沖縄戦から78年「慰霊の日」次の世代への記憶の継承が課題

沖縄は23日、太平洋戦争末期の沖縄戦から78年の「慰霊の日」を迎え、最後の激戦地となった糸満市の平和祈念公園では朝早くから遺族などが平和への祈りをささげています。戦争を実際に体験した県民は全体の1割を下回っているとみられていて、沖縄戦の記憶を次の世代がどう継承していくのか、問われています。

昭和20年の沖縄戦では、激しい地上戦の末、20万人以上が亡くなり県民の4人に1人が命を落としました。

沖縄県は旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日を「慰霊の日」と定めています。

最後の激戦地となった糸満市の平和祈念公園には朝早くから遺族などが訪れ、戦没者の名前が刻まれた平和の礎に花を手向け犠牲者を悼んでいました。

平和祈念公園では正午前から戦没者追悼式が行われます。

県内のシンクタンクの調査によりますと戦争を実際に体験した県民の割合は全体の1割を下回っているとみられています。

旧日本軍に動員され、戦後、平和の尊さを訴えてきた元学徒も相次いで亡くなっています。

こうした中、国は沖縄を含む南西諸島の防衛力強化を進めていて、いわゆる「反撃能力」として使えるミサイルの配備先として南西諸島が有力視されています。

これに対し戦争を生き延びた人たちからは「平和が一番大切だという沖縄戦の教訓を守ってもらいたい」とか「沖縄から平和外交の大切さを訴えていくことが重要だ」といった声が聞かれます。

体験者が持ち続けてきた平和への願いと向き合い、沖縄戦の記憶を次の世代がどう継承していくのか、問われています。

《「魂魄の塔」にも遺族などが祈り》

「魂魄の塔」は沖縄戦最後の激戦地の1つ、糸満市の米須に沖縄戦の翌年の昭和21年に県内で初めて建てられた沖縄戦関係の慰霊塔です。

米須地区に収容されていた今の那覇市、当時の真和志村の住民がアメリカ軍の許可を得て周囲に散乱していた、およそ3万5000人分の遺骨をおさめました。

「魂魄の塔」にも、朝から遺族などが訪れ、祈りをささげています。

沖縄戦当時の状況を修学旅行生などに説明する平和ガイドをしている糸満市の井出佳代子(62)さんは「今年は特に軍事力強化の道に進み始めていることをすごく意識する中での慰霊の日なので、亡くなった方達に2度と悲惨なことが起こらないように、私たちが頑張れるように、背中を押してください、守ってくださいということを祈った」と話しました。

また、戦争を知る世代が少なくなる中での記憶の継承について「知ることがすごく大事だが、なかなか教えてくれる人も教えてもらう機会も減っている。受け身ではなく自分から知ろうとすることが大切になっていくと思う」と話していました。

「せめて現状を維持してほしい」

沖縄県八重瀬町に住む60代の男性は「おじとおばの5人が沖縄戦で亡くなったと両親から聞かされ毎年、来ています。亡くなった人たちの上に今の平和があると思っています。台湾の問題など厳しい情勢がありますが、せめて現状を維持してほしい」と話していました。

家族7人を亡くした男性「二度と戦争を起こしてはいけない」

沖縄戦当時、日米両軍が激しい戦闘を行った、いまの那覇市宇栄原にある家のそばにあった壕で4人の姉などあわせて家族7人を亡くしたという75歳の男性は「壕から出ようとしたが、出ることを許されず、ガス弾を投げ込まれて亡くなったと聞いている。二度と戦争を起こしてはいけないという思いです」と話していました。

18歳 新人バスガイド「幸せに暮らせていることに感謝する日」

新人バスガイドの研修の一環として平和祈念公園を訪れた那覇市に住む18歳の秋重優里さんは「明るい時間にしか来たことがなかったのですが、穏やかでしんみりとした気分になります。いろんな人が命を亡くしているので、きょうはいま幸せに暮らせていることに感謝する日です。自分がこの場所で感じたことをお客さんにも紹介できるようになりたい」と話していました。

JICAに勤務「勉強させてもらいながら生かしていきたい」

静岡県出身でJICA=国際協力機構の沖縄国際センターに勤めている柳詰ゆう紀さんは「沖縄戦のことはしっかりとは知りませんでした。朝から足を運んでいる人の姿を見ると感じるところがあり、来てよかったです。沖縄は平和の思いをつないできたからこそ世界に貢献できるところがあると思うので勉強させてもらいながら生かしていきたい」と話していました。

