「父に会いたい」~日本を目指すJFCの若者たち~

「父に会いたい」~日本を目指すJFCの若者たち~
「父に会い、ただ抱きしめたい。元気にしていたか聞きたい。お父さん、私を見て、私はここにいるよ」

涙を流しながら、カメラレンズの向こうに父親を呼びかける若者。
JFC=ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレンと呼ばれる日本人とフィリピン人の間に生まれた子どもです。

バブル期以降、フィリピンパブなどに短期で出稼ぎに来ていた女性と、日本人男性の間に生まれ、父親に養育を放棄されて母子家庭としてフィリピンで育ってきた子どもも少なくありません。

こうした若者たちが成人年齢を迎え、今、相次いで、父の国である日本を訪れています。

(社会部 記者 小林さやか・ マニラ支局 支局長 酒井紀之 )

「父を探したい」相次ぐJFCからの相談

今年11月、フィリピン・マニラでJFCを対象とした相談会が開かれ、日本に住む父親を探したいというJFCの若者たちがひっきりなしに訪れました。

多くの若者は、幼い頃に父親と音信不通になったなどの理由で、写真などの断片的な情報しか持っておらず、現地の日本大使館などに相談しても、手がかりを得ることができなかったといいます。
今回の相談対応に当たっているのは日本の行政書士などによる支援団体「JFCサポートセンター」です。

この団体は3年前に発足し、定期的に現地でも相談会を開いています。

これまで相談を受けた人数は2000人近くに上っていますが、父の情報をつかめたのは300人ほど。実際に父に会えた人はわずかだといいます。

来日した男性は

団体の支援で来日した男性を取材しました。
喜吾(きご)さん、20歳です。

ことし4月、20歳の誕生日を迎える直前に来日し、山形県の食品工場で夜勤の仕事をしています。
喜吾さんはフィリピンで母と祖母に育てられ、日本人の父に会ったことは一度もありません。

しかし、父親の姓を名乗り、自分は日本人だということを強く感じながら生きてきました。
喜吾さん
「自分にはずっと何かが欠けていると感じていました。父に会って、それが何か確かめたいと思い続けてきました。もし会えたら、どうして母を残して去ってしまったのかなど聞きたいことがたくさんあります。父がいなくて、フィリピンでの生活は本当に大変だったから」

なぜ父は音信不通に

喜吾さんはなぜ父親と生き別れることになったのか。
フィリピンで暮らす母親のジューヴィさん(45)が話を聞かせてくれました。
ジューヴィさんは、23歳のころ、出稼ぎのため短期のビザで来日し、働いていたフィリピンパブのマネージャーだった男性との間に喜吾さんを授かったといいます。

ビザの期限が迫りジューヴィさんはひとりでフィリピンに帰国。

父親となる男性も一度はあとを追ってフィリピンを訪れ、そこで婚姻届を提出しましたが、すぐに日本に戻り、その後は一度もジューヴィさんを訪れることはなく、生まれた喜吾さんを見ることもありませんでした。

1年ほどは生活資金を送ってくれた時期もあったということですが、ある日、突然連絡が途絶え、音信不通になったと訴えました。

フィリピンパブの女性と子どもたち

日本がバブル景気にわいた1980年代以降、出稼ぎにくるフィリピン人女性は急増しました。
ダンサーや歌手などの芸能活動などを行う「興行」という6か月の在留資格で来日し、国内各地のフィリピンパブでホステスとして働くという実態が数多くありました。

こうした女性たちが店外で日本人の客と会って、子どもをみごもることが少なくなかったとの指摘があります。
バブル崩壊後もいわゆる「興行ビザ」での来日は増え続け、2004年にはフィリピンからの新規入国者数が過去最多の8万人にのぼりました。

しかし、アメリカ政府から「人身取引の温床となっている」と指摘されたことをきっかけに、日本政府は「興行ビザ」を厳格化し、それによって2005年以降、その数は激減しました。

