車いすテニス 国枝慎吾さんに国民栄誉賞授与 記念品は腕時計

車いすテニスの第一人者として、すべての四大大会とパラリンピックで優勝する「生涯ゴールデンスラム」を達成した国枝慎吾さんに17日、国民栄誉賞が授与されました。

国枝慎吾さんへの国民栄誉賞の表彰式は、17日夕方、総理大臣官邸で開かれ、国枝さんや、夫人の愛さんらが出席しました。

岸田総理大臣は「『生涯ゴールデンスラム』の達成など、前人未踏の快挙を成し遂げ、パラスポーツの社会的認知度の拡大、スポーツの発展に極めて顕著な貢献をし、国民に夢と感動、そして社会に明るい希望や勇気を与えた」と述べ、表彰状と盾を授与しました。

また、記念品として、国枝さんが選んだ腕時計が夫妻に贈られました。

国枝さんはこのあと記者団に対し「受賞が決まったときは本当に驚きました。両親や妻、コーチなど、関わってくれた方々への表彰だと思います。これでより一層パラリンピックが多くの方々に認められ、スポーツとして楽しんでもらえる環境に近づくことになるとうれしいです」と話していました。

国民栄誉賞の授与は、平成30年のフィギュアスケートの羽生結弦さんへの授与以来、5年ぶりで、個人としての受賞は27人目、パラアスリートへの授与は、今回が初めてです。

世界の車いすテニス界をリード

国枝慎吾さんは、千葉県柏市出身の39歳。

長年、世界の車いすテニス界をリードしてきた第一人者です。

9歳の時に脊髄の病気で両足に障害が残り、その2年後に車いすテニスを始めました。

2006年、22歳で初めて世界ランキング1位となり、四大大会のシングルスで歴代最多となる28回の優勝を誇るなど、前人未到の記録を次々と打ちたててきました。

パラリンピックには2004年のアテネ大会から5大会連続で出場し、シングルスでは2008年の北京大会と2012年のロンドン大会で連覇を果たし、おととしの東京大会で2大会ぶり3回目の金メダルを獲得しました。

そして去年、長年の悲願だったウィンブルドン選手権を制して、すべての四大大会とパラリンピックで優勝する「生涯ゴールデンスラム」を達成しました。

男子テニスの四大大会で通算20回の優勝を誇る元世界王者のロジャー・フェデラーさんが、「なぜ日本から世界的なテニス選手が出ないのか」と質問されたのに対し、「日本には国枝がいるじゃないか」と答えたというエピソードは有名です。

国枝さんはことし1月22日、世界ランキング1位のまま現役を引退。

先月の引退会見では「最高のテニス人生を送れた」などと笑顔で28年の競技人生を振り返りました。

原動力は“車いすテニスをスポーツに”

パラアスリートとして初めて国民栄誉賞を受賞した、国枝慎吾さん。

その原動力は、勝つことへのこだわりと、車いすテニスがスポーツとして認知されたいという強い思いでした。

国枝さんが、アテネ大会でパラリンピックに初めて出場し、男子ダブルスで金メダルを獲得した2004年。

当時は金メダルでも「(新聞の)スポーツ欄になかなか載らない時期もありました。それをどうにかスポーツとして扱ってもらいたいと思っていた」と国枝さんは振り返ります。

その頃のパラスポーツの管轄は、健常者と同じ文部科学省ではなく厚生労働省。

行政の壁に阻まれ、施設の一部を思うように使えない経験もしたといいます。

話をしてくれたのは、国枝さんが17歳の時から20年近くコーチを務めた丸山弘道さんです。

テニスの四大大会、全仏オープンで、車いすの部の男子シングルスが初めて正式種目となった、2007年。

その翌年、当時、関東で唯一、赤土のコートがあった東京 北区のナショナルトレーニングセンターで練習をしたいと申し出ました。

車いすテニスの選手が使った前例はなかったといいます。

コートでの練習は許されましたが、赤土で汚れた練習着を着替えるロッカーや、食堂を使うことは当初は認められませんでした。

丸山さんは当時を振り返って、こう話しました。

「当時は、国枝選手と『来年は着替えるところを使えるようにやっていこうぜ』とか、『来年はメインの食堂で食べられるようにしような』なんて、笑いながら話していました。僕らはそのことについて『ふざけるな』とかは一切思わず、『1年1年使えるところを増やしていけばいいんじゃないの。世の中こんなもんだよな』なんて話をしていたんです」。

2008年の北京パラリンピックと2012年のロンドン大会では男子シングルスで2連覇を達成するなど、その後も着実に実績を積み上げていった、国枝さん。

パラスポーツをめぐる環境にも変化が見え始めます。

平成26年度には(2014年度)障害者スポーツ事業が厚生労働省から文部科学省に移管されたほか、2019年にはナショナルトレーニングセンターにパラアスリート向けの施設も完成しました。

さらに、国枝さん自身も国内の男子ツアー大会、ジャパンオープンに車いすの部の導入を働きかけて2019年に実現させるなどパラスポーツの普及に力を注ぎました。

国枝さんは、先月開かれた引退会見で車いすテニスの社会的な存在を高めるために苦労したことについて尋ねられ、次のように答えています。

「目が悪ければ眼鏡をかける。僕は足が悪いから車いすでスポーツをするしかない。特別なことではないとずっと思っていて」

「パラリンピックも共生社会の実現のためと言われますが、スポーツとして感動や興奮を与えるものでないと、そこにつながらないと思っていたので、スポーツとしてのこだわりを僕自身、相当強く持ってプレーしていました。そういう意味では、相手との戦いと自分との戦い、そして、スポーツとして見られるための戦い。この3つが現役中はずっと肩にのしかかっていました」

バリアフリー環境整備の練習拠点 背中追う選手集まる

国枝慎吾さんが11歳で車いすテニスを始め、その後も練習拠点とした、千葉県柏市の「吉田記念テニス研修センター」の吉田好彦代表理事は、受賞について「当センターで練習されてきた国枝選手が国民栄誉賞を受賞されることは大変うれしく思います」と喜びを語りました。

この施設では、国枝さんなど車いす利用者の助言を受けてバリアフリーの環境整備を進めています。

一般のトイレに簡単な引き戸を設置して、車いすが十分入れる障害者用のトイレに改修したほか、車いす利用者がドアを開けやすいよう手すりを低い位置に設けたり、移動の邪魔にならないよう柱の一部を削ったりして、工夫を重ねてきました。

こうした取り組みから東京パラリンピックでは、車いすテニスのイギリス代表チームが事前合宿を行ったほか、日本代表のトレーニングセンターにも指定されました。

さらに、ことし5月には2階のフロントを1階に移して車いす利用者がより使いやすくなるよう工事を計画しているということです。

施設は、国枝さんの背中を追う選手が集まっていて、東京パラリンピック代表の眞田卓選手や荒井大輔選手など次世代の車いすテニス選手の練習拠点にもなっています。

吉田代表理事は、「これから国枝選手のような活躍を目指す選手の励みになればいいと思います。国枝選手には、今後、テニスのみならず、スポーツや地域の発展に貢献されることを期待しています」と話していました。