思いのままに進めばいい。~大リーグに挑む小さな会社の話~

思いのままに進めばいい。~大リーグに挑む小さな会社の話~
1月のカリフォルニアはよく晴れていた。

宮崎で野球グラブのメーカーを営む山内康信はその日、郊外に建つ豪邸に招かれていた。

そこに住む大リーガーと自分の会社のグラブを使ってもらう契約を交わすためだ。

大リーガーはテーブルに着くなり、契約書にサインをした。

「うまくいくわけがない」

そう言われて会社を立ち上げてから20年。

まもなく還暦を迎える。

窓の外をみると雲ひとつない空が広がっていた。

(宮崎放送局アナウンサー 道上美璃)

唯一無二のグラブ

「宮崎のメーカーが大リーグ市場に進出へ」

地元の新聞が大々的にとりあげた山内の会社は従業員30人ほどの中小企業だ。
会社の建物は事務所を兼ねた自社製品の販売店と裏手にある小さな工場だけ。

取材に行くと「やあ、ようこそ」と作業着姿の山内本人が出迎えてくれた。
巨大なビルにオフィスを構えるメーカーとは明らかに異なるこの会社の強みはグラブに使う素材にある。
山内さん
「野球のグラブにはふつう、ヨーロッパとかアメリカで育った専用の牛の革を使うんですけどうちが使うのは100%、地元の宮崎で育った和牛。宮崎牛の革です」
今や世界的にも高い評価を受ける宮崎の和牛。

だが、それは食の世界の話で育てる農家は「いかに良い肉質になるか」ということに力を注ぐ。

そんな牛の革が果たしてグラブになるのか。

当初は誰にもわからなかった。

できたとしても、大手に品質でかなわなければ勝負できないだろう。

道具の善し悪しで結果が左右されかねないスポーツの世界は話題性だけで売れ続けることはない。

前例のない「唯一無二のグラブ」の開発は未知の旅だった。

第二の人生

山内がふるさとで会社を立ち上げたのは39歳のとき。

大学卒業後、保険会社に15年勤めたが「自分が好きなジャンルの仕事を好きな人たちと一緒にしたい。そういう人たちのために身を粉にして働きたい」という理由で辞めた。
小学校から大学まで野球一筋。

言葉の節々から野球愛がにじむ山内が第二の人生に選んだのは「用具メーカー」だった。

山内の言葉を借りれば、「どうしてもやりたくなっちゃった」のだそうだ。

とはいえ、脱サラしたばかりの男にはグラブ作りのノウハウも手広い販売網もない。

なにより、金がなかった。

まずは市販の商品を扱う販売店から始めることにしたが、起業の資金が足りない。

両親に頭をさげて実家を担保に融資を受けた。
「何を考えているんだ」

「うまくいくわけがない」

周りの反応は冷ややかだった。

少しして、関西の工場に外注する形で自社マークのグラブの販売を始めたものの、売れない。

大手と同じ素材、同じ特徴の名もなきメーカーの商品は店舗に置いてもらうことすらままならなかった。

仕事を掛け持ち、毎日3、4時間の睡眠でなんとか会社を回す日々。

思い描いた第二の人生にはほど遠かった。

後ろ向きなチャレンジ

転機が訪れたのは8年前。

山内が学生時代、東京六大学野球の明治大学でプレーしていたことが関係している。

この翌々年、宮崎の球場で六大学野球のオールスター戦が開かれることになっていた。
下見をかねて宮崎に来ていた連盟の役員が山内に何気なく言った。
役員
「お前、地元なんだから、事務局をやってくれ」
六大学野球はOBの絆が深い。

役員は立教大学の出身だが六大学の先輩に当たる。

関係者への案内や試合の運営、ちょっと考えただけでも大変な仕事だとわかったが「はい」と答えるしかない。

役員の注文には続きがあった。
役員
「せっかくだから宮崎らしい記念品、つくってよ」
山内さん
「え!って、思うよね。もっと大変になるのはわかりきっているし。でも、やるしかない。そのときにパッと頭に浮かんだんだよ。宮崎と言えば宮崎牛、これでグラブを作ってみるかって」
あくまで記念品として作った宮崎牛のグラブはすこぶる好評だった。

