最高齢の皇族 三笠宮妃百合子さま 激動の1世紀を生きる

皇室で最高齢の三笠宮妃の百合子さまが、6月4日、100歳の誕生日を迎えられます。
結婚後、皇族として、昭和、平成、令和と、激動の1世紀を生きてこられた、その姿とは。孫である三笠宮彬子さまをはじめ長年、親交のある人たちに聞きました。
(社会部記者 橋本佳名美/高橋歩唯)
結婚後、皇族として、昭和、平成、令和と、激動の1世紀を生きてこられた、その姿とは。孫である三笠宮彬子さまをはじめ長年、親交のある人たちに聞きました。
(社会部記者 橋本佳名美/高橋歩唯)
“野球好き” WBCもテレビ観戦
ことし1月、三笠宮妃の百合子さまは、新年の一般参賀に出席し、元気な姿を見せられました。

昭和天皇の弟である、故三笠宮さまと結婚し、5人のお子さまをもうけられました。
上皇さまの叔母にあたります。
上皇さまの叔母にあたります。

長男で平成24(2012)年に亡くなった寛仁(ともひと)さまの長女の三笠宮彬子さまが、5月末、NHKのインタビューに応じ、祖母である百合子さまについて語られました。

彬子さま
「本当にざっくばらんな言葉で言ってしまえば、私もあのように年を重ねていきたいなと、いつも妃殿下(百合子さま)を拝見しながら思っております。戦争を経験してこられた方は、お強いなと改めて思いますし、妃殿下のように、何事も穏やかに、たおやかに受け止められる人間にならなくてはいけないということを、いつもお話をしながら思っております」
「本当にざっくばらんな言葉で言ってしまえば、私もあのように年を重ねていきたいなと、いつも妃殿下(百合子さま)を拝見しながら思っております。戦争を経験してこられた方は、お強いなと改めて思いますし、妃殿下のように、何事も穏やかに、たおやかに受け止められる人間にならなくてはいけないということを、いつもお話をしながら思っております」
インタビューの中では、百合子さまの日常での生活ぶりについても明かされました。

彬子さま
「ふだんは、ご本や雑誌をお読みになったり、クロスワードパズルやジグソーパズルをされたり、机の上でお楽しみになれることを楽しまれたりです。お花見の、桜のきれいな時期には、ちょっとドライブで見に行かれたりとか。野球もお好きでいらっしゃるので、ことしのWBCなんかは、遅くまでご覧になったというお話を伺いました」
「ふだんは、ご本や雑誌をお読みになったり、クロスワードパズルやジグソーパズルをされたり、机の上でお楽しみになれることを楽しまれたりです。お花見の、桜のきれいな時期には、ちょっとドライブで見に行かれたりとか。野球もお好きでいらっしゃるので、ことしのWBCなんかは、遅くまでご覧になったというお話を伺いました」

日本が世界一になった、野球のWBC=ワールド・ベースボール・クラシックの試合もテレビで観戦されていたという百合子さま。
宮内庁によりますと、テレビを見るのも好きで、ニュース番組や野球中継をご覧になるということです。
百合子さまは、皇族として「母子愛育会」の総裁や、和装の普及に取り組む「民族衣裳文化普及協会」の名誉総裁を長年務められました。
宮内庁によりますと、テレビを見るのも好きで、ニュース番組や野球中継をご覧になるということです。
百合子さまは、皇族として「母子愛育会」の総裁や、和装の普及に取り組む「民族衣裳文化普及協会」の名誉総裁を長年務められました。
民族衣裳文化普及協会の水島恭愛会長は、百合子さまの人柄について、次のように語ります。
民族衣裳文化普及協会 水島恭愛 会長
「名誉総裁として、長年、多くの人を励ましてくださいました。相手を緊張させない心配りをされる方で、ユーモアをもって気さくに話してくださいました。フルーツがお好きで、お誕生日にはフルーツバスケットを贈っておりました」
「名誉総裁として、長年、多くの人を励ましてくださいました。相手を緊張させない心配りをされる方で、ユーモアをもって気さくに話してくださいました。フルーツがお好きで、お誕生日にはフルーツバスケットを贈っておりました」
18歳で結婚
百合子さまは、大正12(1923)年6月4日、貴族院議員の高木正得子爵夫妻の次女として、お生まれになりました。
女子学習院の本科を卒業された百合子さまの結婚が決まったのは、昭和16(1941)年でした。
女子学習院の本科を卒業された百合子さまの結婚が決まったのは、昭和16(1941)年でした。

