徳さんのマウンド

徳さんのマウンド
夏の甲子園の開幕が間近に迫っていた。その日、「彼」は宮崎代表として出場する高校のグラウンドの隅で、したたり落ちる汗を気にすることもなく土ぼこりにまみれていた。

100年を超える甲子園の歴史で宮崎県の学校が頂点に立ったことはない。彼は、それが夢ではなくかなえられる目標だと思っていた。

彼は選手ではない。指導者でもない。

この裏方の役割を自分は気に入っている。完成したマウンドをみて彼は改めて、そう思った。
(宮崎放送局アナウンサー 道上美璃)

こだわりのない転職先

「彼」の名前は、徳永勝利という。

4月に勇退するまでプロ野球のホークスで、前身のダイエー時代からグラウンドキーパーとして働いてきた。
ホークスのグラウンド整備は芝と土で専門が分かれる。

来年還暦を迎える彼は、人生の半分以上を「土」と向き合ってきた。

そのきっかけは36年前にさかのぼる。

1人暮らしの部屋の電話が鳴った。福岡の母からだった。

「平和台球場の仕事に空きがあるらしいっちゃけど。かっちゃん、どうする?」

彼は高校を中退したあと愛知の自動車メーカーの下請け工場で働いていたが、3年がすぎ、地元に戻りたいと考えていた。

平和台球場はかつて日本シリーズ3連覇を達成し、「野武士軍団」と呼ばれた西鉄ライオンズの本拠地だった。
球団はすでに福岡から埼玉に移り、西武ライオンズとなっていたが、福岡の野球ファンにとって愛着ある場所に変わりない。だが、草野球程度の経験しかない彼にそんなノスタルジックな感情はなかった。

「地元で働ければ何でもいい」

どんな仕事をするのかもわからなかったが、彼は「やるよ」と答えた。そうして、彼は23歳でグラウンドキーパーという仕事についた。

“弱小球団”

「南海が球団売却、ダイエーへ譲渡。新たな本拠地は平和台に」

1988年、平和台球場で働きはじめて2年目の秋だった。

彼はそれをニュースで目にしたとき、まず驚き、次に、プロ野球に携わるこれからの日常を想像して少しワクワクした。

ところが、やってきたのは11年連続Bクラス、そのうち5回が最下位という“弱小球団”。

ダイエーホークスに変わっても毎年、負け越した。

試合に負けると「グラウンドのせいだ」と言う選手もいた。

彼は以前、西鉄の黄金時代を知る人からこんな話を聞いていた。
徳永勝利さん
「西鉄が優勝したときはスタンドからファンがグラウンドにどっとなだれ込んできて、えらい騒ぎだったって言うんですよ」
そんな日が来るわけがない。黙々とグラウンドをならす日々が続いた。

転機

福岡移転から3年目。チームはこの年から春のキャンプを高知で行うことになった。
ここで彼の考えを変えるある出来事が起きた。

プロ野球は通常2月1日に12球団が一斉にキャンプインする。ホークスの新たなキャンプ地は高知市営球場。彼は同じ若手の同僚と2人で10日ほど前から現地に入り、グラウンド作りに精を出していた。

キャンプインの前日、コーチの1人が仕上がりを確かめるため球場にやってきた。

三塁ベンチから2、3歩足を踏み入れ、ジロリと見渡して言い放った。

「こんなので練習ができるかよ」

でこぼこは、まったくない。なにがダメなのか見当もつかない。

「土に石が混じってるじゃないか」

粒のような小石だった。

彼は「万年Bクラスのコーチがなにを偉そうに」と思った。

その一方でこうも思った。

「文句を言わせないグラウンドにしてやる」

土をすくってはふるいにかける。小石を取り除いたら、またふるいに土を入れる。

内野のすみからすみまでふるいにかけ終わったのは日をまたいだ午前3時。

キャンプイン当日の未明。コーチは深い眠りの中だった。

結実

それまで彼は自分の仕事はグラウンドをただ、「平らにならすこと」だと考えていた。

ホークスが移転してくるまで10年もの間、プロ野球の球団がなかったので、プロの整備とはどういうものか教えてくれる人がいなかったのだ。
高知での一件以来、身につけるべきことがいくつもあると気づいた彼は、まずグラウンドを丁寧に観察しようと思った。

毎日、観察するうち、バウンドが変わる場所にある特徴をみつけた。

「ほかの場所よりも、硬い」

例えば練習で使っていた全面が土のグラウンド。ピッチャーと内野手の間などスパイクの歯があまり刺さらない場所で土が固まり、そこに小さな穴ができるとイレギュラーが起きた。

何年か観察を続けていると彼はグラウンドを歩くだけで、わずかな固さの違いがわかるようになった。そうした場所をほぐしては平らにならした。

「自分で学び、技を磨く」

水のまき方や土の配合の見極め。彼の場合、ほかのことも同じだった。

一つ一つの技術が上がるにつれ、彼はプレーする選手のことをより考えるようになった。
徳永さん
「野手ならイメージ通りのバウンドがくる。ピッチャーなら踏み込んだ足がずれずにしっかり踏ん張れる。いいグラウンドだと選手は思い切ってプレーできるし、上達するんです」
1998年のシーズン。チームはダイエーになって初めてAクラス入りを果たす。

翌年には南海時代以来、25年ぶりのリーグ優勝。中日との日本シリーズも制し、日本一の座についた。
彼のことばを借りれば、そのときの選手は“みたことのないとびきりの笑顔”をしていた。