「慰霊の日が何であるのかを若い人が知っていかなければ」

沖縄戦当時、現在の南城市玉城に住んでいて両親を亡くした川平勇(83)さんは「母の遺骨がないのでここに母がいると思って来ている。母の背中に僕はいて助かったが、母は艦砲射撃を受けて亡くなった。母の背中をたたいて泣き叫んだのを覚えていて、その後、米兵に帯を切って母親から離され、大きなトラックに乗せられた。慰霊の日が何であるのかを若い人たちが知っていかなきゃいけない。今、きな臭くなっていて、非常に恐ろしい。戦争は起きてほしくない」と話していました。

弟2人亡くした男性「戦争は人間が人間でなくなる」

戦火から逃れる途中、当時2歳と4歳だった弟2人が栄養失調で亡くなり、自身は戦争を生き延びた八重瀬町の前森誠光さん(84)は、平和の礎に刻まれた弟たちの名前に水をかけ、手を合わせて弔っていました。

前森さんは「家族で墓の中に隠れていたところ、裏山に爆弾が落ちて目の前に石がばっと落ちて来た瞬間は当時6歳でしたが覚えています。また夜逃げる道中で母に『もう置いてくよ、捨てていくよ』と言われたのも覚えています。母は優しかったはずなのに、戦争は人間が人間でなくなる」と話していました。

また、戦争当時の自身と同じ年頃の孫を連れて来ていて、孫に向かって「2度と戦争は起こしちゃいけないよ。戦争をしないように、これから君たちがいろんな活動をして頑張ることが大事」と語りかけていました。

家族で唯一生存の男性「木が茂ったところでは戦争を思い出す」

沖縄戦で両親やきょうだいなどを亡くし、家族の中で唯一生き残った那覇市の澤岻正喜さん(84)は「首里の壕の中におじいちゃん、おばあちゃん、おばさん、母、兄、僕、弟と妹がいたが、その前に砲弾が落ちて母と3歳の妹がほぼ即死、おばさんが即死でした。全くけがが無かったのは僕と祖母だけで、その後、祖母も含め、自分以外は全員亡くなり、孤児になりました」と体験を語りました。

その上で「今でもその時のことははっきり覚えていて狭いところに恐怖を感じ、木が茂ったところでは戦争を思い出します。日本はいま間違いなく戦争に向かっていると感じます。みんなが意識を持てば防げるかもしれないが、目の前の生活で忙しく、関心を持てていないのではないか」と話していました。

兄亡くした男性「兄が居なかったら僕も孫もいなかった」

兄を亡くした浦添市出身の68才の男性は「1才の時に亡くなった兄がどこで亡くなったのか分からず、ここに納骨したと父から聞いている。母がおんぶをしていたが、兄に弾があたり、母は助かった。兄が居なかったら僕も孫もいなかったのでありがとうという気持ちだ」と話していました。

父亡くした男性「みんな元気で頑張ってるよ」

防衛隊に召集された父親が伊江島で亡くなったという饒平名秀さん(91)は「父は防空壕から出て来たときにアメリカ兵に鉄砲で撃たれたと聞いています。ここに来ると父が座っているみたいな感じがします。みんな元気で頑張ってるよと声をかけました」と話していました。その上で自身の戦争体験についても「隠れていた防空壕のそばの家に爆弾が落ちてバーンという音がして大きな穴があいたのは怖かった」と振り返っていました。

親子で初めて平和の礎を訪問「平和な世の中に」

宜野湾市の儀間敦子さん(47)は息子の翔伊くん(6)を連れて沖縄戦で17歳で命を落とした祖父の妹の名前を探しに初めて平和の礎を訪れました。妹の名前が定かではないということで、検索機も使って探しましたが見当たらず、先祖が住んでいたという浦添市伊祖の戦没者の名前が刻まれた刻銘板に向かって手を合わせました。

儀間さんは「息子が行きたいと言って、先生に行ってみたらどうと学校で言われたみたいで勉強するいい機会かなと思って連れてきた。これまで仏壇には手を合わせていますが、来る機会はなかった。こんなにたくさんの方が亡くなって、本当に、悲惨な戦争だったと思うし、人が人じゃなくなる戦争は二度と起こしてはいけないと思った。悲しい思いをすることが、今後、絶対にないように、いまウクライナで起こっていることも本当に早く終わって欲しいですし、平和な世の中になって欲しい」と話していました。

平和の礎 米軍戦没者を慰霊する式典 4年ぶりに開催

平和の礎では、午前10時半にアメリカ軍の戦没者を慰霊する式典が行われました。

式典は新型コロナの影響で去年まで行われておらず、4年ぶりに開催されたということで、アメリカ軍兵士の戦没者の名前が刻まれた刻銘板の前に制服姿のアメリカ海兵隊員などが整列し、祈りをささげていました。

一方、すぐそばでは反戦活動を行う市民グループが沖縄へのミサイル配備の賛否を問う投票を行っていました。