お相手は、昭和天皇の末弟である三笠宮さまでした。
百合子さまは当時のことを次のように振り返られています。
百合子さまは当時のことを次のように振り返られています。
百合子さま
「本当に。初めしばらく何のことかしらと思って、分からなくて。父も凄く辛そうでしたしね。皆、もう吃驚仰天で。あまりにも驚くご縁だったものですからね。それで、冷凍されたみたいになっちゃいましたね、高木家は全部。(中略)三遍ぐらいご辞退申し上げて、それでもお聞き届けがなくて。それでもう“絶体絶命”っていうようなことに(笑)」
※「三笠宮崇仁親王」(吉川弘文館)より
「本当に。初めしばらく何のことかしらと思って、分からなくて。父も凄く辛そうでしたしね。皆、もう吃驚仰天で。あまりにも驚くご縁だったものですからね。それで、冷凍されたみたいになっちゃいましたね、高木家は全部。(中略)三遍ぐらいご辞退申し上げて、それでもお聞き届けがなくて。それでもう“絶体絶命”っていうようなことに(笑)」
※「三笠宮崇仁親王」(吉川弘文館)より
結婚されたのは、昭和16(1941)年10月22日。三笠宮さま26歳、百合子さま18歳の時でした。
11年ぶりとなる皇族の婚儀に世間は盛り上がり、当時、百合子さまの特集を組んだ雑誌もありました。
11年ぶりとなる皇族の婚儀に世間は盛り上がり、当時、百合子さまの特集を組んだ雑誌もありました。

激動の戦中戦後をともに
結婚後まもなく、太平洋戦争が始まります。
長女の※ヤス子さんがおなかの中にいた昭和18(1943)年、三笠宮さまは陸軍参謀として、中国の南京に赴任します。
翌年には日本に戻って大本営の参謀などを務めます。
長女の※ヤス子さんがおなかの中にいた昭和18(1943)年、三笠宮さまは陸軍参謀として、中国の南京に赴任します。
翌年には日本に戻って大本営の参謀などを務めます。

昭和20(1945)年5月には、空襲でお住まいの三笠宮邸が全焼しました。
百合子さまは、三笠宮さまや当時1歳の※ヤス子さんと防空壕に避難されていました。その後、しばらく、防空壕での生活を余儀なくされたということです。
戦後、暮らしは一変します。
軍人だった三笠宮さまは、歴史研究の道に進み「古代オリエント史」の専門家として、複数の大学で講師などを務めます。
百合子さまは、三笠宮さまや当時1歳の※ヤス子さんと防空壕に避難されていました。その後、しばらく、防空壕での生活を余儀なくされたということです。
戦後、暮らしは一変します。
軍人だった三笠宮さまは、歴史研究の道に進み「古代オリエント史」の専門家として、複数の大学で講師などを務めます。

百合子さまは、三笠宮さまの研究活動をそばで支えられました。
昭和30(1955)年に東京女子大学で三笠宮さまの助手を務めた湊晶子さんは、三笠宮さまの講義の文章を百合子さまが整えられていたと、エピソードを語ります。
昭和30(1955)年に東京女子大学で三笠宮さまの助手を務めた湊晶子さんは、三笠宮さまの講義の文章を百合子さまが整えられていたと、エピソードを語ります。

