杉下茂さん死去 97歳「フォークボールの神様」中日などで215勝

プロ野球・中日が初めて日本一に輝いたときのエースで「フォークボールの神様」と呼ばれた杉下茂さんが、間質性肺炎のため今月12日に東京都内の病院で亡くなりました。97歳でした。

杉下茂さんは東京都出身。

昭和24年(1949年)に中日に入団し、昭和29年(1954年)にはリーグ最多の32勝をあげてチームを初めてのリーグ優勝に導き、日本シリーズでも5試合に登板して3勝をあげ最高殊勲選手に選ばれました。
当時は珍しかったフォークボールを決め球に、巨人の川上哲治選手などの強打者を抑え「フォークボールの神様」と呼ばれました。

通算では215勝をあげて最多勝に2回、最優秀防御率に1回、沢村賞に3回輝き、昭和30年(1955年)にはノーヒットノーランを達成しています。
また、中日と阪神で監督を務めたほか、さまざまなチームの臨時コーチとして精力的に指導にあたり、昭和60年(1985年)に野球殿堂入りしています。

杉下さんは間質性肺炎のため今月12日に東京都内の病院で亡くなりました。

97歳でした。

長嶋茂雄さん「打席で恐怖を覚えたことを思い出す」

プロ野球、巨人の長嶋茂雄終身名誉監督は球団を通してコメントを発表しました。

この中で、長嶋さんは「現役時代、杉下さんとの対戦では、これは打てないなと諦めさせるようなフォークボールが印象的でした。ストレートも速く、いつフォークボールが来るんだと打席で恐怖を覚えたことを思い出します」と現役時代の思い出を振り返りました。

そして「昭和51年には巨人の投手コーチとして若い選手中心の投手陣を鍛え上げて、立て直してくれました。監督とコーチの立場ではありましたが、信頼し合って一緒に優勝の喜びを分かち合うことができたのも心に刻まれています。偉大な先輩の訃報を聞き、大変残念でなりません。心よりご冥福をお祈りいたします」とコメントしています。

王貞治さん「対戦できなかったことは本当に残念」

ソフトバンクの王貞治球団会長は「フォークボールの神様と呼ばれるほど杉下さんなしでは日本の野球界を語ることはできない方でした。川上哲治さんや対戦した人たちの談話では、狙っていても打てないという話でしたし、それだけ頭脳的なピッチャーだったと聞いていました。杉下さんと対戦できなかったことは本当に残念です。心よりご冥福をお祈りいたします」というコメントを球団を通じて発表しました。

中日 立浪監督「キャンプでピッチャーにアドバイス」

中日の立浪監督は「最近、少しグラウンドに顔を出されることがなくよくないということは聞いてはいた。突然の訃報でびっくりした」と話しました。

そして「そんなに多く話す機会はなかったが野球が好きでドラゴンズのキャンプに顔を出してピッチャーにいろいろアドバイスをしてくれた方で、偉大な方だ。なによりも本当にいつも元気ですごいなと思っていた」と振り返りました。

また、「杉下さんといえばフォークボールでよくピッチャーにアドバイスしてくれた。指の長さがずば抜けて長いのでそこはなかなか誰もがまねをできないものだったかなと思う」と話していました。

伊東勤さん「雑用を率先してやる人だった」

プロ野球、西武とロッテで監督を務めたNHKプロ野球解説の伊東勤さんは1993年に杉下さんが西武で投手コーチだった時にキャッチャーとして接しました。

杉下さんが亡くなったことを受け「自分は捕手なので、あまり接触する機会がありませんでしたが、水をまくなどの雑用を率先してやる人でした。若い時の話、戦時中の話をよく聞かせてくれて、手りゅう弾を投げて肩が強くなったとおっしゃっていました」と当時を振り返りました。

また「杉下さんは手が大きかった。日本で最初にフォークボールを投げた人で当時は魔球みたいなものだった。現在の日本のピッチャーに受け継がれてきたのは功績だと思います」と話していました。

そして「最後にお会いしたのは、中日の2019年のキャンプで元気なお姿を見せてくれていました」としのんでいました。

田尾安志さん「90歳を過ぎても中日のキャンプ地に」

中日で活躍し、楽天の初代監督を務めた田尾安志さんは亡くなった杉下さんについて「キャンプ地でよくお会いして杉下さんしか知らないような昔の野球の話をたくさんしてもらった。90歳を過ぎても中日のキャンプ地に足を運んでいたし、ブルペンで熱心に投球を見ていたのが印象的だった。意欲的で野球に情熱を持っていた。またゴルフもお好きで、大会で優勝を逃したことを悔しそうに話していたことも印象的だった。最近は見なかったのでお元気なのかなと思っていた。杉下さんには本当にお疲れさまでしたと言いたい」と話していました。