よみがえる “紫式部のすずり”

よみがえる “紫式部のすずり”
紫式部が「源氏物語」の着想を得たときに使ったと伝えられている大きな「すずり」。

このすずりを研究し現代の職人が再現することで、すずりがいつどこで作られ、「源氏物語」がどのような状況で書き始められたのか、その謎に少しでも近づこうというプロジェクトが進んでいます。

研究の中で、すずりが使用された痕跡や毛らしきものなど、思わぬ発見も…。

平安のロマンを追いました。

(報道局 ニュースLIVE!ゆう5時 ディレクター 下道愛莉)

源氏物語 多くの謎が

源氏物語はいまからおよそ1000年前、平安時代中期に紫式部によって書かれた全54帖(じょう)からなる長編の物語です。

主人公、光源氏の恋愛や生涯を中心に、当時の宮廷のくらしや貴族の日常などが書かれ、世界最古の長編小説と評されるほど後世の文学に大きな影響を与えました。

一方で、「源氏物語」は正確にいつ、どれぐらいの期間をかけて書き上げられたのか、そもそもなぜ書かれたのかなども明確には分かっておらず、さまざまな謎が残されています。

「すずり」再現に挑戦

さまざまな謎がある中で、ことし4月、紫式部ゆかりの品を再現して、ある謎の解明につなげようというプロジェクトが始まりました。
平安時代、京の都からよく貴族が参拝に訪れたと伝えられている大津市の石山寺。

紫式部はこの寺に1週間こもって、十五夜の月を見たときに、源氏物語の着想を得たと伝えられています。
その時に使ったとされているのが寺に保管されている「すずり」です。

プロジェクトでは、このゆかりのすずりを研究し、現代の職人が同じものを製作することになりました。寺の関係者をはじめ、すずり職人や大学の研究者などが参加し、いつどこでこのすずりが作られたのか、使われた状況などの謎の解明につなげることがねらいです。
「すずり」の大きさは縦が約19センチ、横が約25センチ、高さが約4センチ。表面に施されている2つの円が墨をするところで、濃い墨と薄い墨を使い分けることができます。

墨をためるくぼみには牛と鯉(こい)が彫られ、周囲には豪華な文様があり、当時の高い製作技術をうかがい知ることができます。
石山寺 鷲尾龍華 座主
「“紫式部のすずり”と同じものを作り、それを多くの人に使ってもらうことで、紫式部がどのような状況で源氏物語を書いたのかを追体験してもらいたいと思っています」

“千年前の職人と同じ時間を”

再現に挑戦するのは、東京・浅草にある書道用具専門店の4代目で、製硯師の青柳貴史さん。大学の書道学科で、日本と中国のすずりの歴史や製作、文化などを教えるかたわら、文化財の復元などにも携わっています。
青柳さんは、まず様々な後世の書物をもとにすずりの文様や形を研究。当時、日本ではこのような文様や形のすずりはなく、中国から渡ってきたものであると考えられることが分かりました。

そこで材料として、中国のすずりの石の産地からすり心地が良い高級な石を取り寄せました。
製作では平安当時の過程をできるだけ再現するため、機械は使わずに、ノミだけで材料の石を少しずつ、すずりの形に彫り出すことに。

作業は1日10時間。それでも削れるのはわずか5ミリほどの深さで、すずりの形に彫り出すだけで、およそ1か月もかかりました。
製硯師 青柳貴史さん
「千年前の職人と同じ時間を過ごすように心がけようと思いました。千年以上残ってきているとされているすずりなので、これから千年以上受け継がれるものを作るというのが今回の役目だと思っています」

