“怪童” 中西太さん死去 90歳 プロ野球の西鉄で活躍

“怪童”と呼ばれた強打者で、プロ野球の西鉄で活躍し、5球団で監督や監督代行を務めた中西太さんが、今月11日亡くなりました。90歳でした。

中西太さんは香川県出身、高校時代には強打のサードとして甲子園をわかせ「怪童」と呼ばれました。そして昭和27年(1952年)に、当時の西鉄に入団し、1年目で新人王に輝きました。

2年目には
▽打率3割1分4厘
▽ホームラン36本
▽盗塁36個をマークして、
史上最年少の20歳でいわゆる「トリプルスリー」を達成しました。

昭和31年(1956年)から3年連続で巨人を破って日本一になるなど、名将・三原脩監督が率いる西鉄黄金期の主力として活躍しました。

がっちりした体格を生かしたスイングと打球の速さは、桁外れで
▽ホームラン王に5回
▽首位打者に2回
▽打点王に3回輝き、
1シーズンに2つのタイトルを獲得するも、再三わずかの差で三冠王を逃しました。

昭和37年(1962年)には、29歳の若さで選手兼任監督となって翌年、リーグ優勝を果たすなど引退するまで8年間指揮をとりました。
特に、バッティングの指導には定評があり、近鉄やヤクルトなど多くのチームでコーチを務めて数々の選手を育て上げたほか、5球団で監督や監督代行を務め、平成11年(1999年)に野球殿堂入りしました。
中西さんは病気で療養していて、5月11日都内の自宅で亡くなりました。

90歳でした。

“バックスクリーンを越す場外ホームラン”などの伝説も

【プロ通算成績】
▽打率3割7厘▽1262安打▽ホームラン244本▽785打点

【打撃タイトル】
▽首位打者2回▽ホームラン王5回▽打点王3回

これらの輝かしい功績に加えて、中西さんにはスケールの大きなさまざまな逸話が語り継がれています。

高松一高時代に3回、甲子園に出場した中西さんは相手の内野手が捕球したあとに、後ろに倒れるほどの強烈なライナーを打っていたと言われています。その豪快な打撃だけでなく、甲子園でランニングホームランも記録するなど、俊足も兼ね備えていました。

プロ入り後、2年目に打ったホームランは、今も野球ファンの間で語りぐさとなっています。そのホームランは、昭和28年8月29日、平和台球場で行われた西鉄 対 大映の試合で出た1本でした。その様子を見た関係者は「ショートがジャンプした打球が場外に消えた」や「160メートルは飛んだ」などと話し、その打球のすさまじさを証言していて、NPB=日本野球機構に残された当時の試合のスコアカードの雑記欄にも「バックスクリーンを越す場外ホームラン」と記されているということです。

長嶋茂雄さん「印象深い対戦をしたよきライバル」

プロ野球・巨人の長嶋茂雄終身名誉監督は「現役時代は、西鉄との日本シリーズで、印象深い対戦をしたよきライバルで、今でもあの豪快なバッティングスタイルが目に焼き付いています。いつも私のことを気にかけてくださる心優しい先輩で、私は『ふとしさん』と呼ばせていただいた親しい関係でした。突然の訃報に接し、大変ショックを受けております。心よりご冥福をお祈りいたします」と球団を通してコメントしています。

王貞治さん「野球のスケールを大きくした人」

プロ野球・ソフトバンクの王貞治球団会長は「中西さんがコーチ時代にグラウンドでお話しする機会もあり、お会いするたびにバッティングの話をしました。中西さんのように右打者でありながら右方向に大きなホームランを打つ選手は、それまで、ほかにいませんでした。野球界で“怪童”と言われるくらい野球のスケールを大きくした人です。心よりご冥福をお祈りいたします」と球団を通じてコメントしています。

中西さんが栗山監督につないだ“ノート”

中西太さんはバッティングの指導に定評があり、多くの選手を育てるとともに、後進の指導者にも大きな影響を与えました。

ことし3月に行われた野球のWBC=ワールド・ベースボール・クラシックで日本を優勝に導いた栗山英樹監督も、その1人です。栗山監督は中西さんがヤクルトのコーチを務めていた昭和59年に入団しました。

「選手のことを考えて熱心に指導してもらった」という栗山監督は、現役を引退しスポーツキャスターとして活動していた20年ほど前、バッティングの理論や指導法を学ぶために中西さんの自宅を訪れました。

そこで中西さんは、打撃の極意を身ぶり手ぶり伝えたあと、義理の父親で、西鉄の黄金時代を監督として率いた三原脩さんが書き残した、あるノートを栗山監督に見せました。
三原さんは日本シリーズで巨人を破って3連覇を達成するなど、日本一4回、監督通算歴代2位の1687勝を挙げた名将で、常識を覆す采配は「三原マジック」と呼ばれ、50年以上も前に投打の二刀流の選手起用にも挑戦していました。

その名将が記した監督としての理論や勝負の極意など、野球のすべてが詰まった貴重なノート。栗山さんは「これは神様からのプレゼントだ」と胸が高鳴り、中西さんになんとかコピーをとらせてほしいとお願いしたといいます。
それ以来、栗山監督は、そのノートを繰り返し読み込み、三原さんの考えを落とし込みました。

