関東大震災の2か月後 東京で地下鉄網の整備検討の資料見つかる

関東大震災の発生からまもなく100年になりますが、復興の過程を知る上で新たな資料が発見されました。大地震の発生からわずか2か月後、東京で大規模な地下鉄網の整備が検討されていたことを示す路線図の案などが見つかりました。専門家は「地上だけでなく、地下も作り直すことが具体的に検討されたことを示す重要な資料だ」と指摘しています。

今回、新たに見つかったのは、内務大臣兼復興院総裁として復興の陣頭指揮にあたっていた後藤新平にあてて、当時の東京市の幹部が提出した都心での地下鉄網の整備計画を示す3種類の路線図と書簡です。

後藤が設立した都市計画の研究機関「後藤・安田記念東京都市研究所」が、資料を整理した際に発見しました。

地下鉄はすでにロンドンやパリなどで開業していて、東京でも震災の前から建設計画はあったものの、実現には至っていませんでした。

放射状に伸びる路線 大阪のような方式を検討か

新たに見つかった資料は3種類の路線図と2つの書簡で、震災の2か月後、1923年11月に2度にわたって後藤新平に送られていました。

最初に送られた路線図は2枚。

「第一号図」には、地下鉄にあたる「高速鉄道線」が青い線で引かれているほか、国鉄の前身の国営の鉄道路線である「省線」が計画中も含めて赤で、路面電車が黒で引かれ、交通網の全体像が示されています。

地下鉄は放射状に伸びる6つの路線から成り立っていて、それぞれが東京駅周辺で網目状に交差しているのが大きな特徴です。

「ペーターゼン式」と呼ばれ、大阪市の地下鉄がこれにあたるということです。

6つ路線の多くは「省線」と接続するようになっていて
▽「巣鴨」と「恵比寿」
▽「池袋」と「亀戸」
▽「新宿」と「洲崎」(今の江東区 東陽町駅周辺)
▽「渋谷」と「月嶋」(今の中央区 月島周辺)
▽「五反田」から「上野」を経由して「北千住」
▽「中央市場」と「鐘淵」(今の墨田区 鐘ヶ淵駅周辺)がそれぞれ結ばれています。

このうち「新宿」と「洲崎」を結ぶ路線は、皇居の下を通る設計となっています。

「第二号図」は、「第一号図」の路線を当時検討されていた幹線道路の整備計画にあわせて修正した案とみられます。

6つの路線はところどころ幹線道路に沿うように曲がっていて、通過する駅も「第一号図」とは、少し異なっています。

この2週間ほどあとの11月下旬に後藤に送られたとみられるのが、3つめの「第三号図」です。

一部、通過するルートや駅が異なっていて、最新の復興計画にあわせて修正されたとみられます。

『ラツシ、アワー』交通ヲ緩和スルニ利アリ

2度にわたって送られた路線図にはそれぞれ書簡もありました。

一つ目の書簡は「帝都復興計画に関する意見書」で、赤字で“秘”の印が押され、旧東京市の幹部だった丹羽鋤彦と長尾半平の2人の名前で地下鉄の必然性を説いています。

「『ラツシ、アワー』交通ヲ緩和スルニ利アリ」と書かれているように、当時課題となっていた路面電車の混雑緩和が期待できるとしています。

さらに「目の前の予算金額を縮小することに没頭して、帝都100年の交通に要する経費と時間の節約を犠牲にすることは看過できない大問題」と記されており、震災復興にあわせて、地下鉄の計画を進めるべきだと強く進言しています。

地下鉄建設 後回しなら“工事費が増大”

およそ2週間後の「第三号図」とあわせて送られた2つ目の書簡では、長尾半平の名で地下鉄の建設を後回しにすることの課題点を強く訴えています。

「地上の幹線道路の計画を先に進めた場合には、さまざまな建物の基礎工事などの制限を受けるため、地下鉄が不必要に深くなり、工事費や運転費が増大し、上り下りする乗客の時間的な損失を覚悟するしかない。もし建物の障害を避けようとすれば、曲線や距離が犠牲になって損失や不便さは永久に残る」などと主張。

収支や輸送人員の20年余りにわたる概算のほか、当時地下鉄が導入されていたアメリカのニューヨークにおける路面電車と、地下鉄の乗車人員の推移を示したグラフなども添付されていました。

長期的にみれば地下鉄の乗車人員が路面電車を上回り、かつ、経営的にも黒字化が図れることを示そうとしたことがうかがえます。

議会の反対 復興計画は徐々に縮小

関東大震災では東京市のおよそ4割の地域が焼失し、経済被害は当時の国家予算のおよそ4倍に達するなど甚大な被害を受けました。

復興の陣頭指揮にあたった後藤新平は「理想的帝都建設の為真に絶好の機会」とまで訴え、東京を近代的な街に作りかえることを目指して「帝都復興院」で具体的な復興計画の作成を進めました。

当初は焼失した地域だけでなく、都心部の広い範囲に、最大で70メートル余りの幅を持つ幹線道路を整備するほか、火災を防ぐ役割も果たす大規模な公園を各地に設ける構想を打ち出していました。

しかし、民間の土地を買い上げるには多大な費用がかかることなどから議会の反対意見も根強く、計画は徐々に縮小を余儀なくされました。

このため最終的な計画では、震災復興での道路整備は焼失した地域に限定され大規模な公園も数を減らし、3つに限って整備されることになりました。

内閣府の専門調査会の報告書などによりますと、地下鉄も当初の構想には入っていたものの、多大な事業費を要することから計画から外されることになりました。

今の東京につながる社会資本の整備ができたという評価がある一方、「復旧」にとどまったという指摘もあります。

結果的に、東京での地下鉄の誕生は1927年。浅草と上野の間で、今の東京メトロ銀座線です。

丸の内線が池袋と御茶ノ水の間で開業したのは1954年と戦後でした。

専門家「大胆な交通計画 100年たっても古びない」

これまで地下鉄網の整備計画は、復興の早い段階で検討されなくなったと考えられていました。

後藤新平をはじめとする日本近代の政治や関東大震災からの復興過程に詳しい東北大学大学院の伏見岳人教授は、今回の資料の発見で「地上だけでなく、地下も作り直すことが具体的に検討されたことを示している」と分析しています。

伏見教授は書簡などから「第一号図」が最も理想的な形で、それをもとに「第二号図」「第三号図」と、当時の東京市の幹部が実現可能性を考慮しながら修正を加えていった過程がわかるとしています。

特に「第三号図」には、同封された書簡に後藤の求めに応じて作成したことをうかがわせる記述もあるとして「後藤自身も関心があって、何らかの形で政策としてまとめておきたいという思いが強かったのではないか」と指摘しています。

また「当時からこんな大胆な放射状の地下鉄を作ろうとしていたことはなかなかおもしろい意見だ。当時の新しい交通機関は地下鉄であり、国家100年の計画を作る時に重要だということを力強く言っていてとても印象的で意義がある。人口が増えていくまちづくりの根幹に、交通計画を大胆に組み込むという考え方は100年たっても古びないものかなと思う」と評価しています。

この資料は、8月6日から「後藤・安田記念東京都市研究所」のウェブサイトで公開されるほか、23日から始まる展示会で一般公開も予定されています。