半年がかりの製作 難題も

文様の再現には3Dプリンターを活用しました。

石山寺に足を運び、実物のすずりに定規を当て、光の入り具合で線の深さや彫刻の技術を分析。さらに3Dプリンターで作ったレプリカを何度も指で触り、文様の溝の深さなどを緻密に体に覚えさせていきます。
製硯師 青柳貴史さん
「目で拾えない情報を指で拾える。どの程度の深さがあって、どの程度の平面になっているのか、彫っては触って、彫っては触って体にインプットして、それを再現していきます」
ただ完成間近のすずりを前に、青柳さんがどうしても手を付けられない箇所がありました。

すずりの象徴ともいえる「鯉」と「牛」の彫刻。実物のすずりは劣化のため、墨をためる鯉と牛の目の形がはっきりと分からなくなっていたのです。
中国の古い文献などを元に研究を進めると、当時「鯉」は急流を登りやがて龍になるとされ「出世魚」の意味が。「牛」は古来より「五穀豊穣」と「信念を曲げない」などの意味があることがわかってきました。このほか石の材質や文様から考えると、このすずりは特別な人のためのオーダーメイドではないかと推測されました。
すずりの出来を左右する目をどう彫るのか。

青柳さんは東日本大震災の被災地をはじめ、各地で仏像を製作していて、目の表現に定評がある仏師の加藤巍山さんに助言を頼みました。
青柳貴史さん
「牛だったらにらんでいるのか、眠たそうなのか、それともお腹いっぱいで楽しそうなのかいろいろな表情があると思います。“紫式部のすずり”がどのようなものだったのか」
仏師 加藤巍山さん
「(私は目を彫る時には)自分自身を研ぎ澄ませ、透明にしていくことを常に意識している。拝む人によっては怒っているように見えるし、優しく微笑んでいるようにも見える。結局最後は覚悟です」
「見た人の心の持ちようで印象が変わる目にしたい」

助言をもとに青柳さんは自らの作家性を消し、目が感情を訴えないように彫ろうと決めました。

よみがえった “すずり”

ことし9月、半年近くかけて青柳さんが再現した“紫式部のすずり”が石山寺でお披露目されました。

そこには牛と鯉の目もしっかり彫られていました。
お披露目の日は中秋の名月。

紫式部が源氏物語の着想を得たとされるときと同じ満月で、石山寺の鷲尾座主は当時の情景に思いをはせながら、初めてそのすずりを使いました。

すずりからはしっかりと濃い墨が出てきました。
石山寺 鷲尾龍華 座主
「空気感というか、見る側によって何か違ったものが伝わってくるような感じがしました。皆さんに実際にこのすずりを使って文字を書く機会を作っていきたいですし、今後さらに研究することで、この価値を認めて頂けたら嬉しいなと思います」
青柳貴史さん
「墨があたってすられて墨液になっていく様子を見たとき、気持ちが成就しました。紫式部の人生や源氏物語を起筆したときの経験や時代を多くの人に追体験し楽しんで頂きたい」

思わぬ発見も… 平安ロマン求めて

「すずり」を再現する過程で、実物のすずりから、実際に墨が使われた跡が確認されたほか、溝の部分からは毛らしきものも見つかりました。
寺ではこの毛らしきものや墨の跡を調査することも検討していて、すずりがいつどこで作られたものなのかなど、科学的に明らかになっていくことも期待されています。

また再現したすずりについては、今後、一般の人に墨をする体験をしてもらう催しを計画しているということです。

紫式部が「源氏物語」をどのような状況で書いていたのか。私は1つのすずりの製作にかける時間と情熱を通して、その情景のいったんをかいま見たような気持ちになりました。
来年からはNHKの大河ドラマ「光る君へ」も放送され、ますます注目が高まる紫式部。平安ロマンを追い求めて、今後も引き続き取材をしていきます。
(10月5日「ニュースLIVE!ゆう5時」で放送)
報道局ニュースLIVE!ゆう5時 ディレクター
下道愛莉
岩手県出身。「盛岡文士劇」で源氏物語の登場人物「六条御息所」を演じました。源氏物語は現代語訳で何度も読んでいます。