北別府学さん死去 65歳 広島一筋19年でプロ野球通算213勝

プロ野球、広島一筋で19年間プレーし、エースとして球団最多の通算213勝をあげた北別府学さんが、16日に亡くなりました。65歳でした。

北別府さんは鹿児島県出身。宮崎県の都城農業から昭和51年にドラフト1位でプロ野球、広島に入団しました。
新人時代の北別府さん
抜群のコントロールから「精密機械」と呼ばれ、3年目から11年連続でふた桁勝利をあげて5回のリーグ優勝に貢献するなど、エースとしてカープの黄金時代を支え、カープ一筋19年で球団最多の通算213勝をあげました。
平成6年に現役を引退したあとはカープの投手コーチや野球解説者を務めていました。また、平成24年には、野球界の発展に大きな功績を残した人をたたえる野球殿堂入りを果たしました。

令和2年1月に、血液のがんの一種、「成人T細胞白血病」と診断されたことを公表し、治療を続けていました。病気を公表した際には自身のブログで「解説者として、カープの日本一を見届けるために必ずや復活します」とコメントしていました。
関係者によりますと、北別府さんは16日午後、広島市の病院で亡くなりました。

北別府さんが亡くなったことを受けて球団は、16日夜にマツダスタジアムで行われる西武戦は半旗を掲げるほか監督、コーチ、選手は喪章をつけてプレーすることにしています。

王貞治さん「何度も苦しめられたピッチャー」

ソフトバンクの王貞治球団会長は、現役選手として同じ時代に活躍した北別府学さんが亡くなったことについて「広島との対戦で何度も苦しめられたピッチャーでした。何の変哲もなさそうに見えながらも、とても打ちにくかった。彼のコントロールはすばらしく、スライダーやカーブ、シュートもよかった。通算で200勝を超える広島を代表するピッチャーであり、名球会でも活躍いただいただけに大変残念です。心よりご冥福をお祈りします」というコメントを球団を通じて発表しました。

大野豊さん「技術面でもメンタル面でも多くのこと学んだ」

広島で同じ時期にピッチャーとして活躍した2歳年上の大野豊さんは「同じグラウンドで同じユニフォームを着てプレーした仲間が亡くなってことばに表せないくらいショックだし、ただただ、残念です。北別府さんは投手として足りないところのない選手で、技術面でも、メンタル面でも多くのことを学ばせてもらいました」と話していました。

また、印象に残っていることばについて「北別府さんが通算200勝目をあげた試合で、最後にリリーフし、試合が終わったあとに『ありがとうございます』とことばをかけられ、心からの感謝の気持ちを感じました」と振り返りました。そのうえで「北別府さんは今までに見たことのない、大投手で名投手で、亡くなったあとも元気だったころの姿を決して忘れることはないと思います。長く闘病されていたのでゆっくり休んでほしいと思います。今はただそれしか考えられません」と話していました。

小早川毅彦さん「後ろを守っていても大変心強かった」

広島のOBで北別府さんと11年間ともにプレーした小早川毅彦さんは「療養されているということは知っていて、早く回復されることをずっと願っていたので、大変ショックです」と話していました。

そして、ともにプレーした時の思い出について「針の穴を通すようなコントロールでバッターに向かっていくような投球スタイルでした。相手がどんなに強くても逃げることなく向かっていくというカープのスタイルの礎を築かれた方でした。しっかり守って勝つというチームの中心的な存在でした。後ろを守っていても大変心強かったのを覚えています」と振り返りました。

最後に「OBとしては、今の現役の選手が北別府さんの意志をしっかりと引き継いで、北別府さんにいい報告をできるようにしてほしいと思います」と話しました。

新井監督「どんな時でも淡々とどっしりとしている方」

広島の新井貴浩監督は、午後4時半ごろ報道陣の取材に応じ「闘病していたとは聞いていましたが、すごく残念です。私も小さいころから北別府さんが投げる姿を見てきましたし、その投げ方のまねをしていました。私が選手の際はコーチをされていて、どんな時でも淡々と、どっしりとしている方でした。私がカープに戻ってきた時にごあいさつした際は、『がんばりんさいよ』と優しく言っていただけたのを覚えています。偉大な先輩をしのびながら、天国で北別府さんが見守ってくれていると思いながら、きょうから選手たちとプレーしていきたいと思います」と話していました。

元広島のオリックス 梵コーチ「優しいお父さんのような人柄」

現役時代に広島で活躍した、オリックスの梵英心 内野守備・走塁コーチは「僕が現役の時に解説で球場に来られていたときは『調子はどうだ』と聞かれて『絶好調です』と返すやりとりがルーティーンだった。優しい中でも『打てよ』とか、『チームのために頑張れよ』と声をかけられた印象が残っている」と振り返っていました。そして「優しいお父さんのような人柄で、また元気になってお会いできればと思っていた。まだまだこれからだと思っていたので残念な気持ちだ」と話していました。

