水俣病訴訟 救済策の対象外の原告全員を水俣病と認定 大阪地裁

水俣病と認定されておらず、救済策の対象にもならなかった関西などに住む熊本と鹿児島出身の120人余りが、国と熊本県、それに原因企業に賠償を求めた裁判の判決で、大阪地方裁判所は、原告全員を水俣病と認定し、国などにあわせておよそ3億5000万円の賠償を命じました。

住んでいた「地域」や「年代」で救済対象を区切った特別措置法の基準外でも水俣病にり患する可能性があるとする初めての司法判断で、全国4か所で起こされている集団訴訟で判決が言い渡されたのは初めてです。

原告全員を認定 国などに計約3億5000万円の賠償命じる

訴えを起こしていたのは、昭和30年代から40年代にかけて水俣病が発生した熊本県や鹿児島県に住み、その後、大阪や兵庫などに移り住んだ50代から80代の128人です。

水俣病特有の手足のしびれなどの症状があるにもかかわらず、平成21年(2009年)に施行された水俣病に認定されていない人を救済する特別措置法で、住んでいた「地域」や、「年代」によって救済の対象外とされたため、不当だとして、国と熊本県、それに原因企業のチッソに1人あたり450万円の賠償を求めていました。

27日の判決で、大阪地方裁判所の達野ゆき裁判長は、原告全員を水俣病と認定し、国などに1人あたり275万円、あわせておよそ3億5000万円の賠償を命じました。

このうち、6人については、国と県に責任が生じる昭和35年1月より前に水銀を摂取していたとして、チッソにのみ賠償を命じました。

判決では、特別措置法の対象とした「地域」について、「地域の外であっても、水銀に汚染された魚介類を継続的に食べた場合には、水俣病を発症し得る程度に水銀を摂取したと推認するのが合理的だ」としています。

また、チッソが有機水銀の排水を止めた翌年の昭和44年11月末までに生まれた人としている救済対象の「年代」についても「少なくとも水俣湾に仕切り網が設置された昭和49年1月までにその近くでとれた魚を多く食べた人については、水銀の摂取が認められる」などとして、特別措置法の基準外でも水俣病にり患する可能性があるとする初めての司法判断を示しました。

そのうえで、「原告の症状は水俣病以外に説明できず、手足のしびれなどで身体的な苦痛を感じ、日常生活でも支障が生じている」などと指摘しています。

国の救済策の基準の妥当性などが争われた同様の集団訴訟は、熊本と新潟、それに東京でも起こされていて、判決が言い渡されたのは初めてです。

大阪地裁 「遅発性水俣病」の存在を認める

今回の裁判では、不法行為から20年が経過すると民事裁判で賠償を求める権利が消滅するという、改正前の民法に規定されていた「除斥期間」が適用されるかも争われ、どの時点で水俣病だったと認められるのかが争点となりました。

国などは、「原告は、水俣病が発生した熊本県や鹿児島県から転居後、水銀を摂取したとは認められない。水俣病の潜伏期間は通常1か月程度、長くとも1年程度であり、どれだけ長くとも最高裁判決で示された4年以内を超えることはない」などと主張していました。

これについて、27日の判決では、「検査などで確認可能な症状が出る時期と、自覚症状が出る時期が一致するとは限らない」などと指摘し、水銀を摂取してから長期間が経過した後に発症する遅発性水俣病の存在を認めました。

そのうえで、不法行為で損害が発生したと認められる時期については、「検査などに基づいて水俣病と診断された時である」などとして、原告はいずれも診断されてから20年は経っていないとして、除斥期間は適用されず賠償を求める権利は消滅していないと判断しました。

原告弁護団 “これまでの救済策の根本的転換を迫る判決”

判決が言い渡されると、大阪地方裁判所の前では、弁護士2人が「勝訴」、「国・熊本県の患者切り捨てを断罪」と書かれた紙を掲げました。

裁判所の前に集まった原告や支援者などからは、「すごい」とか「やっとだ」といった喜びの声とともに拍手が起こりました。

また、中には、目に涙を浮かべながら、両手をあげて喜びをかみしめている人もいました。

判決のあと、原告団が大阪市内で会見を開きました。

熊本県天草市出身で現在は大阪・東大阪市に住む原告のひとり、安田幸美さん(73)は、「小さい時に水俣病になったが、ふるさとの天草にいるときはわからず、大阪に出てきてから症状が出て、『なんだろう』と思っていた。まさか自分が水俣病とは思っていなかったです。勝訴できてすばらしい判決だった」と話していました。

