旧日本軍開発「風船爆弾」 基地についての調査資料見つかる

太平洋戦争末期に旧日本軍が開発した「風船爆弾」の攻撃拠点となった基地について、旧厚生省が調査した資料が残されていたことが分かりました。基地の詳細な設置計画などのほか、戦後、基地があった土地の原状回復を求めて地元の住民らが国に陳情を行っていた経緯などが明らかになりました。

「風船爆弾」は、戦況が悪化する中、旧日本軍がアメリカ本土を直接攻撃しようと開発した兵器で、3か所の基地から放たれたおよそ9000個のうち300個ほどがアメリカに到達し民間人が犠牲になったとされています。

作戦に関連する資料は終戦時に処分が命じられたため、詳細な記録は残されていないとされていましたが、明治学院大学国際平和研究所の松野誠也研究員が国立公文書館に保管されていた文書を調査したところ、茨城県の大津基地について旧厚生省が調査した資料が見つかりました。

資料は、基地があった土地がどのように使用されてきたかをまとめたもので、このうち基地の設置や撤収に関する資料には、1944年8月に、およそ70人の土地所有者からおよそ27万坪の土地を借り上げた記録や、風船を放つ20か所以上の「放球陣地」などが記された配置計画図の写しが含まれています。

また、戦後になって返還された土地をめぐり、終戦から10年がたっても基地の工作物などが放置され農地として利用できないとして、土地の所有者のほかに地元の市長も加わって国に原状回復するよう求めて提出した陳情書が残されていました。

さらに、「諸般の関係から不可能」という陳情書に対する旧厚生省の回答書も残されています。

松野研究員は「何度も陳情を行っても原状回復がされず、なんとかしてほしいと切実な思いが強まって市も動いて陳情したと考えられる。戦時中だけでなく、戦後にかけても戦争に翻弄された地域の実情を示した資料ではないか」と話していました。

戦後 提出された陳情書

今回見つかった資料では、1944年に陸軍が風船爆弾の攻撃拠点として基地を設置するために、当時の茨城県大津町のおよそ70人の土地所有者から田畑や山林などを借り上げたことが記録されています。

終戦後に土地は所有者に返還されましたが、それから10年余りたった1957年に、部隊が残した工作物が放置され農地として利用できないとして、基地があった土地の所有者や北茨城市長が土地の原状回復や費用負担などを国に求める陳情を出していました。

陳情の中では、返還された土地について「無慙(むざん)にも荒廃と化して見る影もなく」などと記され、所有者らが国などに対して繰り返し土地の原状回復を求めたものの状況が改善されなかった経緯が記されています。

一方、陳情に対する旧厚生省の回答には、土地に現存する構築物などの撤去作業を行うことや、撤去にかかる費用を補助することは「諸般の事情から不可能」などと記されています。

基地の歴史を伝承する活動を行っている穂積建三さんは「突然、基地として広大な土地が借り上げられ、戦後になったら全く責任を取らないで自分たちでやってくれと言われたというのは、当時の人たちからすれば非常に情けなかったと思う。当時の人たちからは、自分たちで土地を掘り起こして耕地として使えるように苦労したと聞いてきたので、こうした歴史を伝えていってほしい」と話していました。

専門家「非常に大きな発見」

新たに見つかった「風船爆弾」に関する資料について、日本の近現代史を研究している筑波大学の伊藤純郎名誉教授は「これまでは、伝聞をもとに基地の記憶が語られてきたが、今回の資料は基地内のどこにどういう施設があるのかなど詳細が書かれているので、非常に大きな発見だ。作戦の実態について、もう1回吟味する必要がある」と指摘しました。

また、戦後になって地元住民から土地の原状回復を求める陳情が出されていたことについては、「風船爆弾をアメリカに飛ばしたという意味では加害の歴史だが、地元の住民からすれば被害の歴史でもある。戦争遺構は複雑な側面を持っていて、単純に被害と加害ではなく、地元、アメリカ、国とそれぞれの立場から複眼的に見ていくことが大事なのではないか」と指摘しました。