広島 松田オーナー「すばらしいピッチャーだった」

広島の松田元オーナーは「入院していることを聞いて心配していたが、びっくりしている。球団の黄金期をエースとして支えてくれて、エースとしてのプライドが高い選手だった。コントロールと変化球に加えて強い闘争心があったからそれほど速くないボールでも抑えられていた。背番号『20』は球団のエースナンバーで重みがある番号だ。すばらしいピッチャーだった」と話していました。

阪神 岡田監督「同学年ということで対戦するとき意識」

同じ65歳で、阪神の岡田彰布監督は16日夜の試合前に報道陣の取材に応じ「大学を経て自分がプロに入った頃には、もうエース格のピッチャーだった。本当にコースに決めてきて、コントロールのいいピッチャーだった。同学年ということで対戦するときは意識した」と話しました。

巨人 原監督「大変印象深い選手の1人」

巨人の原辰徳監督は「まさに針の穴に糸を通すような非常にコントロールのいい投手で、ライバルとして戦ってきた中でも大変印象深い選手の1人でした。同世代の先輩の訃報を聞き残念でなりません。心よりご冥福をお祈りいたします」と球団を通してコメントしました。

中日 立浪監督「本当にコントロールがすばらしいピッチャー」

中日の立浪監督は「北別府さんは体が悪いということを何年か前から聞いてはいたが、あまりにも早かった。若いころよく対戦させてもらった。本当にコントロールがすばらしいピッチャーだった」と話していました。

日本ハム新庄監督「コントロールがいいピッチャーほかにいない」

日本ハムの新庄監督は「よく対戦していた。すごくコントロールがよくて打ち取られていた。こんなにコントロールがいいピッチャーはほかにいないという印象しかない。球はそこまで速くはなかったが、打ちにいったところからちょっとした変化で芯をずらす、すばらしいピッチャーだった」と振り返っていました。

田尾安志さん「対戦するのが楽しかったし好きだった」

同じ年のドラフト会議でともに1位入団した間柄で、中日などで活躍した田尾安志さんは「自分の4歳下でドラフト会議では私が9番目に1位で指名され、北別府が10番目に指名されたことを思い出す。抜群のコントロールだったので北別府の考えをよみながら対戦するのが楽しかったし好きだった。直接ことばは交わさないが、試合の中で会話をしているような感覚だった」と当時を振り返りました。

田尾さん自身も、難病の心アミロイドーシスで闘病中であることを公表していて「白血病がよくなるのかなと思っていたので、亡くなったニュースを見て急で驚いたし思った以上にショックだった。ニュースで家族の写真が出てきたのを見て早いけれどもいい人生を送ったのではないかと感じた」と話していました。

岸田首相も哀悼の意「身近に感じたスターでありヒーローだった」

岸田総理大臣は記者団に「心から哀悼の誠をささげたい。北別府氏はカープ初の200勝投手で、カープが初めて日本一になったときの中心投手だった。私と同じ年の同じ月生まれで、大変思い出深い、身近に感じたスターであり、ヒーローだった。改めて安らかにお眠りくださいと申し上げたい」と述べました。

広島の本拠地 マツダスタジアムの前でファンは

50代の男性は「僕らの時のスター選手ですから、残念です。球はそんなに速くありませんでしたが、コントロールがよくて変化球の精度が高く、0点に抑えるイメージが強いです」と話していました。

また、40代の女性は「カープのことをとても愛してくれて、解説でもいいコメントをしていたので、選手たちもすごくさみしいのではないかと思います」と話していました。

60代の男性は「本人のブログで体調が悪いと知っていましたが、急な訃報を聞き、残念でショックです。背番号20番を継いだ栗林投手にはきっちり仕事をしてほしい」と話していました。

“早すぎるよ” 出身地の鹿児島県からも惜しむ声

北別府さんと幼稚園から中学校までともに過ごした同級生の、上岡正二さんは「ほんと早くに亡くなってしまって残念ですし、“早すぎるよ”って言いたいですね。病気になってからはなかなか連絡もとれなかったので最後は会いたかったです」と話しました。

小学校と中学校では野球部のチームメートとしてともにプレーしたということで「負けん気の強い男でしたし、練習が好きな男でした。ずっともくもくと走って、ピッチャーとしての基礎をつくるんだと言って本当に頑張り屋だったと思います」と振り返りました。そのうえで「同級生として誇りに思うし自分たちも負けられないと目標としていた選手でした。ここまでよく頑張ったと思います」と話していました。

母校の鹿児島 曽於市の小学校では

北別府学さんの母校、鹿児島県曽於市の中学校で野球部の監督として指導していた上村義秋さん(81)は「さきほど聞いてびっくりしています。私にとっては野球選手であると同時に息子みたいなものなので寂しいし、何よりなんで俺より先にいくんだと。何と言っていいか言葉にならない」と話していました。

中学時代の北別府さんについて、上村さんは「ふだんは友だちとも仲よく優しかったが、ひとたびマウンドに上がると豹変する。本当に努力を惜しまなかった」と当時を振り返りました。その上で「長い間、夢を見させてくれました。感謝するだけです。せめて生きているうちに、もう一度会いたかった」と話していました。