講義を受ける学生から「文章の一文が長すぎて内容を追えない」という相談があったのです。

東京女子大学元学長 湊晶子さん
「学生からの相談を受けて、私が三笠宮先生の講義ノートの添削を担当しましたが、ある日、すでに文章が短く整理され『あれ?きれいになってる!』と思ったことがありました。実は妃殿下が整理されたのだと三笠宮先生から伺いました。お子さまたちが小さくて大変な時期だったと想像します。『百合子にも文章が長すぎると言われます』とおっしゃっていました。先生はいつもスーツもネクタイもビシッとしていらっしゃいましたが、よく『百合子が選んでくれたので』とおっしゃっていました。ひょっとすると妃殿下ご本人はご存じないかもしれませんが、そんなふうに本当に何気なく、皆さんの前でいつも妃殿下のことをおっしゃっていて、深く愛しておられました」
「学生からの相談を受けて、私が三笠宮先生の講義ノートの添削を担当しましたが、ある日、すでに文章が短く整理され『あれ?きれいになってる!』と思ったことがありました。実は妃殿下が整理されたのだと三笠宮先生から伺いました。お子さまたちが小さくて大変な時期だったと想像します。『百合子にも文章が長すぎると言われます』とおっしゃっていました。先生はいつもスーツもネクタイもビシッとしていらっしゃいましたが、よく『百合子が選んでくれたので』とおっしゃっていました。ひょっとすると妃殿下ご本人はご存じないかもしれませんが、そんなふうに本当に何気なく、皆さんの前でいつも妃殿下のことをおっしゃっていて、深く愛しておられました」
5人のお子さま
百合子さまは、三笠宮さまとの間に、長女の※ヤス子さんのほか「ひげの殿下」の愛称で親しまれた、長男の寛仁さまなど3男2女をもうけられました。
ひ孫は、高円宮さまの三女の守谷絢子さんの子どもなど8人になるということです。
ひ孫は、高円宮さまの三女の守谷絢子さんの子どもなど8人になるということです。

【長女:※ヤス子さん】(※ヤス=ウ冠に「心」と「用」)
昭和19(1944)年4月26日生まれ
昭和41(1966)年12月、細川護煕元総理大臣の弟で、日本赤十字社名誉社長の近衞忠※テル氏と結婚
(※「テル」=「火」に「軍」)
【長男:※寛仁(ともひと)さま】
昭和21(1946)年1月5日生まれ
平成24(2012)年6月逝去
(※「寛」=右はねに「、」がつく字体)
【次男:宜仁(よしひと)さま(桂宮さま)】
昭和23(1948)年2月11日生まれ
平成26(2014)年6月逝去
【次女:容子(まさこ)さん】
昭和26(1951)年10月23日生まれ
昭和58(1983)年10月、茶道裏千家家元の千宗室氏と結婚
【三男:憲仁(のりひと)さま(高円宮さま)】
昭和29(1954)年12月29日生まれ
平成14(2002)年11月逝去
昭和19(1944)年4月26日生まれ
昭和41(1966)年12月、細川護煕元総理大臣の弟で、日本赤十字社名誉社長の近衞忠※テル氏と結婚
(※「テル」=「火」に「軍」)
【長男:※寛仁(ともひと)さま】
昭和21(1946)年1月5日生まれ
平成24(2012)年6月逝去
(※「寛」=右はねに「、」がつく字体)
【次男:宜仁(よしひと)さま(桂宮さま)】
昭和23(1948)年2月11日生まれ
平成26(2014)年6月逝去
【次女:容子(まさこ)さん】
昭和26(1951)年10月23日生まれ
昭和58(1983)年10月、茶道裏千家家元の千宗室氏と結婚
【三男:憲仁(のりひと)さま(高円宮さま)】
昭和29(1954)年12月29日生まれ
平成14(2002)年11月逝去
三笠宮さまへの思い
三笠宮さまは、平成28(2016)年、100歳で息を引き取りました。
その2年前、百合子さまは、新年の歌会始で、99歳の白寿を迎えた三笠宮さまとの日々を歌に詠まれました。
その2年前、百合子さまは、新年の歌会始で、99歳の白寿を迎えた三笠宮さまとの日々を歌に詠まれました。

「思ひきや白寿の君と共にありて かくも静けき日々送るとは」
百合子さまの三笠宮さまへの思いを受け、去年、1冊の本が出版されました。

彬子さまが刊行委員会委員長を務めた、三笠宮さまの伝記「三笠宮崇仁親王」です。
彬子さまは、敬愛する「おばあちゃま」のためにと、百合子さまのオーラルヒストリー(口述史)の聞き手を務め、1300ページ余りにまとめられました。
彬子さまは、敬愛する「おばあちゃま」のためにと、百合子さまのオーラルヒストリー(口述史)の聞き手を務め、1300ページ余りにまとめられました。

