ボクシング村田諒太が現役引退表明「引退という名のスタート」

ボクシングミドル級のオリンピック金メダリストでプロでも世界チャンピオンになった村田諒太選手が28日、都内で開いた会見で現役を引退することを明らかにし、「ボクサーとしては引退だが、引退という名のスタートだと思っている」と話しました。

村田選手は奈良市出身の37歳。

前に出る積極的なボクシングを持ち味に、ミドル級で臨んだ2012年のロンドンオリンピックでは日本選手として48年ぶりの金メダルを獲得しました。

よくとしにはプロに転向し、2017年10月には海外の選手層が非常に厚いミドル級で世界チャンピオンとなり、日本選手として初めてアマチュアとプロの両方で世界の頂点に立ちました。

しかし、去年4月、カザフスタンのゲンナジー・ゴロフキン選手との王座統一戦で敗れて以降は試合から遠ざかっていて、28日、都内で記者会見を開き、現役を引退することを明らかにしました。

引退の理由については「もともとゴロフキン戦が最後だと思っていたが迷うところもあった。決断に時間がかかったが、ボクシングに求めるものやボクシングに対して自分ができることがあまり見つからなかった」と説明しました。

そのうえで「ボクシングを通して本当の仲間ができて感謝する方々ができた。自分が一生懸命頑張ることですばらしい出会いをくれた。トレーニングでああしていればとか、思うところはいっぱいあるしそれは悔いかもしれないが、ボクシング人生の総括として考えれば悔いはない」と現役生活を振り返りました。

また、今後に向けては「ボクサーとしては引退だが、引退という名のスタートだと思っている。アスリートは夢がかなうと今後のキャリアに熱量が持てない人がいるが、自分自身がこれからのキャリアを作り、アスリートのロールモデルを示したい」と意気込みを話しました。

そして最後にファンに向けて「多くの方に会場にきて自分の夢を実質的にサポートしてもらった。ファンの方々がいてこその自分のプロ生活だった。ありがとうございます」と感謝を述べました。

村田諒太選手とは

村田選手は奈良市出身の37歳。中学時代にボクシングを始め、右ストレートを中心とした強打と堅いガードが持ち味です。

東洋大学を卒業後、大学職員となり出場した2011年の世界選手権では、日本選手で初めて銀メダルを獲得し、2012年のロンドンオリンピックで日本選手としては48年ぶりとなるボクシングの金メダルを獲得しました。

このよくとしにプロに転向し、世界的に選手層が厚いミドル級で、デビューから12連勝を果たし、2017年10月にはWBA=世界ボクシング協会のミドル級王座決定戦で勝って世界チャンピオンとなりました。

アマチュアとプロの両方で世界の頂点に立ったのは、日本選手では初めてで、ミドル級の世界王者も竹原慎二さん以来、22年ぶり2人目でした。

さらに2018年4月には、日本選手として初めてミドル級での世界王座防衛に成功しました。

去年4月にミドル級の元3団体統一王者で、ボクシング界のスター、カザフスタンのゲンナジー・ゴロフキン選手との王座統一戦で敗れて以降、現役続行については「自分から求めていくことはない」などと引退を示唆する発言を続けていました。

プロとしての通算成績は19戦16勝3敗で、このうちノックアウト勝ちは13回と高いKO率を誇りました。

話題の人としてボクシング人気を盛り上げ

村田選手は、2012年のロンドンオリンピックで金メダルを獲得してからおよそ10年にわたってボクシング界の話題の中心の1人となり、ボクシングの人気を盛り上げました。

ロンドンオリンピック以降はメディアへの露出が増え、一気に知名度が高まるとそのよくとしにはプロ転向を表明。

初戦で、いきなり東洋太平洋ミドル級のチャンピオンと対戦した試合は、早速、テレビで中継されるなど人気の高さを示しました。

以降、ミドル級という、世界でも層が厚く、日本選手がなかなかチャンピオンになれない階級で、アメリカ・ラスベガスといった海外での会場も含めて外国の選手との対戦を重ね、チャンピンになるまでの試合もテレビで中継されました。