来日した女性たちの数に比例して2004年のピーク時に生まれたJFCたちは相当数いたと見られ、20年がたつ今、この子どもたちが成人となる年齢に達しています。
在日フィリピン人について研究 静岡県立大学 高畑幸教授
「統計上明らかなだけでも、1992年から2022年の間に18万0609人の日本人がフィリピン人と結婚し、1993年から2022年の間に両国の親を持つ子どもとして11万2456人の出生届が出されている。このほかに統計はないが、未登録の婚外子も多数生まれているとみられる」

成人前に来日を目指すJFC

喜吾さんの母親のジューヴィさんは、喜吾さんの父親と音信不通となってから幼い喜吾さんを連れて、何度も日本に父親を探しに行こうとしたといいますが、当時、日本へ渡航する方法は限られていて、かないませんでした。
それでも、喜吾さんは「父親に会いたい」と願い続けてきたといいます。

フィリピンでは18歳までの子どもが単独で海外に渡航することは原則として禁じられていて、喜吾さんは20歳が目前となる今、みずからの意志で来日することを決意し、支援団体を頼ったのだと話しました。
ジューヴィさん
「喜吾は日本人の子どもであり、日本人の血が流れています。だから彼は20歳になる前に日本に行きたいと願ったのです」

国籍取得には年齢制限

JFCが20歳までに来日を目指す理由には、日本国籍の取得に年齢制限があることが背景にあります。

日本の国籍法では、喜吾さんのように父親のみが日本人だった場合は、国籍を取得するためのいくつかの条件があります。

▽結婚している両親から生まれた場合
▽結婚していなくても胎児のうちに父親が認知した場合

この場合は、出生と同時に日本国籍を取得することができます。

ただし、海外で生まれるなどして別の国の国籍も取得した場合は、生後3か月以内に届け出ないと日本国籍は失われ、未成年であれば国内に住んでいるなどの一定の条件を満たすと再取得が可能です。

生後に認知された子も国籍の取得が可能ですが、この場合も、未成年のみ認められています

いずれの場合でも、成人年齢を迎える前に手続きを進める必要があるのです。

(※成人年齢は18歳だが、2023年度末までは、経過措置で20歳まで認められている)

国籍が取れても父は…

来日し、支援団体の力を借りて、父親の情報を探している喜吾さん。

父親の戸籍謄本にたどりつき、両親はフィリピンで婚姻届を出しただけでなく、日本の戸籍上でも婚姻関係が今も続いていることがわかりました。

このため、日本国籍を再取得できる見通しが立ったのです。

日本人として生きていくことができる。
アイデンティティーを幼い頃からずっと探し求めてきた喜吾さん。
この喜びを父親に伝えたいと、母から聞いた父の電話番号に電話をかけました。
しかし、電話に出た父親は、喜吾さんが息子だと名乗ると、何も言わずに電話を切りました。
その後、メッセージを送っても、返事はありません。
支援団体も連絡しましたが、「仕事がある」と、喜吾さんとの面会を拒否しました。
喜吾さん
「父は僕が日本に来たことを喜んでくれると思っていました。電話をかけたとき、日本語で『パパ、私は喜吾です、元気ですか?』と自己紹介したら、すぐに切ってしまいました。本当にがっかりして、同時に、また拒絶されたらと思うと、もう一度連絡を取ることが怖くなってしまいました」

「父は、もしかしたら私が経済的支援を求めていると思っているのかもしれない。でも違います。フィリピンにいたときも、自分の力でアルバイトをして学費を稼いで生きてきた。そのせいで高校は卒業できなかったけど、日本でも働いて自立しています」
喜吾さんは、20歳の間際に日本国籍を取得する手続きが完了しました。
心の準備が整ったら、父親の元を訪ねることを目標にしているといいます。

今後も働きながら日本で暮らし続けていくことにしています。
喜吾さん
「幼い頃は、父の不在に怒りを感じたこともありました。でも、もうとっくに許しています。ただ、会って、存在を確かめたい。そのために日本語をもっと勉強します」