彬子さま
「妃殿下の、殿下の足跡をきちんと形にして残したいという思いを伺っておりましたので、何としても形にしなければならないと、この数年間、必死にまとめたような感じでございます。『他人であったら、ほとんど答えないと思うけれども、孫の彬子ちゃんには、いろいろとおじいちゃまのことをなるべくたくさん知ってほしいと思っているので、どうしても話し過ぎてしまったと思うのよ』と、おっしゃいましたけれども、私も歴史の研究を続けてきた者でございますが、妃殿下のお話がおそらく100年後、200年後にも残っていくものとなり、歴史的にもとても意味があることだったなと思います」
「妃殿下の、殿下の足跡をきちんと形にして残したいという思いを伺っておりましたので、何としても形にしなければならないと、この数年間、必死にまとめたような感じでございます。『他人であったら、ほとんど答えないと思うけれども、孫の彬子ちゃんには、いろいろとおじいちゃまのことをなるべくたくさん知ってほしいと思っているので、どうしても話し過ぎてしまったと思うのよ』と、おっしゃいましたけれども、私も歴史の研究を続けてきた者でございますが、妃殿下のお話がおそらく100年後、200年後にも残っていくものとなり、歴史的にもとても意味があることだったなと思います」

彬子さまとともに、伝記の刊行に携わった学習院大学の伊藤真実子 客員研究員は、百合子さまの巧みな語りが印象的だったといいます。
学習院大学 伊藤真実子 客員研究員
「妃殿下のお話は、当時の情景や温度までが伝わるようで、聞き手を一瞬のうちに、その場につれていってくださいました。ご自身や5人のお子さまの育児の日記をつづり、俳句もご趣味だということで、観察力があり、物を書くことがお好きで、研究者気質でいらっしゃるのだなと思いました。公務で訪れた先で妃殿下のいらっしゃるテントから火が出たことがあったというお話の時には『でもテントだから、どこからでもひょいっとつまめば出られたので大丈夫なのよ』とおっしゃっていて、これまでいろいろな場面に遭遇されたと思いますが、いつも広い心でユーモアを交えながらお話しくださいました。殿下の話をされる時の妃殿下は、本当にお楽しそうでした。インタビューを重ねるうちに、ますます元気に若々しくなられていくようで、殿下との思い出が元気の源で、大切な日々だったのではと感じました」
「妃殿下のお話は、当時の情景や温度までが伝わるようで、聞き手を一瞬のうちに、その場につれていってくださいました。ご自身や5人のお子さまの育児の日記をつづり、俳句もご趣味だということで、観察力があり、物を書くことがお好きで、研究者気質でいらっしゃるのだなと思いました。公務で訪れた先で妃殿下のいらっしゃるテントから火が出たことがあったというお話の時には『でもテントだから、どこからでもひょいっとつまめば出られたので大丈夫なのよ』とおっしゃっていて、これまでいろいろな場面に遭遇されたと思いますが、いつも広い心でユーモアを交えながらお話しくださいました。殿下の話をされる時の妃殿下は、本当にお楽しそうでした。インタビューを重ねるうちに、ますます元気に若々しくなられていくようで、殿下との思い出が元気の源で、大切な日々だったのではと感じました」

三笠宮さま、そして皇室を長年支えられてきた百合子さま。
彬子さまは、百合子さまの存在をこう述べられました。
彬子さまは、百合子さまの存在をこう述べられました。

彬子さま
「やはり妃殿下が三笠宮家の要でいらっしゃったのだろうと感じます。今もお元気に穏やかにお過ごしなのは、孫としても、本当にこの上なく、うれしいことです。妃殿下にお話を伺ったりする時間というのは本当にとても幸せで、たくさんのことを何気ない会話の中から教えていただいておりますし、それが私にとって、皇族としても、一人の人間としても、妃殿下が指針のような存在ですので、これからもたくさんのお話をお伺いさせていただきたいと思っています」
「やはり妃殿下が三笠宮家の要でいらっしゃったのだろうと感じます。今もお元気に穏やかにお過ごしなのは、孫としても、本当にこの上なく、うれしいことです。妃殿下にお話を伺ったりする時間というのは本当にとても幸せで、たくさんのことを何気ない会話の中から教えていただいておりますし、それが私にとって、皇族としても、一人の人間としても、妃殿下が指針のような存在ですので、これからもたくさんのお話をお伺いさせていただきたいと思っています」


社会部 記者
橋本 佳名美
2010年入局
国税、司法担当を経て、現在は宮内庁担当
橋本 佳名美
2010年入局
国税、司法担当を経て、現在は宮内庁担当

社会部 記者
高橋 歩唯
2014年入局 松山局を経て現職
これまでに新型コロナ、医療、ジェンダー、皇室取材などを担当
高橋 歩唯
2014年入局 松山局を経て現職
これまでに新型コロナ、医療、ジェンダー、皇室取材などを担当