“日本で一番” 眺め続けられる土

“日本で一番” 眺め続けられる土
スポーツにおいて試合会場にあるものを持ち帰ることはできません。

ただひとつだけ、それが堂々と、公衆の面前で行われ、持ち帰ることが印象的なシーンとなっているものがあります。

それは甲子園の土

新型コロナの感染対策で見られなくなっていたその光景が、この夏、4年ぶりに戻ってきました。

持ち帰った土は、それぞれの選手にとって、どんな存在なのでしょうか。

(甲子園取材班/記者 並松康弘 小舟祐輔 武田菜々子)

土を飾る

渡邊郁也さんは自動車整備士。

仙台市にある整備工場で仲間たちと働いています。

ただ渡邊さんが仲間たちと違っているのは、実家に土を飾っていることではないでしょうか。

小さな小瓶が2つ、それぞれに濃い茶色の土が入っています。

1つ目の瓶と野球少年

仙台市で生まれ育った渡邊さんは野球少年でした。

市内には野球が強い高校がいくつかありました。

野球少年の多くがそうであるように仲間と比べて野球がうまかった渡邊さんも小学生の頃から甲子園に行きたいと思っていました。

中学の時、渡邊さんが進学先として選んだ高校は仙台育英高校。甲子園の常連校です。

入学した2010年、この年の夏に、仙台育英は甲子園に出場し、渡邊さんは早くも甲子園のメンバーに選ばれました。
この大会で仙台育英は1回戦で島根の開星高校、2回戦で宮崎の延岡学園に勝ちましたが、3回戦で沖縄の興南高校に1対4で敗れました。

渡邊さんは3試合ともいわゆるベンチを温めて終わり、試合に出ることはありませんでした。

プレーする甲子園でなく、ベンチから見る甲子園で終わってしまったのです。

試合後、先輩たちと一緒に甲子園の土を手で集め、持ち帰り「自分はもう一度、甲子園に帰ってくるんだ」と思いました。

一度、なくなった土

持ち帰った土は、瓶に入れ替えて自宅の部屋のクローゼットの上に置きました。

強豪校である仙台育英は厳しい練習を続けています。

よく見える位置に置いた土の入った瓶は「もう1度甲子園へ」と思わせてくれる苦しい練習の励みでした。

ところが、土を持ち帰って7か月後、東日本大震災が発生。

仙台市若林区の沿岸部にある自宅には高さ2メートルの津波が押し寄せ、自宅は全壊。

家族は何とか避難して無事でした。
渡邊さんの部屋は1階にあり、がれきや泥で埋まりました。

苦しい練習を支えた土の入った瓶はどこにあるのか、もうわからなくなりました。

土砂やがれきを片づけることが優先で、発表される死者の数が日増しに増えていく状況。野球部の練習も中止となりました。
渡邊さん
「このまま野球をやっていていいのかな、やめようかなとも思っていました」

甲子園を目指す意味は

震災の発生から3週間がたった頃でした。

部屋にたまった土砂を掘り出していた渡邊さんは瓶を見つけました。

割れてなく甲子園の土はしっかりと瓶の中に入っていました。
渡邊さん
「あのときはすごく大変で、地元や家族が元気がなくなっていました。土を見て、もし自分が甲子園に行けば、元気づけることができると思えたんです」
再び気持ちが野球に向き始めました。

跡形もなく津波に流されたまちがあり、地震によって人生を断ち切られた人が多くいます。

「野球ができることは、当たり前じゃない。感謝しないといけないことなんだ」と仲間と声をかけあいました。

甲子園を目指す練習はそんな気持ちで再開しました。

最後の夏に

高校野球をやるチームはみんな甲子園を目指し、いくつもある強豪チームは厳しい練習をこなし、自分たちこそが甲子園に行くのだと精進を重ねました。

だから甲子園の道は厳しく、渡邊さんも震災のあと、3度あった甲子園へのチャンスを2度はつかみきれず最後の夏を迎えました。
仙台育英のマウンドを守る投手、つまりエースとなったのは渡邊さんで、最後の夏は接戦を勝ち抜きながら宮城大会で優勝し、甲子園への切符をつかみました。
1回戦 対佐賀北高校 8-2 勝利 先発 渡邊(完投)
2回戦 対飯塚高校(福岡)6-3 勝利 先発 渡邊(完投)
3回戦 対作新学院(栃木)2-3 敗退 先発 渡邊
打撃もよかった渡邊さんは3回戦でホームランも打ち、3回戦で高校野球を終えました。

2年前の夏と同じように甲子園の土を持ち帰りました。

土を飾る理由

渡邊さんは、いま29歳になりました。

野球は大学まで続け、会社員を経て自動車整備士となりました。

いまは2歳になる娘を育てながら野球から離れた人生を送っています。

土砂の中から見つかった甲子園の土の瓶と、2回の勝利の末に持ち帰った甲子園の土の瓶は実家の茶の間に飾ってあります。
渡邊さん
「私にとって甲子園の土は、頑張った証が1つの形になったようなものなんです」
土を飾る理由を渡邊さんはそんな言葉で話しました。
「土を見るたびに思い出すのは当時の仲間で、ぶつかったことやふざけあったこと、そんな記憶がよみがえってくるんですね」
渡邊さんが言う“頑張った”は野球の努力だけでなく、震災でのつらい出来事と遭遇しながら、ひとつひとつ乗り越えようとしたことも入っているのでしょう。