選手が口々に言った。

「徳さん、やったよ!」
「徳さん、ありがとう!」

どんな仕事かもわからないまま「やるよ」と答えた日から、13年がたっていた。

責任

実は彼が一番神経を使ったのはファームの球場だ。

ファームの選手は1つのプレーで野球人生が大きく左右される。ミスをしたり、けがをすればアピールのチャンスを失い、プロ野球選手でいられなくなることもある。

彼はそれは少なからずグラウンドキーパーの責任だと思っていた。

「ひとつのイレギュラーが人の人生を狂わせるかもしれない」

彼が常に完璧を追い求める大きな理由だった。
また、彼はいいグラウンドで練習すればうまくなるとも考えていたから自分が手がけた球場で力をつけた選手が、1軍に昇格して活躍するのがなによりうれしかった。

「育成のホークス」

主力を担う選手が次々と生まれ、4年連続日本一の原動力へと成長した。

彼は間違いなく常勝・若鷹軍団の土台を担っていた。

前代未聞

4月27日。ホークスで働く最後の試合前、彼は選手たちにお願いをした。

「僕、きょうが最後なので勝ってほしいな」

試合は緊迫した投手戦になった。打線は5回までヒット1本に押さえ込まれ、0対0の均衡が続く。

5回終了時のグラウンド整備。彼はトンボを引きながら「みんなに余計なプレッシャーをかけたかな」と後悔していた。

直後の6回、ホークスは2本のヒットとフォアボールで満塁のチャンスをつくる。

バッターは5番の栗原陵矢。試合前の円陣で「徳さんのために勝ちましょう」と音頭をとった選手だ。

4球目の速球。栗原がバットを振り抜く。

ライトスタンドに向かって描かれる放物線。地鳴りのような歓声が起きる。

決勝の満塁ホームラン。
ヒーローインタビューで栗原がファンに言った。

「選手が毎日何不自由なく練習できているのは徳さんのおかげです。最後、ここに徳さん、呼んでもいいですか」

ダグアウトの脇で見ていた彼は驚いた。
徳永さん
「お立ち台なんかもう、前代未聞ですよね。グラウンドキーパーがまさかお立ち台なんて」
新聞の記事には選手と肩を組んで笑うグラウンドキーパーの写真が添えられていた。

どうせ負けるっちゃろ

36年携わったプロ野球の世界から離れ、彼は第2の人生を送る場所に宮崎を選んだ。

ホークスが、高知にかわるキャンプ地としてことしで20年になる場所だ。

彼は、地元球場の整備を請け負う会社に再就職した。

宮崎はキャンプの期間中、毎年1か月を過ごしたなじみ深い土地だが、選んだ理由はそこではない。

何度も耳にした、地元の高校野球ファンのつぶやきだった。
徳永さん
「宮崎県のチームは甲子園で優勝したことがないんです。地元の人たちは高校野球が大好きなのに、宮崎代表のことは『どうせ初戦で負けるっちゃろ』っていうんですよ」
彼はそれを聞くたびに、とても残念な気持ちになった。

ホークスは福岡移転から10年かけて日本一になり、彼は“弱小球団”が階段をかけあがる過程を知っていた。
徳永さん
「同じ高校生でしょう。優勝できないはずがない。練習の環境さえ整えば、宮崎の高校だってできる」

再スタート

最初の仕事は甲子園初出場を決めた宮崎学園だった。

グラウンドの隅のブルペンを甲子園と同じ仕様に作り替える。試合まで限られた時間だが本番と同じ環境で練習させてあげたいと請け負った。

土を掘り起こして粘土質のものに入れ替え、機械も使って何度もたたく。
その上に別の土をかぶせて軽トラックで往復して固めれば聖地を再現したマウンドの完成だ。

真新しいマウンドを試した2年生エース、河野伸一朗の第一声は「おー、投げやすいっす」だった。そして気持ちよさそうにボールを投げ込んだ。

彼が第2の人生がスタートしたと感じた瞬間だった。

徳さんのマウンド

夏の甲子園は大会6日目。彼は自宅のリビングで1人、テレビに映るナインを見つめていた。
「ハラハラしますね。今までのどんな気持ちとも違う。こんな気持ちで野球の試合をみるのは初めてです」
そういいながら、画面から目を離さない。

エースの河野は3回までヒット1本で無失点。初めての甲子園は上々の立ち上がりだった。

しかし、夢の舞台は甘くない。終盤に打ち込まれ、逆転を許した。

両チームの選手が整列し、審判がゲームセットを告げる。

彼は大きく息を吐いて、「よくやった」とひとことだけ絞り出した。

試合後、9回を1人で投げきった河野は甲子園での投球についてインタビューを受けた。
「徳永さんのマウンドで投げていなかったら、たぶん、自分のピッチングができなくて序盤から点を取られていたと思います。甲子園は、とても投げやすかった」
テレビの中継は終わっていた。彼がそのことばを聞けたかどうかはわからない。

ただ、宮崎の球児への思いをさらに強くしたことは、間違いない。

彼はきょうもどこかのグラウンドで土ぼこりにまみれ、汗を流している。
宮崎放送局アナウンサー
道上 美璃
2020年入局
宮崎局のニュース番組でキャスター
宮崎学園が甲子園出場を決めた試合の実況も担当