中西さんは栗山監督について「彼は本当に勉強家でね。いろいろな本読んだり、いろいろなノートを写し持って、話を聞く人。まあよう(三原さんを)まねとるよ。勉強しとるよ」と、野球に対する熱心な姿勢を評価。栗山監督が平成24年に日本ハムの監督に就任した際には、三原さんの残した「日々新たなり」ということばが書かれたふくさを送りました。そのふくさは日本ハムの監督室にずっと飾られていたということです。

三原さんのノートをバイブルに、栗山監督は日本ハムをリーグ優勝2回と日本一1回に導き、大谷翔平選手を投打の二刀流の選手として育て上げました。
中西さんがノートを託してからおよそ20年。日本代表の監督として3大会ぶりの優勝を目指しWBCに臨む栗山監督について、ことし1月、中西さんは「栗山君が思いきりやってくれるように期待しています」などと思いを語っていました。

大谷選手など大リーガー4人を擁し史上最強の呼び声高い日本代表を率い「眠れなくなる日があった」と重圧と戦った栗山監督は、大会直前の合宿でも中西さんから受け継いだノートを熟読していました。

そして、三原さんが残した「僅差のゲームで『シノギ』を削る場面は監督がその全能力を投入する時」などということばに背中を押され、大会本番に臨みました。
WBCで世界一に(2023年3月)
短期決戦を勝ち上がり、大リーグのスター選手が顔をそろえたアメリカと対戦した決勝では、7人の投手を小刻みにつなぐ継投策という思いきった采配を見せ、3対2で勝利。文字どおり「僅差のゲーム」をものにして、頂点に立ちました。

野球への情熱がきっかけとなり受け継がれたノート。三原さんが培ってきた野球理論が、中西さんを通じて、栗山監督に継承され、世界一という形で実を結んだ瞬間でもありました。

WBC 栗山監督 「私の野球人としてのすべてのベース」

中西太さんが亡くなったことを受けて、WBCで日本代表を率いた栗山英樹監督は「謹んでご冥福をお祈りします。中西さんはヤクルトでの現役時代のコーチで、三原修さんも含めて、私の野球人としてのすべてのベースを作っていただきました」とコメントしました。

中西さんの指導法については「ティー打撃の練習でボールを上げてくれたのですが、どんどん近づいてきてバットが当たってしまいそうな距離にまで迫ってくる。そこまで熱意を持って伝説の一流打者が接してくれたことに、感動したことは忘れません。そして、誰にも分け隔てなく接してくれました」と振り返りました。

そして「私が指導者になる上でも、その姿に大きく影響を受けました。WBCの世界一も、すべて中西さんのおかげです」と感謝の気持ちを述べています。

阪神 岡田監督 中西さんの教えを振り返る

ルーキーの時に指導を受けたプロ野球・阪神の岡田監督は「基本的には外を振りながらインコースをさばく打ち方だった。だから当時の選手はみんな結構フォームが似ていたと思う」と中西さんの教えを振り返りました。

またアメリカ・アリゾナ州で行われたキャンプでの思い出について「ホテルの庭に夜、ネット張って、スポンジボールを至近距離から打つティーバッティングをやるのが日課だった。本当に近くから投げていたので指先をバットで打ってしまったことがある」と話していました。

ロッテ 吉井監督 「ラーメンを2口で…豪快で優しい方」

プロ野球・ロッテの吉井理人監督は現役時代、中西さんが打撃コーチやヘッドコーチを務めていた近鉄でプレーしていて「自分が若かったころ、いろいろヤンチャなことをしても中西さんがかばってくれたことを思い出します。笑いながら『頑張れよ、頑張れよ』と声をかけてくれました。いろいろな思い出がありますが1番最初に思い出されたのは川崎球場の食堂でラーメンを2口すすっただけで食べてしまったことです。あれは驚きました。本当に豪快で優しい方でした。心からご冥福をお祈りします」とコメントしています。

元ヤクルト 若松勉さん 「中西さんについていってよかった」

ヤクルトでルーキーのときから中西太さんの指導を受け通算2173本のヒットを打った若松勉さんは「僕が入団した当時の中西さんは筋肉がすごく太くて腕っぷしのいい体つきをしていて、『まだ現役でできるんじゃないか、すごいな』と思っていた」と話しました。

中西さんとの思い出については「キャンプの夜間練習で、旅館の食堂のような座敷のようなところでバットを振ったが、最初は全員でやっていたけどだんだんと1人抜け2人抜け、最後は付きっきりで教えてもらった。みんなに負けたくないという思いを持っていたから、食らいついていった。畳で練習をやっていたから、軸足の親指は血が出てベタベタになって、毎日テーピングをしていた」と振り返りました。

さらに当時のエピソードとして「当時の三原脩監督が中西さんに『あんなに体が小さいのにどこがいいんだ』と言ったようで、そのときに中西さんは『一生懸命ついてくる』と言ってくれた。それを聞いて“なにくそ”と練習についていった」と明かしました。