この中で、徳井義幸弁護団長は、「これまで対象外だった地域や年代の人たちも全員が水俣病と認められた。画期的な判決で、水俣病救済を大きく前進させるものだ」と述べました。

また、弁護団は、「この判決は、国などの患者切り捨てを厳しく断罪したもので、すべての被害者の救済に向けて大きな一歩を踏み出した」などとする声明を出しました。

また、判決内容について、「特別措置法の申請の受け付けを打ち切ったことや、対象地域を線引きして原告らを切り捨ててきた国や熊本県の施策の誤りを明確に断罪し、これまでの救済策の根本的転換を迫るものだ」などと指摘しています。

松野官房長官 “関係省庁などで判決内容を検討し適切に対応”

松野官房長官は午後の記者会見で、「今後、関係省庁などで判決内容を検討の上、適切に対応するものと承知している。水俣病の被害者救済については引き続き公害健康被害補償法や水俣病特別措置法に基づく給付などを適切に行うとともに、医療や福祉の充実、地域づくりなどに取り組んでいく」と述べました。

伊藤環境相 “今後の対応については関係者と協議”

水俣病に関する補償や施策などを担当する環境省の伊藤大臣は、判決を受けて27日夕方、取材に応じ、「判決の詳細は把握していないが、国の主張が認められなかったと認識している。今後の対応については、関係者と協議して、しっかり進めたいと思う。また、原告の方々が長年にわたり様々な症状に苦しんでいることに関しては、胸が痛むところだ」と述べました。

熊本県知事 “判決内容を精査した上で対応”

判決をうけて熊本県の蒲島知事は記者団に対して、「今までの国と県の主張が認められなかったのは確かだと思います。判決内容を精査した上で対応したい」と述べました。

また、「私としては患者や被害者の皆様に寄り添っていきたいという気持ちは今も変わっていない。判決を精査しないとこの段階でこうするとはいえない。もうしばらく待ってほしい」と述べました。

チッソ “現時点でコメントできない”

判決について、原因企業のチッソは「判決内容を精査しているところで、現時点でコメントはできない」としています。

これまでの水俣病をめぐる訴訟の経緯

熊本県の水俣湾周辺で水俣病が公式に確認されたのは、67年前の昭和31年(1956年)です。

国の基準で水俣病と認定された人に対して慰謝料や療養費が支払われ、環境省によりますと、8月末の時点で、これまでに▼熊本県で1791人、▼鹿児島県で493人、▼新潟県で716人の合わせて3000人が補償を受けました。

現在も3つの県でおよそ1500人が患者としての認定を求めています。

しかし、水俣病と認められなかった人たちが裁判を起こします。

裁判が長期化する中、平成7年(1995年)、政府は、裁判を取り下げることを条件に国と県、それに原因企業が一時金などを支払うことで解決を図ります。

それでも原告の一部は裁判を続け、平成16年(2004年)、最高裁判所は国などの責任を認め、国の基準よりも広い範囲の健康被害を賠償の対象としました。

裁判は、水俣病が発生した地域から関西に移り住んだ人たちが国や熊本県に賠償を求めて起こしたもので、最高裁は「有機水銀が含まれていた工場排水を規制するなどの対策が遅れたために被害が拡大したのは明らかだ」などと指摘して国と熊本県の責任を初めて認め、7000万円余りの賠償を命じました。

また、被害範囲について、「患者が水俣湾周辺の地域から他の地域に移り住んだとしても、潜伏期間によって遅れて発生する患者もいる」などとして、行政が救済制度の対象として認定していなかった患者37人についても水俣病の被害者だと判断しました。

この判決をきっかけに平成21年(2009年)に施行された特別措置法に基づいて、国は、水俣病と認められない未認定患者を対象に一時金を支払うなどの救済策を始めました。

特別措置法では、国の基準では水俣病とは認められないものの水銀の影響を受けた可能性がある人を対象に、平成22年(2010年)からおよそ2年にわたって申請が受け付けられました。

こうした政治的な解決や特別措置法によって、5万人を超える人たちが補償を受けてきました。

しかし、特別措置法では、住んでいた「地域」や、「年代」で対象が区切られたため補償が受けられない人や、申請の締め切りに間に合わない人が出ました。

こうして国の救済策の対象にもならなかった人たちが、大阪、熊本、新潟、それに東京で集団訴訟を起こし、1700人余りが国などに損害賠償を求めています。

弁護団によりますと、原告は▼熊本地裁で1405人、▼新潟地裁で150人、▼大阪地裁で128人、▼東京地裁で86人であわせて1769人に上りますが、最近は高齢となった原告が亡くなり、取り下げるケースもあるということです。

