢があっただろうと」
そのころ、お笑い芸人への憧れはあったものの、明確な目標もなくすごしていた団長安田さん。

山口さんの死をきっかけに気持ちに変化があったと言います。
団長安田さん
「人生で初めて人間ていつ死ぬかわからんのやって考えさせられて。ほないつ死んでもいいようにやりたいことやらな、頑張ること頑張らなと思って。恵介がずっとぼくに芸人になれ芸人になれって言ってくれてたのもあり、よしもうやってまえって思って芸人になったんです」
後押しになったのは、一緒に遊んでいるときに山口さんがよく口にしていた言葉でした。

「お前はおもろいから芸人になれ」
その後、すぐに芸人への道を歩み始めました。

苦手だったネタ作りも、死んだらいくらでも寝られると寝ずに打ち込みました。

アメリカ大陸縦断や100キロマラソンなど、体を張った仕事にもたくさん挑戦。

どんなにつらいときでも山口さんのことを思うと耐えられました。
団長安田さん
「今の俺の痛みとか今しんどいとかなんて恵介に比べたらちっぽけやなと思って。だからいろんなもの負けてられないと永遠のライバルなのは恵介ですね。あんな思いをした恵介に比べたら俺まだまだ頑張らなあかんなって思うと頑張れるんですよ」

話せなかった震災のこと

デビューをして徐々に仕事が増えていき、「安田大サーカス」のリーダーとして人気も高まっていきました。

一方で、震災のことは話すことができないでいました。

人を笑顔にするのが仕事のお笑い芸人。

つらい話をしてもいいのか葛藤もありました。

ある時、こんな言葉を聞きました。

「人の死には2つある。1つは体が死ぬとき。もう1つは、人の記憶、心から消えてしまうときだ」

山口さんのことや震災のことを忘れないために、話すべきなのかもしれないと考え始めました。

東日本大震災が転機に

転機が訪れたのは、東日本大震災でした。

過去のつらい体験を思い出して心が保てなくなると感じ、あまりニュースなどを見ることができませんでした。

そんなとき、芸人の先輩に「今こそ阪神・淡路大震災の経験を発信したほうがいいんじゃないか」と背中を押されました。

自分の経験が果たして人の役に立つのかと半信半疑でしたが、被災した人の助けになればと、役立つ道具や気をつけることなど、自らの経験をブログにつづりました。
僕は阪神大震災の時
二十歳で
兵庫県の西宮にいました
あの時
震災直後
起きるとスキーブーツが僕の真横の壁にぶちささって
家具は倒れていました
幸い家は倒壊せずにすみましたが
街が信じられない状況で絶望的な気持ちになりました
(中略)
家に戻った時にいつもの癖で靴を脱いで部屋に入り
ケガをしてる人もいました
靴は絶対はいたまま部屋に入ってください
(中略)
知り合いにも助けてもらいましたがまったく知らない人も助けてくれました
今は辛いはずです
でも
希望を持って頑張って下さい
すると、「私も元気出します」「もっと教えてください」など、大きな反響があったのです。
団長安田さん
「あ、これしゃべっていいんだというか、しゃべって役立つんだと思ったんです。経験した人しか思えないこと、考えられないことっていうのはきっとあるので」

亡き友への思い胸に

団長安田さんは現在、講演会で笑いも交えながら阪神・淡路大震災の経験を伝えています。

あの日に起きたことを伝えることで、山口さんや震災で犠牲になった人たちのことを忘れてほしくないと考えているからです。
団長安田さん
「あの時から芸人になって震災のことをしゃべるよう託されたような気になっているんです。これは俺がしゃべらんとあかんのやと託されていると、背中を押してくれてる。悔しい思いをして亡くなった人たちが背中を押してくれていると思っています」
講演会で大事にしているのは美談だけではないリアルな被災地の様子を伝えること。

そしてなによりも伝えたいことは、ゴールの見えない被災生活では頑張りすぎないこと。
団長安田さん
「ぼちぼち頑張る、ぼちぼちやるのが大事かなと。100m走のスピードでフルマラソン走れないでしょっていう。永遠に続くかも分からないぐらいの気持ちでぼちぼちぼちぼち、そこそこ頑張るっていう気持ちにしていた方が良いと思います」

親友の墓前に誓う

団長安田さんは折に触れて、山口さんのお墓や家族の元を訪ねています。

これからも山口さんや震災で亡くなった人たちのことを語り継いでいきたいと考えています。
団長安田さん
「僕の話を聞いてくれて、防災のことをちょっと調べてみようかなとか、意識を持ってみようかなと思ってくれることには意味があるのかなと思っています。そんな大きな影響力はないですけど、多少はみんな思ってくれるのかなと。で、そこで話したことをまた家に帰って誰かが話してくれると、またそれが広まっていってくれれば、僕がお話しする意味があるのかなと思います。
恵介にはこれからもぼちぼち頑張っていくわって伝えました。せっかくね、阪神・淡路大震災の時に誰が死んでもおかしくない状況で生き残ったんだから、生き残った人間が頑張らんとね」
親友の死をきっかけにお笑い芸人の道に進んだ団長安田さん。

いま伝えたいメッセージを聞くと、こんな答えが返ってきました。

「やりたい事はやったらえーねん」

いつ死ぬかわからないから後悔のないように。

能登半島地震で被災した方へ

取材をしたのは去年の12月、最大震度7を観測した能登半島地震の前でした。

その後、被災された方へのメッセージが届きました。
ニュースを見て阪神・淡路大震災で僕たちの街も被害をうけて絶望的になった時の事を思い出しました。でも今は僕も、街も、僕の周りの人達も前を向く事が出来ています。被災地の皆さん今は悲しみや苦しみ不安でいっぱいだと思いますが、いつか絶対に復興します!たくさんの人が被災地のために何が出来るのか考えています。僕も被災地の復興に何が出来るか考え、お役に立てる様に頑張ります!!
(1月7日「おはよう日本」、1月9日「ほっと関西」で放送)
神戸放送局 カメラマン
高橋 恒太郎
2005年入局
北見局を皮切りに東京などを経て現所属。
阪神・淡路大震災の取材に関わるのは今回が初めて。