そのうえで「現役をやめてから仕事をもらえるのも、中西さんに教えられて一生懸命やったからだと思う。中西さんについていってよかった。『ありがとうございました。天国でも見守っていてください。自分も長生きして頑張りますので』とことばをかけたい」と感謝を述べました。

元ヤクルト 宮本慎也さん「中西さんは2000本安打達成の恩人」

現役時代に中西太さんからバッティングの指導を受けた元ヤクルトの宮本慎也さんは、「去年、仕事でご一緒したときはお元気だったので、まだちょっとピンとこない」と、心境を語りました。

宮本さんは、プロ5年目の平成11年の秋季キャンプで、初めて中西さんから指導を受け、「アウトコース低めの一番難しいボールを強くスイングできるように、一緒に反復練習をしてくれた。すごく打たされたが、いいスイングをすると『そう!それそれ!』と褒めてくれて、しんどい練習もしんどいと感じさせないようにしてくださった」と、当時の思い出を振り返りました。

また、「シーズンに入っても神宮球場で裸姿に心電図みたいな機械を付けてバッティングピッチャーをしてくれたりしていた」と熱い指導を受けたと話しました。

そのうえで、「指導を受けた翌年の平成12年にキャリアで初めて3割を打てた。僕が打てるようになり、通算2000本安打を達成できたのは、中西さんのおかげなので本当に感謝していますし、恩人です」と話しました。

さらに、「若い選手や外国人選手など分け隔てなく指導にあたられていたのが印象的でした。天国でもバッティングを教えていると思います」と話していました。

ヤクルト 杉村コーチ「中西さんの教えは継承されていくだろう」

現役時代に中西太さんから指導を受けたヤクルトの杉村繁打撃コーチは「びっくりしたし、あれだけ元気な人だったのでさみしい。もうちょっと長く見守ってほしかった」と話していました。

杉村コーチが、高校時代から『中西二世』と呼ばれて注目を集めていたことを踏まえて「ヤクルトに入ってから声もかけてもらったし、いろいろなことを教わった。中西さんからは『とにかく強い打球を打て』と言われ、汗をかいてボールを投げてくれた。中西さんの1番すばらしいところは、選手を乗せてくれて、きつい練習をしていても楽しくできることだった」と当時を振り返っていました。

杉村コーチは、ヤクルトで青木宣親選手や山田哲人選手、それに村上宗隆選手などを育成してきましたが「今のヤクルトのバッティングや練習方法は、中西さんの考え方や教え方が基本になっているのが事実だ。いろんないい選手が育ったので、僕がコーチをやめても中西さんの教えは継承されていくだろうし、野球界に残っていくと思う。すごい功績を残した方だ」とたたえていました。

元阪急 山口冨士雄さん「あれだけの選手はもう出てこない」

中西太さんとリーグ戦で何度も対戦するなど親交の深かったプロ野球・阪急ブレーブスの元選手で高松市出身の山口冨士雄さんは、20歳で入団してすぐ相手チームの中西さんのもとへあいさつに行ったときにかけてもらった言葉が強く印象に残っていると言います。

山口さんは「高松の子はみんな俺の後輩だから、俺は今後、お前を後輩と呼ぶからと中西さんに言われました。それからは会うたびに頑張れよなどと必ず声をかけてくれて会うのが楽しみでした。バッティングでは、ピンポン玉のようにボールが飛んでいて、とてつもなかったです。あれだけの選手はもう出てこないでしょう」と当時を振り返りました。

また、5年ほど前からは高校の野球部OBの交流戦でたびたび顔を合わせていたということで、山口さんは「中西さんがバッターで出場してくれましたが、初めて会ったときに見たバッティングフォームと一緒で、豪快でした。サインを求められても嫌がらないですし、人格が素晴らしかったです。そばにいたら安心感があるし、本当に楽しい人でした」と振り返りました。

そのうえで山口さんは「もう1回、高松で一緒に野球をしたかったなと思っています。『ゆっくりしてください、ご苦労さまでした。ありがとございます』と伝えたいです」と話していました。

地元の高松市でも悼む声

中西さんの地元、高松市の「たかまつミライエ」にある中西さんの功績をたたえる記念コーナーでは、訪れた人が中西さんの死去を悼んでいました。

「たかまつミライエ」の1階には、中西さんの功績をたたえる記念コーナーが設置されていて、現役時代のユニフォームのほか、西鉄ライオンズの選手として昭和28年から4シーズン連続でホームラン王となった時の記念トロフィー、それにサインなど40点あまりが展示されています。

記念コーナーを訪れた高松市に住む60代の女性は「香川出身で怪童とも言われた人ですし、誇りです。90歳とは思えず、若い人にとって野球選手の目標としてもっと長生きしてほしかった。ご冥福をお祈りします」と話していました。

記念コーナーを管理する「こども未来館」の樋口健造副館長は「突然の知らせで驚いています。休日におじいちゃんとお孫さんが来られたり、遠方からでは福岡県から西鉄の愛好家が来られたりしたこともあり、非常に大きな存在だったと思います」と話していました。