戦後の海外抑留 日本への引き揚げにバチカンの関与示す新資料

戦後、海外に抑留された人たちの日本への引き揚げに関する新たな資料が見つかりました。ローマ・カトリック教会の中心地のバチカンが引き揚げの実現に関わっていたことを示す外交文書などです。専門家は「日本人の引き揚げをめぐる新たな発見だ」としています。

78年前の終戦時、海外にいた元日本兵や民間人はおよそ660万人とされていて、戦後もシベリアや東南アジアなどに抑留され多くの人が亡くなったほか、生き残った人たちも日本に引き揚げるまで10年以上の時間がかかりました。

新たに見つかったのは、1946年から48年にかけてバチカンで記録された、日本人の引き揚げに関するおよそ40点の外交文書などで、国際政治史が専門の日本大学の松本佐保教授が、バチカンで公開された資料を調査して確認しました。

このうち、旧ソビエトによって57万人を超える日本人がシベリアなどに抑留された「シベリア抑留」をめぐっては、1947年1月にバチカンの駐日大使が国務長官に送った公電に、引き揚げの実現に向けて旧ソビエトとの交渉を急ぐよう、アメリカ側に働きかけたことなどが記録されています。

1948年8月には、シベリアからの引き揚げが年内に実現するよう、日本の家族団体がバチカンの国務長官に協力を求める手紙を送っていたのに対し、返書には、早期に実現するよう努力すると記されています。

また、1947年8月にバチカンの駐日大使が国務長官に送った公電には、オランダ領東インド、今のインドネシアにあった日本人の収容所をめぐり、オランダ政府に対して環境の改善を求めたことが記されていました。

その年の12月に日本の家族団体がバチカンの駐日大使に送っていた手紙には、東南アジアからの引き揚げがほぼ完了したとして、バチカンによる支援に対し、謝意がつづられています。

松本教授は「バチカンが日本人の引き揚げを援助していたことはこれまで知られておらず、新しい発見だ。日本側からすると中立国のバチカンにキリスト教の人道主義の側面から頼ったのではないか」と指摘しています。

そのうえでバチカン側のねらいについては「海外に抑留された日本人は特にシベリアではソ連側に洗脳されてしまう危険性があった。バチカンは戦前から一貫して反共産主義で、人道的理由もあったものの、実は共産化を防ぐという政治的な意図もあったのではないか」と話しています。