原告の一人 “救済へのすばらしい道しるべ”

大阪・島本町に住む原告の前田芳枝さん(74)は、小さいときから水俣病特有の手足のしびれや震えなどの感覚障害に悩まされていました。

前田さんは、鹿児島県阿久根市で生まれ、熊本県水俣市などで捕れた魚を食べて過ごしていたといいます。

小学生のころから手のしびれや震えを感じ、文字をうまく書くことができない上に、足の感覚も鈍くなり、段差のない場所でつまづいたり、転んだりしていたということです。

中学校を卒業して大阪の会社に就職した後、しびれなどの症状は何かの病気なのではないのかと疑い、病院で検査を受けました。

前田さんは「複数の病院を受診しても病名がつけられないと言われました。水俣病というのは、思い浮かぶこともなかったです」と話しています。

このときついた診断は、自律神経失調症でした。

その後も症状はなくならず、自分だけが悩んでいることに孤独感や劣等感を抱いていたといいます。

そのため、症状を隠すために人前では常に体に力を込めて震えを止めたり、字を書くことを避けたりしていました。

さらに、30代の時には、毎日ほぼ寝たきりの生活で食事も作ることができなくなり、夫と子どもに苦労をかけたと感じています。

前田さんは、「娘の髪にリボンを結んであげるなど、人並みのことをしてあげたかったです。取り返しのつかない心残りや悔しさがあります」と話しています。

その後、前田さんは兄から水俣病の検診を受けるよう勧められ、9年前の2014年になってようやく水俣病と診断されました。

しかし、指定を受けた病院の診断ではなかったため、国の基準では水俣病とは認定されず、国の救済策である特別措置法の申請の受け付けも終わっていました。

また、申請をしていたとしても特別措置法の対象ではない地域に住んでいたため、補償を受けることはできなかったとみられます。

長年、病名もわからず救済もされないまま、どれだけつらい人生を歩んできたのか。

裁判では、同じような境遇の患者とともに、改めて国からの謝罪や補償を求めています。

前田さんは「見た目は元気そうに見えても、長い間、たくさんの苦しみを背負って生きてきました。震えなどの症状を隠し通してきた人生です」と話しています。

判決のあと大阪市内で開かれた会見のなかで、前田さんは「訴えを起こしてから9年余りかかりましたが、きょうの日を指折り数えて待っていました。本当にうれしいです。裁判所の公正な判断は、救済に向けたすばらしい道しるべになったと思います」とときおり涙声になりながら話していました。

来春判決の熊本訴訟原告 “熊本でも勝利を勝ち取りたい”

同様の集団訴訟は全国4つの地方裁判所で起こされていて、来年3月には鹿児島県に住む762人が原告となっている熊本での裁判で一部の原告に判決が言い渡される予定です。

27日の判決で国などに賠償を命じたことを受けて、熊本訴訟の原告で、鹿児島県出水市の谷添政一さんは、鹿児島市内で記者会見し「初めての判決で全面勝訴ということで、感謝申し上げる」と喜びを語りました。

その上で「熊本での判決に向けて支援者や弁護士と力をあわせて勝利を勝ち取りたい」と話しました。

専門家 “潜在的被害者はまだ多い 被害の全容把握を”

水俣病の被害や歴史などの研究を長年続ける熊本学園大学社会福祉学部の花田昌宣シニア客員教授は、判決について、「救済策の外側に置かれていた山間部に住む人などを水俣病と認めた画期的な判決だったと思う。これが確定すれば、新たな救済策も必要になってくると思う」と述べました。

そのうえで、潜在的な被害者の把握に向けて、熊本県水俣市などに面する不知火海沿岸の健康調査を速やかに国が実施するほか、今ある唯一の救済策となっている患者の認定制度の見直しにも目を向ける必要があると指摘しています。

また、差別や偏見へのおそれでみずから被害を訴えることができなかった患者が救われてこなかったとして、花田教授は「症状に気づかない人、周囲を気にして声をあげられなかった人など潜在的な被害者はまだ多くいる。判決をきっかけに、原告、研究者、行政、原因企業が協力をして、被害の全容を把握する必要がある」と指摘しました。

さらに、裁判が長期化していることについて「水俣病が公式確認された年に生まれた人でも70歳近くになるほど時間が経過し、亡くなる人も多くなっている。いたずらに裁判を延ばすべきではない」と述べました。