佐賀 吉野ヶ里遺跡で墓の内部調査 赤の顔料で塗られた跡か

弥生時代後期の有力者のものとみられる墓の一部が出土した佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、5日から墓のふたを開いて内部の調査が始まりました。内部からは、ほかの有力者の墓で確認されている赤で塗られたような跡が見つかったということで、調査を行っている佐賀県は、副葬品がないかなどをさらに調べることにしています。

吉野ヶ里遺跡では、10年ぶりの発掘調査が行われてきた遺跡のほぼ中央部で、ことし4月、弥生時代後期の石でできた墓、石棺墓が出土しました。

石棺墓は、見晴らしのよい場所で単独で見つかっていることなどから、佐賀県は当時の有力者のものと見ています。

現地では、5日午前10時から内部の調査が始まり、4枚の石のふたのうち3枚を重機を使って持ち上げました。
石棺墓の中は土砂で埋まっていましたが、県によりますと内部からは赤の顔料で塗られたとみられる跡が見つかったということです。

佐賀県文化課文化財保護・活用室の白木原宜室長は「弥生時代赤色の顔料を使うとなると、副葬品を持っているような有力者の墓が多い。どういうランクの人が埋葬されていたかのヒントになる」と話しています。

考古学者「埋葬されたのは身分が高い人と考えていい」

考古学者 高島忠平さん
吉野ヶ里遺跡の発掘に長年携わってきた考古学者の高島忠平さんは「想像していたよりかなりの土砂が流入していて、骨は無くなっていると思うが、青銅の鏡、鉄の刀か剣、玉は残りやすいので副葬されている場合がある」と分析しています。

また、墓のなかから赤で塗られたような跡が見つかったことについては「赤色の顔料を用いた棺おけは限られた人にしか使われないので、埋葬されたのは身分が高い人と考えていい」と指摘しています。

吉野ヶ里遺跡では、弥生時代中期の王の墓は見つかっていますが、邪馬台国があったとされる弥生時代後期の有力者の墓は見つかっていません。

高島さんは「吉野ヶ里の巨大な環ごう集落が形成された弥生後期とリンクする今回の墓の調査は『邪馬台国論争』にインパクトを与える発掘につながるのではと期待している」と話しています。

佐賀県では、今後2週間ほどかけて墓の内部を調査し、副葬品がないかなどを調べることにしていて、邪馬台国が存在したとされる時代の新たな手がかりの発見につながるかが注目されます。

墓のふたには無数の「×印」

佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、ことし4月、県の調査で石でできた墓=石棺墓のふた4枚が並んだ状態で出土しました。

ふたはあわせると全長2メートルほどあり、表面には「×」などの交差した線が無数に刻まれています。

交差した線は規則性がなく、埋葬した際に何かしらの意図を持ってつけられたとみられています。

弥生時代の絵画に詳しい奈良県立橿原考古学研究所の橋本裕行特別研究員は九州北部の弥生時代の墓からは、副葬品として、「邪悪なものを遠ざける」と信じられた「鏡」が多数見つかっているとした上で、「鏡と同様に『×印』にも邪悪なものが侵入することを防ぐという意味合いが込められていると考えることもできる」と話しています。

また「規則性がないことからひとりの人間が刻んだと考えるよりは、入れかわり立ちかわり1人ずつ刻んでいったということも考えられる」と話しています。

佐賀県文化課によりますと、こうした「×」のような線が弥生時代の墓で見つかるのは極めて珍しく、全国でも吉野ヶ里遺跡に近い佐賀県内の遺跡「瀬ノ尾遺跡」と「二塚山遺跡」の2か所だけだということです。

佐賀県文化課文化財保護・活用室の白木原宜室長は「死者を葬る際、この地域に共通した儀礼があったのではないか」と話しています。

ふたの裏側にも「×印」確認

5日の調査では、開いた3枚の石のふたのうち1枚から、裏側に「×」といった交差した線がたくさん刻まれているのが確認されました。

こうした印は別の2枚のふたの表面にも刻まれていて、埋葬した際に何らかの意図を持ってつけられたとみられています。
佐賀県文化課 文化財保護・活用室 白木原宜室長
白木原宜室長は「印が内側から確認されたのは初めてだ。印に『封じ込める意味』があるのならば、なぜ内側に向けられているのかなど、当時の葬儀のあり方を考えるうえでのヒントになる」と話していました。

また、内部から赤で塗られたような跡が見つかったことについては「弥生時代赤色の顔料を使うとなると、副葬品を持っているような有力者の墓が多い。どういうランクの人が埋葬されていたかのヒントになる」と話しています。

ふたが見つかったのは「謎のエリア」

吉野ヶ里遺跡は広さ40ヘクタールを超える、弥生時代の大規模な環ごう集落跡です。

石でできた墓=石棺墓のふたが見つかったのは遺跡のほぼ中央部にある区域で、広さは4200平方メートルほどあり、去年、発掘調査が始まるまでは、神社があったため手つかずとなっていました。

歴代の王の墓とされる「北墳丘墓」のすぐ西側で小高い場所にあることから、考古学ファンの間では「謎のエリア」と呼ばれ、貴重な発見があるのではと注目されてきました。

ふたはこの区域の中でも最も高く、見晴らしがよい場所にあり、有力者の墓ではないかという、専門家の見立てにつながっています。