当時、被災地にいた多くの球児が、そんな思いだったのかもしれません。

次の甲子園を目指す励ましだった1つ目の瓶の土と、震災を経験した先で得た2つ目の瓶の土。

2つの土の意味合いは違います。

元球児の渡邊さんは、それぞれの土に別々の思いを持ちながら、瓶を眺めるのだと思います。

この夏の甲子園

ことしの夏、選手たちが再び、甲子園の土を集めて、持ち帰ることができるようになりました。

新型コロナウイルスの感染拡大以降は控えるよう呼びかけられていました。

憧れの舞台で敗れた球児たちが、それぞれの思いを胸にグラウンドの土を持ち帰っています。
土を持ち帰った選手
「悔しさはありましたが、甲子園にたどり着くまでの大変さ、グラウンドに立てたことの誇りを忘れないために集めました」

「アルプス席で応援してくれた3年生の仲間に渡したいです」

「2年生でまた来年、チャンスがあるので、持ち帰った土を糧にして練習に励み、また甲子園に戻ってきたいです」

甲子園めざし淡路島から京都へ

北川陸翔選手は京都の立命館宇治高校の選手として、ことしの夏の甲子園に出場しました。

出身は兵庫県の淡路島で、野球は小学1年生のころに始めました。

野球の腕を磨いて進学先の高校を考える中学3年生の時、自分たちの課題と向き合って黙々と練習する雰囲気にひかれて立命館宇治への進学を決めたと言います。

野球部の寮に入り、1年生の秋からレギュラーに定着しました。

ただ悩みが出てきました。

寮のルールで練習時間が限られていることでした。

そこで北川選手は2年生になった春、母親の和美さんと京都の大学に進学した姉と一緒に学校の近くに家を借りて暮らすことにしました。

和美さんは毎日、お弁当のほかにもおにぎり4つを作ってくれました。

母のサポートもあってチームの全体練習が終わったあとは、バットを振り込んだり、ウエイトトレーニングをしたりするなど、思い切り練習することができました。

北川選手はチームの中心選手となり高校通算のホームランは43本になりました。
入学以来甲子園に出たことはありませんでしたが、最後の夏、京都大会で4割を超える打率をマークし、チームは甲子園への出場を決めました。

3本の瓶

甲子園の初戦は8月9日、相手は鹿児島の神村学園でした。

両親がアルプスで見守る中、北川選手は6回にタイムリーツーベースヒットを打つなど2本のヒットを打ちましたが、2対10で敗れました。試合の終了が告げられ、北川選手は甲子園の土を集めました。

その時、両親のことを考えたといいます。
北川陸翔選手
「グラウンドでいやなことがあったりしんどい思いをしていても、家に帰ってくると吹っ飛ぶような安心感があった。両親は心のよりどころだった」
試合から3日後、北川選手は母と姉と暮らす京都の家にいました。

持っていた袋には甲子園の土があり、それをスプーンですくっていました。

そうやって土はそっと、小瓶に移されました。

1本は自分のもので、そのほかは両親に渡すものでした。

土の入った小さな瓶を両親に渡す時、北川選手は感謝の気持ちを伝えました。
北川選手
「2年半サポートしてくれてありがとう。これからもまだ野球を続けていくし、いろいろ迷惑もかけると思うけど、今までのようにサポートしてくれたらありがたいです」
父の秀信さん
「よう頑張った」

母の和美さん
「あまりことばに出さない子で、心配をかけてはいけないと思って親にも言えないことがいっぱいあったと思うんです。それを乗り越えたことはすごくうれしかったです。土をもらえたことも本当にうれしくてたまりません」
北川選手は中学生のころ、家族で甲子園に高校野球を観に行った際、憧れの選手の写真を撮るため観客席の階段を急いで駆け下りていったと言います。

そして、その甲子園で、今度は堂々とプレーをしたことが両親はうれしいと話しました。
両親に土を渡したあと、北川選手は2年半ずっと使い続けたグローブと、試合で使ったヘルメット、そして甲子園の記念ボールの横に、甲子園の土が入った瓶を置きました。
北川選手
「すべてをかけた、生活の中心のような、高校野球を思い出す上で1番の思い出の品になる。2年半、最後まで野球をやってきてよかった」

“日本一の土”

ことし甲子園に出場し、敗れて土を持ち帰る選手に話を聞いたところ「両親に渡す」「世話になった先輩に渡す」という声が多く聞かれました。

みずからを励ます土であると同時に、自分を支えてくれたことへの感謝の気持ちを伝える土でもありそうです。

甲子園での高校野球は、時代とともにルールが変わり、スパイクの色が変わり髪型も変わってきています。

ただ甲子園の土を集める姿はコロナ禍の3年間を経ても、変わっていないように見えます。

そして、他の元甲子園球児もさまざまな思いで眺め続けているのかもしれません。

これだけ多くの人に、長い間眺め続けられる土は、日本中でほかにはないのかもしれません。
大阪放送局 記者
並松康弘
2014年入局 高校野球を担当
「甲子園の土のキーホルダーを大切に持っています」
仙台放送局 記者
小舟祐輔
2021年入局 宮城県警とスポーツを担当
「去年、東北勢として初優勝した仙台育英の取材を担当しました」
名古屋放送局 記者
武田菜々子
2023年入局 大阪・豊中市で生まれ、履正社高校出身
「高校球児の熱さを吸収し、取材に全力投球しています」