しぶしぶ引き受けた、いわば“後ろ向きなチャレンジ”がその後の経営方針をガラリと変えるきっかけになるのだから人生はわからない。

ただそれは、苦しい時期に歯を食いしばり、信念を貫き続けたものへのご褒美だったのかもしれない。

弱者の戦略

宮崎牛の革は肉と同じで繊維が細かくグラブにすると型崩れしにくい。

適度な柔らかさもある。

それなのに山内の会社以外で取り扱っているメーカーはないという。
肉に脂肪のサシが入る宮崎牛は皮にも多くの油分が含まれる。

これを洗濯機のような機械で何度も洗って落としていくが、落としすぎるとこんどは革が薄くなって使い物にならない。

その塩梅を見極めるのが難しい。

さらにグラブ向けに育てられた海外の牛に比べて体が小さく、革には細かな傷やいたみがある。

つまり、グラブの素材として使える部分が少ないのだ。
大きくて、傷のない革のほうがコスト面でも効率の面でもいいのは当然だから、ほかのメーカーは手を出さない。

それでも山内は100%宮崎の和牛の革にこだわる。
山内さん
「大手のメーカーが市場の大半を占めている中で、結局、オリジナルの何かを生み出せるメーカーじゃないと先は見えない。乗り越えなきゃいけない課題はいろいろあったけど、誰もトライしないものであえて勝負する。宮崎牛にこだわるのは『弱者の戦略』なんです」
自社で職人も育て、小さいながらも仕入れから製造まで手がける名実ともに用具メーカーになった。

手にフィットして柔軟性があり、それでいて型崩れしないと評判が口コミで広がる。

今、山内の会社の商品を置いている店は260店舗になった。

名物監督の哲学

山内がいう弱者の戦略の礎は学生時代に築かれたものだと思う。

高校は県立の進学校。

甲子園には縁が無かった。

大学は強豪校でプレーしたいと一浪して明治大学に進んだ。

野球部の監督は島岡吉郎。

通算で37年間チームを率い、リーグ優勝15回、日本一7回を成し遂げている。

あの星野仙一も怒鳴りつけた絶対的な存在で、選手の間で「御大(おんたい)」と呼ばれた名物監督だ。
入部するとのちにプロに進む選手が何人もいた。

山内はというと、身長165センチの無名の内野手。

試合に出るチャンスは万が一にもなさそうだ。

しかし、山内は島岡の哲学を知っていた。
山内さん
「『御大』は勝つためにはスター選手はいらないという考えだった。どんなにきつくても試合でプレーできるチャンスがあるところにいきたくて明治を選んだんだ」
その判断が誤っていなかったとわかるのは4年後のことである。

4年間の評価

島岡は猛練習を課す一方で、選手をよく観察する指導者だった。

寮に住み込んで選手と寝食をともにし、生活態度や野球に取り組む姿勢まで熟知した上でメンバーを選ぶ。
球拾いからスタートした山内が率先して行ったのが寮の土間の掃除だった。