最後の試合となった去年4月のゲンナジー・ゴロフキン選手との王座統一戦では敗れはしたものの、ファイトマネーなど総額数十億円が動く、日本ボクシングで史上最大級のビッグマッチとなり、注目され続けました。

ボクサーとして活躍する一方、哲学や心理学の本を読み、みずからの人生を考えていく、その姿勢やことばも魅力の一つで、日本のボクシング界に大きな足跡を残しました。

印象的な試合の数々

村田選手は9年余りのプロ生活で印象的な試合を数多く戦ってきました。

初めて世界チャンピオンとなった2017年10月のWBAミドル級の王座決定戦は、5か月前の試合でダウンを奪いながらも判定で敗れたことに疑問の声が相次いだことから異例の再戦として行われました。

この試合では序盤から積極的に前に出てペースを握り強烈なボディーや右ストレートで追い込みました。

そして第7ラウンドが終了した時点で、相手が試合の続行を諦めてテクニカルノックアウト勝ちで雪辱を果たしました。

このあと防衛戦で敗れましたが、2019年7月にはベルトを奪われたアメリカの選手に挑戦者として臨みました。

この試合は開始直後から激しい打ち合いとなりましたが、第2ラウンドで相手が下がったところで一気にラッシュをかけてダウンを奪い、その後も攻勢を緩めずにテクニカルノックアウト勝ちをおさめてベルトを奪い返しました。

最も注目を集めたのは去年4月に行われた「日本ボクシング史上最大級のビッグマッチ」とも言われたカザフスタンのゲンナジー・ゴロフキン選手との王座統一戦でした。

ゴロフキン選手は村田選手が「憧れの存在」として尊敬する相手で、かつて3団体統一や、19回連続で王座防衛を果たすなどボクシング界屈指の戦績を誇る選手でした。

村田選手は「1ラウンド目から勝負」と序盤から積極的に仕掛けて、たびたび強烈なボディーブローも決まりペースをつかんだかに見えました。

しかし、ガードの隙間から的確にパンチを当ててくるゴロフキン選手のテクニックに徐々に主導権を奪われて、第9ラウンドに右フックを顔面に受けてリングにひざをつくとタオルが投げ込まれてテクニカルノックアウトで敗れました。

それでも、世界の第一人者を相手に粘り強く戦い抜いた姿に会場からは拍手がしばらく鳴りやまず、現役最後の試合は敗れてなお、ファンの記憶に強烈に残る名勝負となりました。

ボクシングの道に進むきっかけ 中学時代の担任は

村田選手が現役引退を表明したことを受けて、出身地の奈良からはこれまでの活躍をたたえる声が聞かれました。

このうち、村田選手がボクシングの道に進むきっかけを作った、中学校時代の担任で、今は奈良市の小学校の校長を務める北出忠徳さんは「ここまで来るのに相当な苦労やプレッシャーがあったと思う。引退はさみしいが、お疲れ様と言ってあげたい」と話していました。

村田選手がボクシングを始めたのは奈良市内の中学校に通っていたころでした。北出さんによりますと、当時、村田選手は上級生とけんかをしたり、校則に反して髪を金色に染めたりするなど少し荒れた学校生活を送っていたということです。

何か打ち込めるものを持ってほしいと考えた北出さんが、村田選手にボクシングをすすめたところ興味を示したため、近くの高校で行われていたボクシング教室に連れて行ったということです。

北出さんは、村田選手が中学校を卒業したあとも連絡を取り合ったり、試合を観戦したりして教え子の活躍を見守ってきました。

村田選手の今後について、北出さんは「次のステージでも、子どもたちに夢を与えられるよう自分の経験を伝えていってほしい」とエールを送っていました。