父に会えても…

取材を続ける中で、日本国籍を取得して、高齢となった父のそばで暮らしたいと願う女性にも出会いました。

まもなく20歳になるアイコさんは、群馬県の自動車部品工場で働いています。
フィリピンパブのオーナーだった父親の店で歌手として働いていた母親のもとに生まれたアイコさん。

父はたびたびアイコさん母子に会いにフィリピンを訪れていました。

当時から日本に妻子がいた父親は、アイコさんが10歳になったころ、連絡が途絶えました。
アイコさん
「父と連絡がとれなくなった後も、何度も電話をしました。でも出てくれなかった。本当に悲しく、さみしかったです」
来日から10か月、支援団体を通じてようやく連絡が取れた父親はアイコさんとの面会を受け入れました。
10年ぶりの再会。
日本語で「パパ、会いたかったよ」と父親に近寄るアイコさんに対し、戸惑う父親。

80代になっていた父親は、連絡が途絶えた当時を振り返り、アイコさんの母親との関係が崩れた後、アイコさんを日本に呼び寄せようとも考えたけれども、様々な事情からかなわなかったと語りました。
アイコさん
「私にはお金はないけど、年老いた父のそばで、愛情によって支えていきたいです。父が長い間私を捨てていたとしても問題ではありません。私は父を愛しているし、人生は短いから、一緒によい思い出を作りたい」
日本国籍の取得のリミットともなる20歳の誕生日が、あと1週間に迫ったアイコさんは、父から送られてきた書類を手に国籍取得を申請するため、法務局を訪れました。

非嫡出子であるアイコさんは、親子関係を証明するための書類がいくつも必要で、父親の認知届の証明書のほか出入国記録など、提出した以外にも追加の書類を求められ、申請が通るかどうかは不透明な状況です。

国と国の間で揺れる子どもたち

国籍が取得できた場合に戸籍に登録する名前の表記をどうするか尋ねられたアイコさんは、申請書に記入するための「愛子」の文字を何度も何度も練習していました。
日本人の父を持ちながら、日本人としての国籍取得に苦労するJFCの若者たち。

アイデンティティーに悩んできた彼らにとって、父に会いたいという思いと、国籍を取得して名実ともに日本人になりたいという思いは不可分なものだと感じました。

しかし、その道のりは厳しく、また、来日後の日本語の習得や日本社会への定着支援なども手薄です。

そのような中で、悪徳業者にだまされて借金を背負わされるといったトラブルの報告も後を絶たないといいます。

フェリス女学院大学の小ヶ谷千穂教授は、JFCの問題は、男女関係や親子関係など個人の問題とされてきたため、公的な支援が脆弱な状態にあると指摘しています。
フェリス女学院大学 小ヶ谷千穂教授
「日本政府はフィリピンの女性たちに対し、“興行ビザ”で短期の入国を認めていたが、彼女たちが妊娠したり出産したりする存在だということへの考えが及んでいなかったのではないか。その根底には、外国人労働者、そして外国籍女性を対等に見ない日本社会のまなざしがあり、それは今も決して無くなっているとは言えない。彼ら・彼女らを単に『労働力』として見るだけでなく、その人の人生を含めてどう受け入れ支援するのかまで考える必要がある」
社会が今まで以上に多様化する中、国や制度を超えて生まれる子どもたちは増えていくとみられています。

JFCの問題は、喜吾さんやアイコさん世代の問題が通り過ぎれば終わりになるのではなく、国と国とのはざまで、今後もこうした問題は続いていくとみられ、私たちはどう向き合っていくのかが問われていると感じました。
社会部 記者
小林さやか
医療・介護、ジェンダーや子どもの権利について担当。戦後、米兵と日本人女性の間に生まれた子どもなどについても取材。国や制度の狭間にいる人たちに関心。
マニラ支局 支局長
酒井紀之
仙台局、国際部、スポーツニュース部を経て現所属。隣国フィリピンの現在と過去をひもときニュースで伝える。
(12月15日 おはよう日本で放送)