土間は島岡の部屋のすぐ脇で、いやがおうにも目に付く。

100人以上いる部員の中で名前を覚えてもらおうと必死だった。

続けているうちに島岡から「おい、山ノ内」と呼ばれるようになった。

「山内」と呼ばれることは一度もなかったが、それで十分だった。

プレーでは島岡が特に重視した守備を磨きに磨く。

練習は長いときで1日15時間。

真夏でも1時間ぶっとおしでノックを受けることもあった。

意識はもうろう、足がふらつく。

1球くらい手を抜いても目をつむってくれるかもしれない。

山内は手を抜かなかった。

3年秋のリーグ戦で交代出場し、憧れの神宮の土を踏む。

4年春にはショートで先発の座をつかんだ。
その直後の慶応戦だった。

ベースカバーに入った二塁のクロスプレーでひざの皿を割る大けがを負う。

それが大学最後の試合となった。

野球部の寮に入れるのは戦力とみなされるメンバーだけで、けがとはいえ戦力ではなくなった山内は別のアパートに住むことになった。

山内が松葉杖をついて外に出たとき、アパートの前に1台の車が止まった。

島岡だった。

窓を開けて、山内の目をみて言った。

「ご苦労さん」

さらに続けた。

「ご苦労さん・・」

「ご苦労さん・・・」

『御大』は山内の4年間をきちんと評価していた。

反応

実は山内は宮崎牛グラブの販売開始当初から、いつかはアメリカ市場で勝負したいと考えていた。

日本の道具は品質がよいと評価されていて、わずかだが可能性があると感じていた。

もちろん、その時点では国内でさえ認知されていなかったから夢のまた夢、ではあった。

山内は、とりあえずできることをやってみようと大リーグのレッドソックスでトレーナーをしていた知人の内窪信一郎にサンプルのグラブをいくつか送った。
山内さん
「選手のぶんだけでなくて、ブルペンキャッチャーのぶんまで送った。使ってもらえるかはわからなかったけど」
数ヶ月がたって、内窪を通じてひとりの選手から反応があった。

「もう少し大きいサイズを送ってくれないか」

ドリュー・ポメランツというピッチャーだった。

その年に17勝をあげていた。
まさか、と思った。

ほとんど誰も知らない商品を実績のある大リーガーが試してくれたということだった。

サイズを調整して何度かグラブを送った。

反応は、そこからパタリとなくなった。

大逆転

内窪から再び連絡がきたのは去年の秋だった。

「ポメランツが契約したいと言っている。アプローチしますか」

最後のサンプルを送ってから5年がたっていた。

聞けばポメランツは練習では山内のグラブを使っていたようだ、とのこと。

昨シーズンまでは海外メーカーとの契約があり、試合で使うことができなかったのだという。

契約が満了し、新たな相棒として選んだのが“メイドイン・宮崎”のグラブだった。
思いも寄らなかった大逆転。

山内はアメリカへ渡った。

手つかずのフルーツ

ロサンゼルス郊外の高級住宅街を車でしばらく走るとひときわ大きな豪邸がみえた。

玄関のチャイムを鳴らして、出てきたのは2メートル近い大男。

初対面のポメランツは1月でも半袖、短パンのラフな格好だった。

長い廊下にはこれまでの野球人生で手にした記念の品々が所狭しと並ぶ。

「アメリカンドリームとはこういうことか」と、山内は思った。
リビングではポメランツの妻が見たこともない大きな皿に敷き詰めたフルーツの盛り合わせを用意してくれていた。

ところが、山内は契約書にサインをしてもらえるかということで頭がいっぱいである。

床にトランクを広げて、日本から持ってきたお土産を家族に渡し始めた。

少しでもいい雰囲気を作りたかった。

ただ、ポメランツの腹は決まっていた。

契約書を前にすると拍子抜けするくらいスラスラとペンを走らせた。

山内はポメランツの手を両手で強く、固く握りしめた。

ポメランツがかけてくれた言葉は英語でよくわからなかったが、山内には「しっかりやるよ」と聞こえたような気がした。

テーブルには手つかずのフルーツが残っていた。

あの日の自分に

今はパドレスでプレーするポメランツ。

けがの影響で出遅れ、大リーグ昇格にむけてマイナーリーグで調整している。

昇格後はリリーフとしての活躍が期待されている。

山内のグラブが世界の舞台にデビューする日もそう遠くはないだろう。
山内さん
「ダルビッシュが投げて、そのあとにポメランツが投げる。そのときにうちのグラブを使っていたら、もう最高だね」
来月、還暦を迎えるがこれからの人生が楽しみで仕方がないという。
「うまくいくわけがない」

そう言われたあの日から20年。

苦しいことも、楽しいことも、そして想像すらできなかったことも山内は経験してきた。

あの日の自分に伝えたいことがある。
山内さん
「無謀かもしれないけど、絶対に間違ってない。だから、思いのままに進めばいい。考えることもやらなきゃいけないこともいっぱいあるけど、今の俺は幸せだぞ」
そう言って、照れくさそうに笑った。
宮崎放送局アナウンサー
道上美璃
2020年入局
宮崎局ニュース番組のメインキャスターを務めながら、高校野球の実況も担当